仙石 政固(せんごく まさかた)は、但馬国出石藩第8代(最後)の藩主(知藩事)。出石藩仙石家11代。
生涯
天保14年(1843年)12月15日、第5代藩主・仙石久道の六男土岐政賢の長男として出石で生まれる(生母不明)[1]。父の政賢は、異母兄で第6代藩主の仙石政美が嗣子無く死去して仙石騒動が起こったとき、本来なら跡を継ぐ資格を持っていたが、病弱なために異母弟の仙石久利が家督を継いで第7代藩主となった。しかし久利にも嗣子が無かったため、甥の政固が早くから久利の世子として指名されていた。
幕末期には久利と協力して藩政を行ない、仙石騒動後に藩政を牛耳っていた堀新九郎を文久2年(1862年)12月には切腹に追い込んでいる。慶応元年(1865年)5月15日に久利の養嗣子となり、明治元年(1868年)4月には学校権判事に任じられた。明治3年(1870年)1月28日に久利が隠居したため、家督を継いで知藩事となる。
明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により知藩事を免官された。明治8年(1875年)4月12日、明治天皇の侍従となる。明治12年(1879年)9月13日、侍従を退任。明治17年(1884年)7月8日、子爵となる。後に従二位まで昇り、明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に選出され死去するまで在任した[2]。
大正6年(1917年)10月25日に死去した[1]。享年75。
栄典
- 位階
- 勲章
系譜
脚注
- ^ a b 『平成新修旧華族家系大成 上巻』788頁。
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』45頁。
- ^ 『官報』号外「叙任」1886年12月28日。
- ^ 『官報』第5688号「叙任及辞令」1902年6月21日。
- ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
- ^ 諏訪忠元『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
参考文献
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。
仙石氏 出石藩8代藩主 (知藩事:1870年 - 1871年) |
---|
小出家 | |
---|
藤井松平家 | |
---|
仙石家 | |
---|