地方競馬 ( ちほうけいば ) とは、日本で勝馬投票券 の発売を伴う競馬 における法令上の興行形式のひとつである。本記事では日本の地方公共団体 (都道府県、市区町村)が主催する公営競馬(平地競走)について詳述しているが、外国における比較的小規模の競馬についても触れる。
平地競走のレース風景(第51回東京大賞典 、2005年 )
概要
1948年7月に制定された競馬法 の下で地方公共団体によって主催される公営競技 [ 1] であり、日本中央競馬会 (JRA)の主催する「中央競馬 」と対をなす法令用語となっている[ 2] 。2013年4月現在は14の主催者により全国17か所の競馬場(開催が行われていないものも含む)[ 1] で平地競走 とばんえい競走 が施行され[ 3] 、競馬法に基づく地方共同法人 の地方競馬全国協会 (NAR)がこれを統括する。
戦前の公認競馬 から国営競馬 を経て、政府によって出資される特殊法人 である日本中央競馬会によって施行されている現在も国庫への納付金を課せられている中央競馬に対して、現在の地方競馬は都道府県 ないしは競馬場が所在する総務大臣 が指定した市町村、または左記の地方公共団体 で構成される一部事務組合 が施行する競馬 である[ 注 1] [ 4] 。
2014年現在、日本での馬券発売を伴う競馬全体において在籍頭数のおよそ6割、競走数の約8割を占める[ 注 2] [ 5] [ 6] [ 7] 。勝馬投票券 における払戻率は70〜80%であり[ 8] [ 9] 、その収益は主催自治体の畜産の振興、社会福祉の増進、医療の普及、教育文化の発展、スポーツの振興、災害の復興に充てられるほか[ 10] 、競馬を主催していない地方公共団体に対しても地方公共団体金融機構 の貸付金利引き下げによって還元される[ 11] 。また、地方競馬全国協会を通じても広く馬の改良増殖や畜産振興のために用いられている[ 12] 。しかしながら、1990年代以降は景気後退や娯楽の多様化などによって開催成績は低迷を続け、競馬事業を廃止する自治体も現れている[ 13] 。
戦前は草競馬と蔑まれた地方競馬も、戦後の一時期は平日開催が可能でかつ開催数が多いことが追い風となり好景気を迎えたこともあった。開催数が多いことで賞金総額は国営競馬の2倍近くとなり、1950年にはダービーの有力候補や天皇賞好走馬(エゾテッサン、二着入線後に失格)が続々と地方競馬入りするといったこともあった[ 14] が、中央競馬の巻き返しにより再び人気は逆転していった。激しい淘汰の時代を経て、2011年には主催団体が15にまで減少。売り上げは3314億円まで減少した。その後2013年に福山競馬が廃止されたものの、JRAのIPAT投票での発売開始や日本経済の好転に伴って売り上げが急激に回復し、中にはバブル期を上回る過去最高の売り上げを記録する競馬場も出てきている。2022年度の全国総売上は1兆703億5968万3860円に達し、史上初めて1兆円を超えた[ 15] 。
競走馬の登録・格付け
平地最多出走回数記録を更新したセニョールベスト
競走馬の登録は地方競馬全国協会が行い[ 12] 、競走馬の格付け(クラス分け)は各主催者(地区)の区分によって行われる。格付けは各馬がレースで獲得した本賞金に各主催者(地区)が定める補正を行った番組賞金 によって定められ、各主催者(地区)とも3段階(A・B・C)の大区分を基本としているが、各主催者(地区)ごとに年齢・収得賞金・着順のポイント換算など基準は異なる。主催者(地区)によっては前述の大区分に数字を組み合わせ、「A1・A2・B1…」のように細分化されることもある[ 16] 。兵庫県競馬組合 は競走馬の格付けに独自のポイント制を採用している[ 17] 。南関東地区でも2024年1月1日から番組賞金に代わってポイント積算方式を全面導入することが発表され、2歳馬については2023年4月1日から先行導入が開始されている[ 18] 。
なお、中央競馬における初出走馬にはゲート試験が課せられているが[ 19] 、地方競馬ではそれに加えて基準タイム以上で模擬競走を走破する能力試験 [ 注 3] が行われる[ 24] ほか、転入馬や長期休養明けの競走馬には同様の調教試験 が実施される[ 25] 。
調教師・騎手・馬主
父田中道夫 と同じ勝負服を受け継いだ田中学 騎手
調教師 や騎手 など競馬関係者の免許は地方競馬全国協会より付与され[ 12] 、免許試験も地方競馬全国協会が行う[ 26] 。騎手や調教師の養成や研修を行う施設として、栃木県 に地方競馬教養センター がある(ばんえいの養成は行っていない)[ 27] 。
厩務員 はJRA競馬学校 の卒業が義務づけられている中央競馬と異なり、地方競馬の場合は特別な試験を必要とせず、厩務員を希望する者は各地方競馬の厩舎 (調教師)と直接雇用契約を結ぶ[ 26] 。近年は日本人のなり手不足が深刻になり、2018年にホッカイドウ競馬が初めて外国人厩務員の採用を解禁して以来、ほかの地方競馬でも主にインド人を中心に外国人厩務員の採用が増えている[ 28] 。
開催執務を担う人材は、各主催者の職員が地方競馬教養センター で研修を受けるなどして業務に就いているほか、主催者の要請に応じて一部は地方競馬全国協会からも派遣されている[ 27] 。
騎手は原則として必ずいずれかの競馬場の厩舎に所属することとされている[ 26] が、南関東公営競馬 (浦和・大井・船橋・川崎)と兵庫県競馬組合(園田・姫路)では、所定の要件を満たした騎手に限って特定の厩舎に所属しない「騎手会所属騎手 (中央競馬のフリー騎手に相当)」の制度を導入している[ 29] [ 30] 。また、ミスターピンクの異名で知られる内田利雄 騎手は、宇都宮競馬場 の廃止後、厩舎どころか競馬場にすら所属しない完全フリーの騎手として活躍していた時期がある。
騎手がレースの際に着用する勝負服 は、原則として騎手ごとに固有の服色(騎手服 )である[ 31] が、ホッカイドウ競馬と南関東公営競馬では例外的に馬主固有の服色(馬主服)を着用しての騎乗を認めている場合もある[ 32] 。なお、中央競馬は馬主服が原則のため、地方競馬の騎手が中央競馬で騎乗する場合も馬主服を着用する。また、地方競馬の競走馬が中央競馬で行われる交流競走(後述)に出走する際、馬主が日本中央競馬会に登録されていない場合は「交流服」と呼ばれる専用の服が日本中央競馬会より貸与される[ 33] 。
騎手は原則として所属する競馬場(地区)内のみでの騎乗となるが、2000年代以降は他地区の地方競馬で期間限定騎乗 を行ったり、重賞競走でスポット騎乗を行うなど、活躍の場が広がりつつある[ 34] 。吉原寛人 (金沢)は各地の地方競馬で重賞を勝つなど活躍し、2024年には史上初となるばんえいを除く地方競馬全14場での重賞制覇を達成した[ 35] [ 36] 。このほか、2007年に韓国競馬 へ長期遠征を行った倉兼育康 [ 注 4] を先駆者として、海外競馬への遠征を行う騎手も現れるようになった。また、多くの女性騎手が各地の地方競馬で活躍していることも特徴となっている[ 26] 。
馬主 の審査・登録も地方競馬全国協会が日本中央競馬会とは別に行っており[ 12] 、必要とされる所得額は個人馬主の場合で500万円以上となっている[ 注 5] [ 39] 。
競走・競馬番組
ばんえい競走で第2障害を越えるばん馬(第35回帯広記念 ・カネサブラック )
地方競馬スーパースプリントシリーズ の最終戦である習志野きらっとスプリント を三連覇したラブミーチャン
地方競馬の平地競走は1周850メートル以上の走路でサラブレッド系の馬によって行われ、スタートからゴールまでのスピードを競う[ 3] 。ばんえい競走は日本で生まれた独自の競走形態で、体重1トン前後の重種馬が騎手とおもりを載せた鉄製のそりをひき、途中に2つの障害(台形状の小さな山)を設けた直線200mのセパレートコースでパワーとスピードを競う[ 3] 。
地方競馬の競馬番組は「2歳」「3歳」「一般(3歳以上の古馬)」の年齢区分で番組編成が行われ、各馬の格付け(前述)に基いて出走可能なレースが決められる[ 16] [ 注 6] 。
重賞競走は各主催者(地区)が個別に定めた独自のグレード表記を行うところもある[ 40] ほか、中央競馬と地方競馬の所属に関わらず出走できるダート交流重賞は日本グレード格付け管理委員会 の承認を受けた格付表記(国際競走はG表記、日本調教馬限定競走はJpn表記)が用いられ、「ダートグレード競走 」として総称される[ 41] 。このほか、中央競馬の下級条件馬が出走する「条件交流競走」や地方競馬のみの全国交流競走、さらには地域限定の交流競走や騎手のみの交流競走も幅広く行われている[ 42] 。大井競馬場では、韓国馬事会 (KRA)との国際交流競走を2013年より2016年までの4回実施した[ 43] 。
また、複数の重賞競走をシリーズ化した競走も行われ、一部のシリーズ戦は着順に応じたポイント等で各馬の順位を決め、上位馬にボーナス賞金を与えている。全国規模でのシリーズ競走は以下の通り。
騎手交流競走には、以下のようなシリーズ戦がある。
ホッカイドウ競馬 では馬産地に近い特性を生かし、1着馬の馬主または生産牧場へ副賞として特定種牡馬 の種付権を与える「スタリオンシリーズ競走 」を行っている[ 56] 。その後、岩手や東海地区・兵庫でも「HITスタリオンシリーズ 」の名称で行われるようになった[ 57] 。また一部の競馬場では、数万円程度の協賛金と副賞を提供することで、競走の冠命名権などのサービスを含んだ個人協賛競走 を行うことができる。
表彰制度
全国規模の表彰として地方競馬全国協会がNARグランプリ を1990年度より行っている[ 58] ほか、日本プロスポーツ協会 の加盟団体として日本プロスポーツ大賞 での受賞資格を有する[ 59] 。また、南関東地区 が優秀騎手・功労調教師らの表彰を行い[ 60] 、兵庫県競馬組合 が別途年度代表馬や各部門賞を選定している[ 61] など、各主催者・地区単位でも独自の表彰制度を設けている。岩手県競馬組合 では、馬事文化賞の表彰も行われている[ 62] 。
競馬場
地方競馬を開催可能な競馬場
地方競馬を開催できる競馬場は、以下の17ヶ所[ 1] [ 63] 。ただし2024年時点で、中京競馬場、札幌競馬場は中央競馬の開催のみが行われているため実質15場である。中京は2003年以降、札幌は2010年以降は地方競馬の開催がなく、休止状態である。
地方競馬で唯一、ダートコースと芝コースを備える
盛岡競馬場
ナイター開催が行われる大井競馬場
開催回数
地方競馬は競馬法および競馬法施行規則により年間開催回数と1開催あたりの開催日数、1日あたりの競走回数が定められている。1回の開催における開催日数は6日を超えず、1日の競走回数は12を超えない。1回の開催における日取りは、連続する12日間の範囲内の日取りとする。年間開催回数については下表で定められた回数を超えない[ 64] 。ただし、施設改善もしくは公益性の高い事業に対する財源確保を目的に開催回数上限を超えて「特別競馬」を3開催(最大18日)を上限に開催することが認められている[ 65] 。
都道府県
年間開催回数
北海道 (ホッカイドウ競馬・ばんえい競馬の合計)
43回
兵庫
29回
愛知
28回
岩手、東京、石川、岐阜、佐賀
21回
高知
19回
神奈川
15回
埼玉、千葉
13回
その他の府県
4回
各競馬場の開催実績
2023年度実績(2023年4月 - 2024年3月[ 66] )
2023年度の地方競馬開催実績
競馬場
日数
増減
入場人員
総売得金
入場人員
前年比
総売得金
前年比
帯広
149
1
336,289
120.2%
55,919,951,900
100.9%
門別
82
-3
56,005
117.3%
51,081,276,330
96.9%
盛岡
66
0
101,990
95.0%
34,225,286,200
82.4%
水沢
63
0
82,720
92.3%
26,430,338,400
101.3%
岩手県
129
0
184,710
93.8%
60,655,624,600
89.7%
浦和
59
1
139,370
118.7%
70,762,855,820
106.6%
船橋
60
0
133,563
124.9%
96,208,141,670
101.6%
大井
99
2
449,021
153.1%
207,078,964,150
105.9%
川崎
64
0
215,626
149.6%
103,627,405,650
97.5%
南関東
282
3
937,580
141.7%
477,677,367,290
103.2%
金沢
88
0
159,187
94.8%
31,228,780,800
113.8%
笠松
96
-3
76,640
92.4%
44,981,520,500
105.5%
名古屋
113
0
101,663
82.7%
81,074,819,700
106.4%
園田
133
2
252,223
100.5%
99,989,125,700
98.7%
姫路
26
-4
27,444
85.5%
20,204,866,400
95.4%
兵庫県
159
-2
279,667
98.8%
120,193,992,100
98.2%
高知
109
0
89,931
117.1%
95,818,960,000
101.3%
佐賀
115
-1
306,202
106.6%
70,232,964,900
102.9%
計
1,322
-5
2,527,874
114.5%
1,088,865,258,120
101.7%
地方競馬全体の売上は1991年の9862億3944万9300円[ 67] をピークに、2011年度に3314億3768万2700円まで減少した。その後はインターネット投票の普及により売上は増加に転じ、2022年度は史上最高となる1兆703億5968万3860円となった[ 68] 。なお、インターネット投票を含む電話投票が全体の89.9%を占めている。
勝馬投票券
発売
特別区競馬組合 の場外施設・offt後楽園 (東京都 文京区 )
2015年4月現在、後述の10方式が設定されている[ 69] 。南関東 や東海・北陸といった地区単位での相互発売や広域場間場外発売の設定によって、自場以外で施行されている勝馬投票券の購入も可能である。各主催者がそれぞれ場外発売所 を設けているほか、地方競馬全国協会 と全国公営競馬主催者協議会 が出資する日本レーシングサービス がBAOO の名称で各地に場外発売所 を展開している[ 70] 。電話・インターネット投票 については、東京都競馬 によって運営されるSPAT4 、旧来の各主催者ごとの電話投票網を統合したD-net を引き継いだオッズパーク 、インターネット投票専業で新規参入した楽天競馬 が存在するほか、中央競馬の電話投票システム「IPAT」でも地方競馬の競走を一部購入可能となっている(地方競馬IPAT)[ 71] 。
発売種類
歴史
公営化以前
祭典競馬と地方競馬
昭和9年4月30日、気仙沼での花競馬の様子
日本においては中世以来、祭りの中で神社などに即席の直線馬場を設けて2頭の馬を競わせる形式の競馬が全国各地で広く行われていた[ 72] 。こうした祭典競馬 ・花競馬 と呼ばれる日本古来の競馬に対して、1860年代より横浜 や神戸 の外国人居留地 においてイギリス を起源とする西洋式の競馬が行われるようになる[ 注 7] [ 73] 。これは1870年の陸軍 による招魂社競馬 を皮切りに日本人によっても執り行われ[ 74] 、不平等条約 改正を目指す日本政府によって、日本が西洋諸国と同等の文明国 となった象徴として喧伝された[ 73] 。そして祭典競馬がその様式を模するなどして、全国各地で次第に洋式競馬が行われるようになっていく[ 74] 。
そして1910年に競馬規程 が改正された際に、祭典などの娯楽のために競馬を行うことが法的に認められるとともに[ 注 8] [ 75] 、地方長官 による許可と賞品・開催費の補助のもとで畜産組合らが競馬を施行することができるとされた[ 注 9] [ 76] [ 77] 。続く1923年の競馬法 においては政府が公認した競馬倶楽部 による公認競馬 のみが競馬を施行し馬券発売 を行うことができるとされたが、各地の畜産組合による競馬の中にも公認競馬 に倣って入場券による景品競馬 [ 注 10] のみならず、馬券の発売を実施するものが多く現れるようになる[ 78] 。しかしながら、これは同時に山師的な主催者による競馬場の過剰なまでの増加や、入場券の制限が公然と破られるなどの問題を引き起こした。そしてこうした競馬を政府の統制下に置くために、ついに地方競馬規則 (1927年 8月27日 農林 ・内務 省令 )が施行されるに至るのである[ 79] 。この中では地方長官 の許可のもとで各地の畜産組合、畜産組合連合会、馬匹改良を目的とする団体が競馬を施行することができるとされ、またその統一的な規定が定められた[ 注 11] [ 80] [ 81] 。法令用語としての地方競馬 の呼称はここに始まる[ 80] 。
1927年秋に52主催者59競馬場で始まった地方競馬は、公認競馬 を含めた競馬熱の高まりの中で順調に開催成績を伸ばしていく。公式には禁じられていたが、実際には公認競馬 との間で人馬の流動性も高かった[ 82] 。また地方競馬規則 の制定に先立つ1926年には大日本産馬会、日本乗馬協会、帝国運送協会の3団体とその関連組織が合同し、馬事関連の全国的な組織である帝国馬匹協会 が創設されていた。これが地方競馬主催者の全国的な連絡組織として機能し、馬名の登録や騎手の講習も実施している[ 83] 。
軍部の統制
錦江作戦 のため泗水 を渡河する砲兵部隊と軍馬このようにして、地方競馬はその法的な地位を得た[ 注 12] [ 84] 。一方で、これは軍馬 用途を目的とした馬匹の改良と馬事思想の普及 という国策と関連したものであり、農林省 や陸軍省 からそれ自体は軍馬には向かないサラブレッド による競馬は公認競馬 に譲り、地方競馬ではより軍馬に適したアングロアラブ ・アングロノルマン による競馬を、さらには平地競走 ではなく障害競走 や速歩競走 を行うべきという意見が当初から出されている[ 79] [ 84] 。1933年には地方競馬規則 が大幅に改正され、一定以上の売上規模がある主催者はその売上の一部を馬匹改良・馬事に関わる施設のために支出すること、出走を内国産馬 に限ること、速歩競走を重視することが定められた[ 85] 。また1936年に公認競馬 側が日本競馬会 に統合されると、相互の交流は一層厳しく統制された[ 86] 。
そして日中戦争 の勃発とそれによる軍馬需要の急激な増大を背景に、1939年 7月3日 より新たに軍馬資源保護法 が施行される。これによってそれまで地方競馬とされてきた競馬は馬券発売を認められた軍用保護馬鍛錬競走 へと移行し、「国防上特ニ必要トスル馬ノ資質ノ向上ヲ図リ軍馬資源ノ充実ヲ期スルコト 」がその目的となった[ 87] 。これによって当時100を越えていた地方競馬場の多くが閉鎖され、都道府県 ごとに存在した畜産組合連合会35団体のもとで37個へと集約される[ 86] 。売上金の一部を国庫へ納入する機能を有していた軍用保護馬鍛錬中央会 がこれを統括し[ 85] 、のちに太平洋戦争 が勃発するとこれは国家総動員法 体制下で帝国馬匹協会 、大日本騎道会とともに日本馬事会 へと統合された[ 88] 。この鍛錬競走は、いよいよ戦局が悪化する1944年末まで続く[ 89] 。
闇競馬から馬連競馬へ
第二次世界大戦 終結後、軍馬資源保護法 ならびに国家総動員法 が廃止されたことで、地方競馬はその法的根拠をふたたび喪失した。しかしながら、早くも1945年秋には静岡県 で法的根拠を持たない闇競馬 が行われるや、地方競馬の開催を望む機運は全国へと波及していく[ 90] 。また1946年春になると、農林省 ら中央政府の黙認下で地方長官 の認可と条例をもとに競馬を施行し、その売上の5%前後を戦災復興や海外引揚者への支援金のため地方自治体へ寄付する事例も多く見られるようになった[ 注 13] [ 90] 。また北海道においては、進駐していたアメリカ軍第11空挺師団がアメリカ独立記念日 を祝うために競馬の施行を北海道馬匹組合連合会に要請。1946年7月6日から進駐軍競馬 として競馬が再開されることとなり、札幌 、函館 、室蘭 の3都市で施行されている[ 注 14] [ 91] [ 92] [ 93] 。
そして1946年11月20日、ようやくこの無法状態に終止符を打つべく地方競馬法 が施行される[ 94] 。これは戦前の地方競馬規則 と同様に馬匹組合・馬匹組合連合会が競馬を施行することを認めるものであり[ 注 15] [ 94] 、その中央団体として中央馬事会 が置かれた。鍛錬競走時代に引き続き馬券の発売も認められたほか、配当の上限も従来の10倍から100倍へと引き上げられている[ 94] 。また戦前に引き続きサラブレッド ・アングロアラブ ら軽種馬を中心としていた日本競馬会 に対し、各地の農業生産と密着した実用馬を用いることが打ち出され[ 注 16] [ 94] 、民主化 の世相を反映しその収益の使途も各馬匹組合連合会および中央馬事会 の裁量に任されていた[ 95] 。しかしながらこれらの馬連競馬 は闇競馬時代からの連続性が強く、また敗戦直後の社会情勢もあって競馬場での騒擾事件が頻発する[ 94] 。
GHQと競馬法成立
GHQ が使用していた第一生命館
1947年7月、連合国軍最高司令官総司令部 より日本競馬会 及び上記の中央馬事会 、馬匹組合連合会が、「競馬事業を独占している独占機関である 」との通告がもたらされる[ 注 17] [ 85] [ 96] 。GHQが志向していたであろう完全な民営化、そしてそれがもたらすと考えられた反社会的勢力 の競馬へのさらなる蔓延を防ぐため、同年12月23日の閣議決定において、従来の公認競馬 は国営化 、馬連競馬は公営化し都道府県 にこれを委ねることが決定された[ 96] 。各地の馬連は1948年春の開催を強行するなどの抵抗を続けたが解散・資産の委譲を迫られ、中央馬事会 も1948年7月に解散を余儀なくされる[ 97] 。
そして1948年7月、競馬法 が成立。これによって馬連競馬の資産及び開催権は都道府県 、競馬場が所在する市町村 、そして地方財政委員会 が別途指定した戦災復興の中で自主財源不足に苦しむ市町村 へと移り、地方競馬は現在まで続く公営競技 へと大きな転換を果たすこととなる[ 98] 。
公営化後
戦後派として
ハイセイコー 像(北海道新冠町)
競馬法 が施行された1948年、公営競技 へ移行し競馬 を施行した地方競馬場は全国で61箇所存在した[ 99] 。だが当然ながら、公営化によって当時の地方競馬が抱えていた問題が一挙に解決するはずもない。馬資源の不足は深刻であった。中間種 が競走に盛んに用いられ、馬籍登録を偽った競走馬が蔓延したほか、北海道 では輓馬 を平地競走 で走らせるような奇策すら取られた[ 100] 。また競馬法 が成立したのとほぼ時を同じくして、自転車競技法 が国会を通過。11月には小倉競輪場 で日本初となる競輪 が開催されると、この戦後生まれの公営競技 は大衆から爆発的な人気を獲得する。その後も1950年には小型自動車競走法 によってオートレース が、1951年にはモーターボート競走法 に基づき競艇 が開始され、それぞれ順調に売上を伸ばしていった[ 101] 。一方で戦前以来の旧態依然とした施設に頼る各地の地方競馬場は開催成績が低迷し、急速にその数を減らしていく[ 注 18] [ 102] 。
こうした中にあって、いち早く隆盛を見せたのは関東地方の競馬場だった。1947年の浦和競馬場 を皮切りに、のちに南関東公営競馬 を構成する4競馬場は交通の利便性が高い土地へと移転を進める。これによる順調な売上の増加を背景にスターティングゲート の導入や大井 による豪サラ 輸入のような先進的な施策を進め、国営 ・中央競馬 へ移籍し大競走を制しうるような名馬が数多く現れるに至った。なによりもアングロアラブ 競馬においては、質・量ともに国営 ・中央競馬 を凌ぐ堂々たる繁栄をみせている[ 103] 。また、北海道 ではその地理的条件から、道内の各競馬場を人馬ともに関係者が渡り歩くジプシー競馬 とも呼ばれる興行形態が長く残った[ 注 19] [ 104] 。ばんえい競馬 が公営競技として根付きはじめたほか[ 注 20] [ 105] 、戦前以来の十勝 におけるアングロノルマン 生産を背景に[ 注 21] 、速歩競走 が1960年代初頭まで重要な地位を占めた[ 106] 。関西方面へ目を移すと、大井 と同じく豪サラ を導入した兵庫競馬 は、その扱いに慣れないところにコースの手狭さもあって故障馬が続出。頭数の少なさから競走が成り立たず、みすみす国営競馬 への流出を許してしまった経験から[ 107] 、以後はアングロアラブ 専業の競馬場としてアラブのメッカ への道を歩む[ 108] [ 109] 。大阪競馬場 ・春木競馬場 では障害競走 が人気を博し、紀三井寺 は北海道を始めとする冬期休催競馬場の出稼ぎ先として独自の存在価値を見出した[ 110] 。そのほかの地区においても徐々に施設の近代化が図られ[ 111] 、1970年には大井競馬場 でのちに中央競馬 へ移籍すると社会現象を巻き起こすハイセイコー がデビューを迎える。このアイドルホースの登場による第一次競馬ブーム によって、全国的に開催成績も上向いていった[ 112] 。
ただし、長沼弘毅 を委員長として1961年2月に組織された公営競技調査会 の答申は大筋として公営競技 の現状維持を定めるものであったが、その中では馬・馬主の登録や地方競馬の騎手免許、専門職員の養成・派遣を全国一元的に統括するとともに、その利益を広く畜産振興のために還元する組織を設立することが求められていた[ 注 22] [ 113] 。これを受けて1962年に特殊法人 である地方競馬全国協会 が設立され、競走馬 の登録や騎手 ・調教師 免許の管理は各主催者からこちらへと一元化されている[ 114] 。1963年には新人騎手などの育成を行うために、栃木県 那須塩原市 に地方競馬騎手教養所 が完成した[ 114] 。
黒い霧の時代から改革へ
トゥインクル開催の大井競馬場 パドック
一方で、戦後直後の社会情勢下で公営の競馬を開催するにあたっては、必然的に地元のボス たちとの接触が不可欠である[ 115] 。兵庫のように馬主らによって組織された振興会が競馬の開催業務に深く関わるなど、公営化されたといっても組織としての透明性が長らく不十分な地域も存在した[ 116] 。騎手や調教師、厩務員への反社会的勢力 の浸透も避けられず、1960年代から1980年代にかけて競馬法 違反容疑で逮捕・追放された事例は全国的に数多い。競馬場内におけるノミ屋 ・コーチ屋 の跋扈も問題であった。また黒い霧事件 を契機に一般社会においても注目を集めた公営競技 を取り巻く黒い影の存在は、少しでも怪しい競走が行われた場合に、ファンが八百長 を声高に叫び容易に暴徒化する環境を生み出していく[ 117] 。とりわけ、その被害規模の大きさに加えて著名馬が関係していたこともあって、園田事件 は現在に至るまでも語り継がれ、兵庫県競馬組合 の運営に影を落としている[ 118] [ 119] 。革新自治体 における公営競技 に対する風当たりも激しく、1964年に大阪競馬場 、1974年に春木競馬場 が廃止されているほか[ 120] 、大井競馬場 においても1972年度をもって東京都 が開催権を返上し、特別区競馬組合 単独での主催となっている[ 121] 。道営競馬 にて、1人当たりの馬券購入額を5000円に制限するような奇策が採用されたことすらあった[ 注 23] [ 122] 。
そしてオイルショック 後の社会情勢も影響し、1970年後半に入ると地方競馬の開催成績はふたたび全国的に伸び悩む[ 123] 。公営競技 としての財政貢献もままならないとなれば、各地で競馬場の存廃までも含めた議論が進められることになった[ 124] 。そして1980年代中ごろから、それぞれの主催者が智恵を絞り、様々な振興策を打ち出していく。ただでさえ減少した入場者を不快にすること甚だしかったノミ屋 ・コーチ屋 は、1985年からの全国的な清浄化作戦によって競馬場内から可能な限り閉め出された[ 125] 。顧客の利便性を高めるために、電話投票の導入や昼休みのサラリーマンを狙った外向き発売口の設置、県内・地区単位での相互場外販売の試みが始まったのもこの時期である[ 126] [ 127] 。中でも岩手県競馬組合 は最新鋭の映像伝送システムを駆使したテレトラック と呼ばれる場外網を構築し、急激に売上を伸ばしていった[ 128] 。1986年には、大井競馬場 において日本初となるナイター競馬 トゥインクルレース が行われている[ 129] 。それでも、大胆な振興策を実施するだけの体力を有していなかった主催者の開催成績は低迷し、なかでも1988年には紀三井寺競馬場 が廃止へと追い込まれている[ 130] 。
また、古くから各地の競馬場間を移籍する馬は数多く存在したが、他地区との間で直接の交流はほとんどないに等しかった。それが、1972年に南関東 におけるアングロアラブ 古馬最高の競走であったアラブ大賞典 が全日本アラブ大賞典 として、翌1973年には園田競馬場 で3歳馬の楠賞 が楠賞全日本アラブ優駿 として、それぞれ地方競馬全国交流競走化を果たす。これによって、各地区の代表馬がそれぞれのプライドを賭けて、鎬を削り合う舞台が産まれることになった[ 131] 。中央競馬 との間でも1973年より中央側で地方競馬招待競走 が、大井競馬場 で中央競馬招待競走 が隔年で交互に施行されていたが、1986年からは帝王賞 が距離を2000mに短縮された上で、中央競馬招待・地方競馬全国交流競走となった。中央競馬 側でもオールカマー が開放されたほか[ 注 24] 、ジャパンカップ にも地方競馬所属馬の招待枠が設けられていた時期があり、1985年には船橋 所属のロツキータイガー が2着と健闘している[ 131] 。
オグリキャップの登場と交流元年
2000年のフェブラリーステークス に出走した際のメイセイオペラ 。鞍上は菅原勲 騎手
1987年、笠松競馬場 でのちに第二次競馬ブーム を牽引するオグリキャップ がデビューを迎える。これ以前から続いていたバブル景気 による経済状態の好転もあって、地方競馬の開催成績もようやく上向きをみせた[ 132] 。1989年には生産者らの団体が主体となって、ホッカイドウ競馬 にてブリーダーズゴールドカップ が設立されている[ 133] 。また騎手招待競走 のような企画・交流競走も華々しく行われ、1988年には兵庫県競馬組合 が通算2000勝以上の名手たちが高額賞金を賭けて戦うゴールデンジョッキーカップ を創設[ 134] 。1989年から1993年にかけては、国外からも招待騎手を招いたインターナショナルクイーンジョッキーシリーズ が開催されている[ 注 25] [ 135] 。各主催者だけでなく、地方競馬全国協会 も1990年からは地方競馬全体の表彰としてNARグランプリ を開催し、従来の機関誌『地方競馬』が一般競馬ファンも対象とした『Furlong 』へと衣替えするなど、時代に合わせた広報活動へと転換していく[ 136] [ 137] 。
一方で、オグリキャップ やオグリローマン 、イナリワン のような傑出馬を輩出しながらも、活躍の場を求めて中央競馬 への移籍を許してしまったことは、地方競馬関係者からすればその心境は複雑であった。また、中央競馬 の側も国際化な日本競馬の地位向上において、地方競馬との協調を進める必要に迫られたことから[ 注 26] [ 138] 、1995年より中央競馬 と地方競馬の間で交流元年 と呼称される、相互交流の大幅拡大が実施されることになった[ 注 27] [ 139] [ 140] 。多くの地方競馬場にて中央競馬所属馬が出走可能な指定交流競走 と[ 注 28] [ 141] 、日本中央競馬会 が賞金の90%を援助し、1着馬に中央競馬 で施行される条件戦のうち特別指定競走 への出走権利を付与するとともに中央競馬 への転入を優遇するJRA3歳認定競走 が設けられた[ 142] 。また、各ブロックの代表選定競走を勝利するなどした馬には中央競馬 の最高格付け競走たるGI競走に向けた前哨戦への出走権が与えられ[ 注 29] 、さらにはそこで好走することでGI競走本体へも出走する道が開かれた[ 143] 。果たして、この交流元年初年度から笠松 所属のライデンリーダー が、桜花賞 のトライアル競走 である4歳牝馬特別 で勝利。本番の桜花賞 こそ4着だったものの、中央競馬 の3歳牝馬クラシック3戦全てに出走を果たしている[ 142] 。1996年には日本中央競馬会 、地方競馬全国協会 、全国公営競馬主催者協議会によってダート競走格付け委員会 が組織され、翌1997年より中央競馬 ・地方競馬を横断した重賞競走の格付けであるダートグレード競走 制度が導入された[ 141] 。2001年からは、全国の地方競馬場での持ち回り開催となるJBC競走 が創設されている[ 144] 。
そして1999年、中央競馬 の東京競馬場 で開催されたフェブラリーステークス を岩手 所属のメイセイオペラ が制し、地方競馬所属馬による中央競馬開催GI初制覇を達成した。同年にはレジェンドハンター がデイリー杯3歳ステークス を逃げ切り、本番の朝日杯3歳ステークス でも2着[ 145] 。2004年にはホッカイドウ競馬 で認定厩舎制度 を利用したコスモバルク が、中央3歳牡馬クラシック戦線 へ有力馬の1頭として参戦し人気を集めた。その後も果敢に芝路線への挑戦を続け、シンガポール のクランジ競馬場 で開催された国際GIであるシンガポール航空インターナショナルカップ を制する快挙を成し遂げている[ 146] 。
相次ぐ危機
地方競馬の開催成績が最初のピークを迎えた1980年を100とした場合の、地方競馬全体・中央競馬・地方競馬各地区の1985年・1991年・2000年・2008年の開催成績。1980・1985年分の地方競馬開催成績については年度単位。2008年の地方競馬開催成績は、廃止された競馬場も含まれる
中央移籍後、2011年の桜花賞 を制した際の安藤勝己 騎手
しかしながら、バブル崩壊 後の経済情勢は、地方競馬の開催成績を直撃した[ 132] 。1991年に9862億円でピークを迎えた地方競馬全体の売上は、2000年には5605億円まで激減する[ 147] 。巨額の累積赤字を積み上げた各地の主催者は一転して賞典費を始めとする経営コスト削減に回るが、それが馬資源の流出や厩舎関係者の士気低下を招くことで競走自体の魅力が乏しくなり、ますます開催成績が悪化するという悪循環に陥っていった[ 148] 。また、中央・地方併せて2001年には46競走まで拡大したダートグレード競走 だが、その賞金水準の高さに比して売上額は芳しくなく、地方競馬にとってのカンフル剤とはならなかった[ 149] 。高崎競馬場 や新潟公営 などでは入場者数増加の振興策の一環として、日本中央競馬会 の場外勝馬投票券発売所 を場内で併設することが行われた。だがその結果として、目の前で行われている生の競走ではなく、僅かな手数料収入しか得られない中央競馬 の中継映像へ多くの顧客が群がるという、悲劇的な光景も見られたという[ 150] [ 151] 。
また、西日本を中心に専業の競馬場も存在するなど、長らく地方競馬の歴史を支えてきたアングロアラブ 競馬だが、1995年の中央競馬 における廃止に続いて、1980年代から在厩数の減少に悩んでいた南関東 の競馬場がその廃止を決定する[ 152] 。交流元年後はサラブレッド による相互交流の機運が高まったこともあって、アラブのメッカを誇った兵庫県競馬組合 も1999年にサラブレッド の導入を発表[ 153] 。最終的に、2009年9月27日に福山競馬場 で施行された「開設60周年 アラブ特別レジェンド賞」をもって、日本国内におけるアングロアラブ系単独競走は姿を消している[ 154] 。
そして2001年、大分県の中津競馬場 が、21億円の累積赤字を理由に廃止されることが主催者の中津市 より発表される[ 13] 。その後、中津競馬場 では廃止に伴う競馬場関係者の補償金を巡って労働争議が紛糾するが[ 155] 、ともかくもこの中津 を皮切りとして、全国的に競馬主催者の撤退が相次いでいった[ 13] 。翌2002年8月には日本一小さな競馬場として知られた島根県 益田市 の益田競馬場 が廃止となり[ 156] 、2003年から2006年にかけて足利 ・高崎 ・宇都宮 の北関東公営競馬 が壊滅[ 157] 。東北地区では、2002年にすでに前年より三条競馬場 での開催を中止していた新潟県競馬 が完全に廃止され[ 150] 、翌2003年には作家山口瞳 が愛したことで知られた上山競馬場 からも競走馬が姿を消した[ 158] 。かつては地方競馬の優等生 と謳われた岩手競馬 すらも、開催成績の低迷に加えて、1996年に移転した新盛岡競馬場 の建設費を巡る巨額の債務によって破綻的な経営状況へと陥り、2007年には一時廃止が確実視された[ 159] 。1989年より4市による北海道市営競馬組合 として主催されてきたばんえい競馬 についても、2006年に帯広市 を除く構成地方公共団体 が撤退し、単独の開催へ縮小することで辛くも存続している[ 160] 。
また、地方競馬から中央競馬 の競走への遠征馬に騎乗する騎手は当日の他の競走にも騎乗できたことから、地方競馬の名手たちが中央競馬においてもその腕前を披露する機会を得ることになった。そして地方競馬の未来がかくも不安定な状況にあっては、一般的な注目度・金銭的な待遇ともに恵まれた中央競馬 への移籍を望む騎手が現れることも自然な流れである。2001年、長らく笠松競馬場 のリーディングジョッキーとして知られた安藤勝己 が、中央競馬 の騎手免許試験を受験することを発表した。この年こそ一次試験で不合格となったが、すでにその実力が中央競馬 のファンにも知れ渡っていた安藤勝己 が免許を取得できなかったことは各方面からの非難を呼んだ。そして翌2002年には通称アンカツルール と呼ばれた「過去5年間に中央競馬で年間20勝以上の成績を2回以上挙げた騎手 」の一次試験を免除する規定が設けられたこともあって、見事に合格。地方競馬全国協会 は騎手免許の中央・地方重複所有を監督官庁である農林水産省 へ要請したが認められず、2003年3月より安藤勝己 は中央競馬 所属騎手として再出発を果たした。以後も各地区のリーディング級騎手による中央競馬 騎手免許試験の受験が相次ぎ、また地方競馬内でも比較的余裕のある競馬場への移籍を望む事例がみられるようになった[ 34] 。
生き残りに向けて
門別競馬場 のポラリスドーム
2004年、疲弊する地方競馬を中心とした日本競馬の構造改革を目指して競馬法 が改正され、勝馬投票券発売業務を始めとする競馬の実施にあたる業務の大半を民間業者へ委託可能となった[ 161] 。そして早速、2004年限りでの廃止が決定していた高崎競馬場 について、当時新進気鋭のIT系若手経営者として知られ、熱心な競馬ファンでもあったライブドア 社長堀江貴文 が、インターネット を通じた馬券発売を中心とした再建策を持ち上げる[ 注 30] [ 162] 。2005年には、ソフトバンク の子会社であるソフトバンク・プレイヤーズが、日本レーシングサービス が所有していた南関東 を除く地方競馬の統合電話投票 システムであるD-net を買収し、翌2006年4月よりオッズパーク としてリニューアル[ 163] 。同社はまた、帯広市 主催のばんえい競馬 の一部業務委託も2011年度まで担っている。一方で南関東公営競馬 は東京都競馬 がシステムを管理する自前の電話投票 システムSPAT4 を有していたが、別途2006年3月末に楽天 との間でインターネット を通じた勝馬投票券発売業務の提携を発表。他の主催者もこれに追随し、2007年2月より楽天競馬 として業務を開始した[ 163] 。
こうした勝馬投票券発売業務の委託は10%以上の高額な手数料による収益性低下の問題を孕んでいたものの、その利便性の高さから総売上に占める電話投票の割合は着実に増加していった[ 163] [ 164] 。なかでも高知県競馬組合 はハルウララ の登場と関係者の必死の努力によってギリギリで廃止を免れる状況が続いていたが、インターネット投票の顧客を狙って2009年より冬期も含めた通年ナイター開催である夜さ恋(よさこい)ナイター を開始。後述する日本中央競馬会 の電話投票 システムでの発売もあって、大きく経営を安定化させることに成功している[ 165] 。このようにナイター開催化の流れは全国的に顕著であり、同じく2009年から門別 もナイター化し[ 166] 、2012年からは園田競馬場 も限定的ながらナイター開催を行っている[ 167] 。こうした中で地方競馬の開催成績は2000年代半ばから微減で推移してきたが、それでも2011年には荒尾競馬場 が[ 168] 、2013年には福山競馬場 が廃止となった[ 169] 。
2000年代の後半に入るとインターネット発売や広域場間場外発売の拡大もあって、従来から進められていたダービーWeek を始めとする全国規模のシリーズ競走の企画運営や交流競走路線の整備が、一層の進展を見せてきた。また小泉構造改革 に伴う特殊法人 改革によって、地方競馬全国協会 は2008年より地方共同法人 へと移行する。この際にその業務に「競馬活性化事業及び競走馬生産振興事業に対する補助 」が加えられ、農林水産大臣 の認可を受けた認定競馬活性化計画 に基づき、地方競馬全国協会 が各主催者や業務受託業者を支援することが可能となった[ 170] 。そして日本中央競馬会 からの交付金も用いて整備が進められた地方競馬共同トータリゼータシステム によって[ 171] 、2012年10月からは地方競馬IPAT として中央競馬 の電話投票 システムを通じた地方競馬の発売を開始[ 71] 。また同じシステムを通じて地方競馬場やその場外勝馬投票券発売所 で中央競馬 の馬券を発売するJ-PLACE も拡大し[ 注 31] [ 172] 、その手数料収入が一部の地方競馬主催者にとっては重要な収益の柱となっている[ 173] 。
これらの施策が実を結び、地方競馬の売上は下げ止まりの傾向を示している[ 174] 。川崎競馬では平成25年(2013年)度の一般会計決算で累積赤字をすべて解消し黒字に転じた[ 175] ほか、ばんえい競馬も平成25年(2013年)度・平成26年(2014年)度の2年連続で売得金(売上)が前年度比110%以上となっている[ 174] [ 176] [ 177] 。
また、長年下落傾向にあった競走賞金も徐々に回復に転じ、各競馬場において重賞競走の新設や賞金増額などの施策が講じられるようにもなった。
ダート体系整備
2022年 、JRAと連携して大規模なダート競走の大規模な体系整備が2023年 より実施されることが発表された。[ 178] 中央馬に対する地方馬の戦力の増強、ダートグレード競走の国際格付け取得が最終的な目標とされている。[ 178]
整備内容 [ 178]
3歳ダート三冠として、羽田盃 ・東京ダービー ・ジャパンダートクラシック (前身ジャパンダートダービー)の3競走をGI級レースとして整備、不来方賞 の新設を含めるトライアルレースの設定をする。また、3歳(牝馬)三冠や春秋古馬三冠と同様特別賞が設定されており、8,000万円の賞金が贈られる。
詳細は3歳ダート三冠 を参照。
3歳馬の春季短距離路線の頂点を決める競走として、兵庫チャンピオンシップ を1,400mに変更。
兵庫チャンピオンシップに向けて、2歳秋を対象とした8地方競馬場での競走、3歳秋を対象とした4ブロックでの競走をダート短距離の重賞級認定競走ネクストスター として設定する。また、これらの競走は地方競馬所属のみが参戦が可能となる。[ 注 32]
詳細はネクストスター (競馬の競走名) を参照。
2歳馬競走に対する変更は2023年、3歳馬や古馬競走に対する変更は2024年から適応される。
また、地方馬の戦力の増強を目的とした、上記以外にも本賞の増額や競走体系・負担重量の整備、優勝馬への報奨金などのダートグレード競走への奨励策、国際競走化やより上の格付け取得、レースレーティングの向上を目的とした、海外出走馬の受け入れ体制の整備などが施行される予定であり、2028年から段階的にダートグレード「Jpn」の廃止も行われる。
こういった改革を受けて各地域の競馬運営組織でも競走の見直しが行われており、近辺地域における3歳秋の頂点決定戦だった岩手のダービーグランプリ の終了や兵庫地域では兵庫三冠 競走を再編して、西日本クラシック を新設することが発表されている。[ 179]
GI・JpnI競走
以下の表は2024年度それぞれの格付けの施行順となっている。
GI
競走名
備考
出走可能性齢
1
東京大賞典
1年を締め括る総決算
3歳以上
JpnI
※川崎記念は2024年度より開催時期を4月上旬に移設[ 180] 。
※羽田盃・東京ダービーは2023年まで南関東重賞格付けにおいてSIであった。また、さきたま杯がJpnIに昇格するため南関東全ての競馬場にJpnIが定められる。
※ジャパンダートクラシックは2023年まで「ジャパンダートダービー」の名称で7月に開催されていたが、ダート三冠路線整備に伴い現名称に変更の上、10月上旬に移設。
JBC競走
日本国外における地方競馬
上述の通り、地方競馬とは日本国内における法令用語である。だが、日本国外の競馬についても、その施行形態や開催規模などによって、地方競馬に近い形で呼ばれているか、翻訳・紹介にあたって地方競馬の語を充てる事例が存在する。これは必ずしも、日本における地方競馬と質的に同等というわけではない。
フランス
フランスの競馬 においては、フランスギャロ とシュヴァルフランセ によって施行されるパリ 地区を除く、地方競馬協会(Société de courses de Province)が施行する競馬が地方地区(地方競馬)とされる。全国に200を越える地方競馬協会が存在し、その施設は多くの場合地方自治体 の所有である。全国で10個の地方連合会によって束ねられたこれらの地方競馬は、パリ 地区も含めた全国組織であるフランス競馬全国連合を通じて、審判や発走などの開催執務を担う人員や放映機材の支援、フランス場外馬券発売公社 (PMU)の収益からの資金援助を受ける[ 注 34] 。一方で、PMU での発売を受けられない零細地方競馬協会については開催成績が低迷し、競馬を廃止する地方自治体も現れている[ 181] [ 182] 。
オーストラリア
オーストラリアの競馬 は連邦 を構成する各州及び特別地域 ごとに根拠法が制定され、それに基づいて大小数百の競馬主催者が存在している。これはその賞金額などによって3つのカテゴリーに分類され、上からそれぞれ都市競馬(Metropolitan)、地方競馬(Provincial)、田舎競馬(Country)と呼ばれている。ただし、カテゴリーの間で相互の出走の制限などは存在せず、あくまで主催者の相対的な位置付けに過ぎない[ 183] [ 184] 。
南米諸国
ウルグアイ には14の競馬場が存在するが、そのうち首都モンテビデオ 郊外に存在するマローニャス競馬場(Hipódromo de Maroñas )以外の競馬場を地方(Interior)とする[ 185] 。チリの競馬 においては、各競馬主催者は法的には同等であるが、記録・統計上は首都サンティアゴ の2団体とビニャ・デル・マール に存在するバルパライーソ・スポーティングクラブの3主催者が中央、それ以外は地方とされる[ 186] 。
テレビ番組
脚注
注釈
^ 甚大な戦災・天災被害を被った地方公共団体も競馬を施行することができるほか、特別区 については例外措置として総務大臣の指定市同等として扱われる。
^ 地方競馬側はばんえい競馬のものも含める。
^ ばんえい・岩手では「能力検査[ 20] [ 21] 」、ホッカイドウ競馬では「競走能力・発走調教検査[ 22] 」、大井では「能力・調教試験[ 23] 」と呼称され、主催者により名称は異なる。
^ 倉兼はその後も遠征を繰り返し、2014年にはソウル競馬場 の最優秀騎手に選出されている[ 37] [ 38] 。
^ そのほか、所得が500万円以下の場合でも、資産の状況などによっては登録となる場合があるとされている[ 39] 。
^ ばんえい競走においては、「2歳」「3歳」「3歳以上」ではなく「2歳」「3・4歳」「3歳以上」の区分が用いられる。ばんえい競走#公営競技のクラス編成 を参照。
^ これを居留地競馬 と総称する。当該項目も参照。
^ 「第一条 競馬ハ民法第三十四条ニヨリ設立シタル競馬会ニアラザレバコレヲ行ウコトヲ得ズ但シ祭典等ニ際シモツパラ娯楽ノタメニスルモノハコノ限リニアラズ」。
^ 「畜産組合法ニヨル組合マタハ馬匹ノ改良増殖ヲ目的トスル団体ハ前各条ニヨラズ地方長官(東京ニアリテハ警視総監)ノ許可ヲ得テ競馬ヲ行ウコトヲ得前項ノ競馬ニシテ第五条、第九条、第十四条乃至第十六条ノ規定ヲ準用スルモノニアリテハ地方長官ノ請求ニヨリ必要ト認ムルトキハ馬政長官ハ開催補助金マタハ、賞金、賞品モシクハ賞状ヲ下付マタハ授与スルコトヲ得」。当時は馬券発売が禁止された「補助金競馬 」の時代であるため。
^ 入場券に付属する投票券の投票をもって馬券に替え、的中者に景品を贈呈するシステム。1競走につき1枚が原則とされ、客は2レース以上購入する場合いったん退場し再度入場券を購入し直す建前となっていた。
^ これはコースを1周1000m以上の円周形に限るなど、施設面で相応の高い水準を要求する物であった。そのため従来の祭典競馬の中には、「地方競馬」の範疇外でその後も継続して行われたものも多い(「地方競馬規則第30条」には、祭典のための競馬はこれを適用しないとの規定がある)。山陰地方においては、1960年代までその事例が確認されている。また、ばんえい競馬は未だ地方競馬の範疇には含まれることなく、草競馬の形態を余儀なくされた。なお、宮城県における花競馬 も参照 。
^ ただしその根拠が法律でなく省令に留まったことから、馬券発売が不可能であるなどの不満は残った。そのため一部の有力地方競馬場の関係者はしばしば「地方競馬法」の制定を求める陳情を行うこととなる。
^ 後述する地方競馬法が議案を通過してから実際の施行までの2ヶ月余りの間に、こうした闇競馬はさらに急増した。
^ こうした進駐軍の関連した闇競馬開催は、岡山県 におけるイギリス軍の事例、岩手県 における一條友吉 による競馬再開の動きなど、全国で複数例が確認できる。
^ 当初は北海道内3カ所、他の都府県で1カ所のみに制限されていたが、1947年の改正で倍増された。
^ これに付随し、従来の駆歩、速歩、障害に加えて輓曳 が法的にその地位を認められた。
^ 日本馬事会らが戦前の軍馬養成のための国策機関であったことも影響したとされる。
^ 奈良競馬場 のように、競輪場へ施設が転用された事例も存在する。
^ 競馬関係者とその家族にとってこうした根無し草のような生活は負担が重く、のちの門別軽種馬トレーニングセンター 開設へと繋がる。
^ 草輓馬時代の円形コースから、直線コースへの転換が代表。とはいえ、創成期のころのばんえいは専業者は馬・騎手共に1割ほどで、残りは農業・運搬従事者の副業や家畜商が主だった。完全なプロ化を達成するのは1970年代まで待たねばならない。
^ 戦後はスタンダードブレッド が用いられた。
^ そのほか、競馬場の所在地でない市町村の戦災指定市が有していた開催権の廃止が答申され、数度の延長を経ながら1968年をもって廃止されている。
^ ただし現場における実効性は薄く、数年で廃止となっている。
^ 1986年には愛知県競馬組合 所属のジュサブロー が、1991年には大井競馬場 所属のジョージモナーク が制している。
^ 益田 の吉岡牧子 騎手が1989〜1991年と3年連続で総合優勝を果たしている。
^ その一例として、中央競馬 単体で競走数全体に占める重賞競走の割合の高さが問題となったこと、上限のある競走数に対して競走馬数の増加が限界に達していたことが挙げられる。
^ ただし、これ以前にも1992年よりローカル競馬場でオープン特別の地方競馬招待競走 が新たに設けられ、1994年には新設されたダート重賞である平安ステークス が地方競馬招待競走に指定されるなど、中央競馬 側の解放は断続的に続いていた。愛知県競馬組合 所属のトミシノポルンガ がテレビ愛知オープンを勝ち、平安ステークスでも3着となっている。
^ 交流競走補助金として、日本中央競馬会 より本賞金総額の50%が交付される。
^ 一部のブロックは、選定競走を経ずに直接出走が可能だったほか、東京優駿 と優駿牝馬 については、皐月賞 ・桜花賞 4着以内で出走権を得ることができる。また、宝塚記念 は地方競馬側から候補馬を推薦したうえで、日本中央競馬会 側の推薦委員会に委ねるとしている。有馬記念 については、GI競走3着以内の戦績が求められていた。
^ この再建計画それ自体は、競馬主催者である群馬県 によってその見通しの甘さを指摘され採用には至らなかった
^ 同じ地方競馬の施設を使用する場合でも、中央競馬のシステムに直接接続する場合はWINSとして扱われている。
^ ダート適性馬の地方競馬への早期入厩を促進を目的としている。
^ 前者は3歳馬の短距離路線賞金獲得の機会増加、後者は2歳馬短距離路線の充実を目的としている。
^ フランスにおいては、パリ地区・地方地区の別なく場内と場外における馬券の発売をそれぞれフランス場内馬券発売公社(PMH)とPMU が担っている。なお、地方地区への競馬生産協同基金には、パリ地区での収益が含まれる。
出典
^ a b c 地方競馬とは - 地方競馬全国協会、2020年2月2日閲覧
^ 「競馬法」第1条第5項
^ a b c 地方競馬で開催されている競走 - 地方競馬全国協会、2020年2月2日閲覧
^ 「競馬法」第1条第2項
^ JRA, 競走馬登録頭数 (PDF ) (2014年11月24日閲覧)。
^ JRA, 競走回数 (2014年11月24日閲覧)。
^ Keiba.go.jp, 地方競馬全国協会平成25年度事業報告書 (PDF ) (2014年11月23日閲覧)。
^ Keiba.go.jp, 地方競馬の払戻率の設定について (2014年11月23日閲覧)。
^ 「競馬法附則抄」第4条
^ 「競馬法」第23条第9項
^ 地方公共団体金融機構、「公営競技納付金 」(2015年2月15日閲覧)。
^ a b c d Keiba.go.jp, 地方競馬全国協会 概要 (2020年2月2日閲覧)。
^ a b c 地方競馬史5 2012 , pp. 151–153
^ 「国営を追い越す地方競馬 ファンの人気移る 有力馬も続々登録替え」『日本経済新聞』昭和25年11月17日
^ 22年度の地方競馬総売得金が初の1兆円超え、1日平均の8億円も過去最高記録を更新 - 日刊スポーツ、2023年3月31日、2023年4月1日閲覧
^ a b keiba/go.jp、「FAQ 地方競馬における競走馬の格付け(クラス分け)について教えて! 」(2015年2月17日閲覧)。
^ sonoda-himeji.jp「レースランク表 」(2015年2月17日閲覧)。
^ 南関東4競馬場における番組編成のための新たな格付制度の導入(格付ポイント制)および2歳馬の先行導入に関わるお知らせ - 南関東4競馬場、2023年2月20日配信・閲覧
^ jra.go.jp 美浦トレーニング・センター(第10回) 若駒たちの調教 (2015年2月18日閲覧)。
^ 平成27年度 能力検査について - ばんえい競馬、2015年6月14日閲覧
^ 平成27年度 第3回水沢競馬 能力検査結果/6月5日 - 岩手県競馬組合、2015年6月14日閲覧
^ ホッカイドウ競馬能力検査初日【3月19日(木)】結果! - ホッカイドウ競馬、2015年6月14日閲覧
^ 『TCK HORSE CAFE』<能力調教試験見学会> 参加者募集! - 特別区競馬組合、2015年6月14日閲覧
^ 高橋華代子 、能力試験〜船橋の試験で〜 (2015年2月18日閲覧)。
^ 栗林信文、7/5の川崎競馬結果と調教試験結果 (2015年2月18日閲覧)。
^ a b c d 地方競馬のしくみ - 地方競馬全国協会、2020年2月2日閲覧
^ a b 地方競馬史5 2012 , pp. 354–357
^ 地方競馬で外国人厩務員急増、6年前から採用開始し現在340人超…その大半はインドから - 読売新聞、2024年10月18日、2024年10月19日閲覧
^ 騎手会所属騎手制度の導入等について - 南関東4競馬場、2015年3月21日閲覧
^ 【地方競馬】兵庫競馬でも騎手会所属制度 広瀬航がフリー第1号 - デイリースポーツ(神戸新聞社)、2022年4月21日配信、2022年4月26日閲覧
^ kawasaki-keiba.jp、「騎手服の色と柄 」(2015年2月17日閲覧)。
^ 馬主服について - ホッカイドウ競馬、2014年11月13日閲覧
^ 競馬用語辞典(貸服) - 日本中央競馬会、2015年3月22日閲覧
^ a b 地方競馬史5 2012 , pp. 98–99
^ 吉原寛人騎手が地方競馬全14場重賞制覇の偉業達成!相棒はリケアサブル/兵庫ユースカップ - 日刊スポーツ、2024年2月22日配信、同日閲覧
^ 吉原寛人が地方競馬全14場で重賞制覇 ラストは姫路で史上初の快挙達成! 門別・盛岡・水沢・浦和・船橋・大井・川崎・金沢・笠松・名古屋・園田・高知・佐賀を制圧 - 東京スポーツ、2024年2月22日、2024年2月23日閲覧
^ keiba.go.jp、牛山基康「“短期集中連載” 【地方競馬所属騎手の韓国遠征記録】第2回 先駆者として活躍した倉兼育康騎手 」(2015年2月20日閲覧)。
^ keiba.go.jp、「倉兼育康騎手が今年のソウル競馬場の最優秀騎手に選出 」(2020年2月2日閲覧)。
^ a b keiba.go.jp、「地方競馬の馬主になるには 」(2020年2月2日閲覧)。
^ 重賞競走の格付について知りたい - 南関東4競馬場、2015年3月21日閲覧
^ ダートグレード競走とは? - 地方競馬全国協会、2020年2月2日閲覧
^ FAQ「交流競走」って何ですか? - 地方競馬全国協会、2020年2月2日閲覧
^ 日韓交流競走 '14インタラクションカップの結果 - 地方競馬全国協会、2015年3月20日閲覧
^ Keiba.go.jp,ダービーweek2014特設サイト (2015年2月18日閲覧)。
^ Keiba.go.jp GRANDAME-JAPAN 特設サイト (2020年2月2日閲覧)。
^ Keiba.go.jp 未来優駿2014特設サイト (2015年2月18日閲覧)。
^ Keiba.go.jp スーパースプリントシリーズ2014特設サイト (2015年2月18日閲覧)。
^ 『3歳秋のチャンピオンシップ2020 』(プレスリリース)地方競馬全国協会。https://www.keiba.go.jp/3saiaki2020/ 。2021年1月28日 閲覧 。
^ 『3歳秋のチャンピオンシップ2020 フレッチャビアンカ(岩手)に地方競馬全国協会競走振興事業としてボーナス賞金支給 』(プレスリリース)地方競馬全国協会、2020年10月4日。https://www.keiba.go.jp/topics/2020/10/0418250714963.html 。2021年1月28日 閲覧 。
^ スーパージョッキーズトライアル2015特設サイト(シリーズ概要) - 地方競馬全国協会、2015年6月14日閲覧
^ Keiba.go.jp スーパージョッキーズシリーズ2014特設サイト (2015年2月18日閲覧)。
^ 【web Furlong 2014】レースハイライト(第23回ゴールデンジョッキーカップ) - 地方競馬全国協会、2015年3月23日閲覧
^ 鉄人「佐々木竹見」を目指せ!第12回佐々木竹見カップジョッキーズグランプリ出場ジョッキー決まる!! - 川崎競馬公式サイト、2015年6月14日閲覧
^ 【web Furlong 2014】レースハイライト(第29回全日本新人王争覇戦) - 地方競馬全国協会、2015年3月23日閲覧
^ 『LVRレディスヴィクトリーラウンド2020 』(プレスリリース)地方競馬全国協会。https://www.keiba.go.jp/lvr2020/ 。2021年1月28日 閲覧 。
^ hokkaidokeiba.net 平成26年度 スタリオンシリーズ競走 (2015年2月18日閲覧)。
^ Keiba.go.jp平成26年度HITスタリオンシリーズ(ダービーを含む)5県実施競走計画表 (PDF ) (2020年2月2日閲覧)。
^ keiba.go.jp NARグランプリ (2020年2月2日閲覧)。
^ jpsa.jp 日本プロスポーツ大賞 (2015年2月20日閲覧)。
^ nakankeiba.com 平成26年南関東4競馬優秀騎手及び功労調教師・騎手の表彰式(2/11)について (2015年2月20日閲覧)。
^ sonoda-himeji.jp 平成26年優秀競走馬関係者表彰について (2015年2月20日閲覧)。
^ iwatekeiba.or.jp 2014年度岩手競馬年度代表馬はナムラタイタン号に決定! Archived 2015年2月7日, at the Wayback Machine .(2015年2月20日閲覧)。
^ Keiba.go.jp, 競馬場紹介 (2020年2月2日閲覧)。
^ 「競馬法施行規則」第29条。
^ 「競馬法施行規則」附則4〜5。
^ “地方競馬開催成績 令和5年4月 〜 令和6年3月次 ”. 地方競馬全国協会(NAR). 2024年7月11日 閲覧。
^ “見えてきた1兆円超え - 斎藤修 | 競馬コラム ”. netkeiba.com . 2021年4月28日 閲覧。
^ “地方競馬の売り上げが1兆円超え…史上最高記録を更新 | 競馬ニュース ”. netkeiba.com . 2023年7月11日 閲覧。
^ Keiba.go.jp, 地方競馬情報サイト FAQ 馬券の種類を教えて! (2020年2月2日閲覧)。
^ 地方競馬共同場外発売所BAOO, BAOO/日本レーシングサービス (2014年11月23日閲覧)。
^ a b Keiba.go.jp, 地方競馬IPAT特設サイト (2020年2月2日閲覧)。
^ 地方競馬史1 1968 , pp. 1–3
^ a b 立川健治 2008
^ a b 地方競馬史1 1968 , pp. 3–6
^ 「競馬規程」第1条
^ 「競馬規程」第23条
^ 地方競馬史1 1968 , pp. 12–14
^ 地方競馬史1 1968 , pp. 14–17
^ a b 萩野寛雄 2004 , pp. 115–116
^ a b 地方競馬史1 1968 , pp. 21–39
^ 関耕平 & 平田直樹 2008 , pp. 65–79
^ 地方競馬史1 1968 , pp. 53–61
^ 地方競馬史1 1968 , pp. 46–53
^ a b 地方競馬史1 1968 , pp. 25–29
^ a b c 萩野寛雄 2004 , pp. 160–162
^ a b 地方競馬史1 1968 , pp. 69–83
^ 「軍馬資源保護法」第1条
^ 地方競馬史1 1968 , pp. 96–97
^ 地方競馬史1 1968 , pp. 83–91
^ a b 立川健治 2012 , pp. 23–32
^ 立川健治 2012 , pp. 165–208
^ 蔵知毅 1976 , p. 14
^ 「第10回:進駐軍慰安競馬と一條友吉の生涯(3)」 - 新・いわて競馬今昔物語、2015年6月14日閲覧
^ a b c d e 地方競馬史1 1968 , pp. 139–154
^ 立川健治 2012 , pp. 209–230
^ a b 立川健治 2012 , pp. 317–324
^ 地方競馬史1 1968 , pp. 160–161
^ 地方競馬史2 1974 , pp. 1–16
^ 地方競馬史2 1974 , p. 18
^ 北の蹄音 1989 , pp. 72–83
^ 三好円 2009 , pp. 48–53
^ 地方競馬史2 1974 , pp. 32–38
^ 地方競馬史2 1974 , pp. 59–60
^ 北の蹄音 1989 , pp. 147–151
^ 北の蹄音 1989 , pp. 88–96
^ 北の蹄音 1989 , pp. 98–119
^ 兵庫県馬主協会 1993 , pp. 222–223
^ 兵庫県馬主協会 1993 , p. 84
^ 地方競馬史2 1974 , pp. 488–491
^ 地方競馬史2 1974 , pp. 480–481
^ 地方競馬史2 1974 , pp. 87–88
^ 地方競馬史4 1993 , p. 1
^ 地方競馬史2 1974 , pp. 94–96
^ a b 地方競馬史2 1974 , pp. 147–148
^ 三好円 2009 , pp. 44–46
^ 兵庫県馬主協会 1993 , pp. 74–83
^ 三好円 2009 , pp. 128–129
^ 隠れ名馬 1998 , pp. 21–26
^ 地方競馬史4 1993 , p. 303
^ 地方競馬史2 1974 , pp. 463–467
^ 地方競馬史2 1974 , pp. 177–178
^ 北の蹄音 1989 , pp. 209–214
^ 地方競馬史4 1993 , pp. 36
^ 地方競馬史4 1993 , pp. 77–79
^ 地方競馬史4 1993 , pp. 100–103
^ 地方競馬史4 1993 , pp. 80–85
^ 地方競馬史4 1993 , pp. 111–114
^ 地方競馬史4 1993 , pp. 106–107
^ 地方競馬史4 1993 , pp. 120–123
^ 地方競馬史4 1993 , pp. 28–34
^ a b 地方競馬史4 1993 , pp. 11–12
^ a b 地方競馬史5 2012 , p. 18
^ 地方競馬史4 1993 , pp. 189–190
^ 地方競馬史4 1993 , p. 209
^ 地方競馬史5 2012 , pp. 27–28
^ 地方競馬史5 2012 , pp. 104–106
^ 地方競馬史5 2012 , pp. 361–362
^ 地方競馬史5 2012 , p. 23
^ Furlong1994-03 1994 , p. 36
^ JBIS Serach, トミシノポルンガ (2015年3月6日閲覧)。
^ a b 地方競馬史5 2012 , pp. 100–103
^ a b 地方競馬史5 2012 , pp. 97–98
^ Furlong1994-04 1994 , pp. 54–55
^ 地方競馬史5 2012 , pp. 70–73
^ JBIS Serach, レジェンドハンター (2015年2月17日閲覧)。
^ 地方競馬史5 2012 , p. 137
^ 地方競馬史5 2012 , pp. 470–471
^ 大月隆寛 2004 , pp. 77–94
^ 野元賢一「リストラ不可避なダートグレード競走 」サラブねっと(2015年2月17日閲覧)。
^ a b 地方競馬史5 2012 , pp. 156–159
^ プーサン15 2000 , pp. 19–21
^ Furlong1997-07 1997 , p. 61, TOPICS:アラブ廃止が正式決定
^ 大月隆寛 2004 , pp. 190–194
^ Keiba.go.jp「ザラストアラビアンがアラブ特別を制す! 」(2020年2月2日閲覧)。
^ 中津競馬物語 2002 , pp. 19–54
^ 地方競馬史5 2012 , pp. 160–162
^ 地方競馬史5 2012 , pp. 168–177
^ 地方競馬史5 2012 , pp. 163–167
^ 地方競馬史5 2012 , p. 205
^ 地方競馬史5 2012 , pp. 194–196
^ 地方競馬史5 2012 , p. 7
^ 野元賢一「『民間委託』という幻想 」サラブねっと(2015年2月17日閲覧)。
^ a b c 地方競馬史5 2012 , pp. 84–86
^ 地方競馬史5 2012 , pp. 20–21
^ 工藤郁子「落ちこぼれ競馬の逆襲 どん底から生き延びました(上)『もうからないならやめて当然」?』 」「落ちこぼれ競馬の逆襲 どん底から生き延びました(下) 売上100億突破、3つの戦略 」huffingtonpost.jp(2015年2月17日閲覧)。
^ 地方競馬史5 2012 , pp. 180–181
^ oddspark.com, そのだ金曜ナイター (2015年2月17日閲覧)。
^ 斎藤修「荒尾競馬最終日レポート 」、Web Furlong(2015年2月17日閲覧)。
^ YOMIURI ONLINE, 「振り返る備後2013:<1>福山競馬場廃止 」(2015年2月17日閲覧)。
^ 地方競馬史5 2012 , pp. 375–383
^ 地方競馬史5 2012 , pp. 67–68
^ Keiba.go.jp、「J-PLACE 」(2015年2月17日閲覧)。
^ mainichi.jp、「名古屋競馬:廃止…14年度は免れる 3億円弱黒字に転換 」(2015年2月17日閲覧)。
^ a b 存廃問題から一転「ばんえい競馬」が好調 - デイリースポーツ、2015年6月20日閲覧
^ 川崎競馬 累積赤字解消、6億2500万円の黒字へ - スポニチアネックス、2015年1月9日閲覧
^ 地方競馬開催成績(平成25年4月次 - 平成26年3月次) (PDF ) - 地方競馬全国協会、2015年6月20日閲覧
^ 地方競馬開催成績(平成26年4月 - 平成27年3月次) (PDF ) - 地方競馬全国協会、2015年6月20日閲覧
^ a b c “全日本的なダート競走の体系整備 ”. 日本中央競馬会. 2023年10月8日 閲覧。
^ “国際競走化目指した壮大な改革 ダート競走の体系整備 ”. 日本経済新聞. 2023年10月8日 閲覧。
^ 全日本的なダート競走の体系整備 - 日本中央競馬会、2022年11月28日配信・閲覧
^ 小山良太 2009 , pp. 14–26
^ 海外競馬完全読本 2004 , pp. 80–83
^ ハイランド真理子 1994 , pp. 16-17、88-89
^ 海外競馬完全読本 2004 , pp. 40–43
^ 海外競馬完全読本 2006 , pp. 151–153
^ 海外競馬完全読本 2006 , pp. 157–159
^ 優駿の叫び 存続か廃止か 揺れる地方競馬 - テレビ東京 2005年1月18日
参考文献
地方競馬史編纂委員会『地方競馬史 第一巻』地方競馬全国協会、1968年。
地方競馬史編纂委員会『地方競馬史 第二巻』地方競馬全国協会、1974年。
地方競馬史編纂委員会『地方競馬史 第四巻』地方競馬全国協会、1993年。
地方競馬史編纂委員会『地方競馬史 第五巻』地方競馬全国協会、2012年。
立川健治『文明開化に馬券は舞う――日本競馬の誕生』世織書房、2008年。ISBN 978-4-902163-39-1 。
関耕平、平田直樹「地方競馬の変遷――益田競馬馬主・大石正の聞き書き 」『山陰研究 第一号』、参院研究センター、2008年。
萩野寛雄「「日本型収益事業」の形成過程 :日本競馬事業史を通じて 」『大学院政治学研究科博士論文』、早稲田大学 、2004年。
小山良太「フランスにおける競馬制度と運営組織――フランス競馬・競走馬生産地の調査研究」『Hippophile No.38』、[日本ウマ学会、2009年。
立川健治『地方競馬の戦後史:始まりは闇・富山を中心に』世織書房、2012年。ISBN 978-4-902163-62-9 。
道新スポーツ編『北の蹄音:ホッカイドウ競馬40年史』道新スポーツ、1989年。
『協会20周年記念誌 協会のあゆみ』兵庫県馬主協会、1993年。 非売品。
三好円『バクチと自治体』集英社、2009年。ISBN 978-4-08-720495-7 。
『競馬〈隠れ名馬〉読本:ダート、地方、障害、アラブ…黙殺され続けた名馬500頭!』宝島社、1998年。ISBN 4-7966-9355-6 。
『Furlong 1994年3月号』地方競馬全国協会、1994年。
『Furlong 1994年4月号』地方競馬全国協会、1994年。
『Furlong 1997年7月号』地方競馬全国協会、1997年。
『プーサン 第15号』大村書店、2000年。
大月隆寛『うまやもん:変わりゆくニッポン競馬の現場』現代書館、2004年。ISBN 4-7684-6880-2 。
ハイランド真理子『世界の競馬場2:オーストラリア・ニュージーランド、香港/マカオ』中央競馬ピー・アールセンター、1994年。ISBN 4924426431 。
石川ワタル、奥野康介、合田直弘、サラブレッドインフォメーションズシステム『海外競馬完全読本』東邦出版、2004年。ISBN 4-8094-0261-4 。
海外競馬編集部編『海外競馬完全読本2006-2007』東邦出版、2006年。ISBN 978-4-8094-0524-2 。
蔵知毅「雑記帖(六)」『岡山畜産便り 1976年8月号』、岡山県畜産協会、1976年。
大月隆寛(監修)、中津競馬記録誌刊行会編『中津競馬物語』不知火書房、2002年。ISBN 4-88345-078-3 。
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
地方競馬 に関連するカテゴリがあります。
外部リンク