ヴェルナー・ブライトシュベルト (Werner Breitschwerdt、1927年 9月30日 - 2021年 12月20日 )は、ドイツ の自動車技術者であり、実業家 である。ドイツの自動車メーカーであるダイムラー・ベンツ で、取締役会会長 (ドイツ語版 ) を務めたことで知られる。
概要
前身であるダイムラーやベンツ社の創業期を除けば初の、技術部門の総責任者の経験がある同社経営者である。技術部門の責任者をしていた時に担当した小型セダン190シリーズ (W201、1982年発売)は、ブライトシュベルトが経営を担っている間(1983年 - 1987年)のダイムラー・ベンツの乗用車販売の屋台骨を支え[ 1] 、発売から10年以上に渡って販売されるロングセラーとなった。ブライトシュベルトの退任後に発売された後継車(W202 )からは「Cクラス 」と区分されるようになり、ブライトシュベルトが手掛けたW201を嚆矢として、メルセデス・ベンツの車種は多品種化とセグメント分けが進むことになる[ W 1] 。
メルセデス・ベンツのモータースポーツ活動にも深く関わり、管轄していた乗用車開発部門を通じて1970年代には同社のラリー参戦を推し進め、1980年代にはグループC 車両を製作していたザウバー にメルセデス・ベンツエンジンを供給する決定を行った[ 2] [ 3] [ 注釈 1] 。ダイムラー・ベンツは1955年限りで(ラリーを除く)モータースポーツ活動を休止していたが、ブライトシュベルトがザウバーへのエンジン供給を後押ししたことで、ブライトシュベルト退任後の1988年にモータースポーツに完全復帰することになった[ 2] [ 3] 。
経歴
1927年生まれのブライトシュベルトは10代半ばを第二次世界大戦 の中で送り、16歳の時(1943年頃)に徴兵対象となって東部戦線 で兵役に就いた[ 1] 。
戦後に復員した後はシュトゥットガルト工科大学 で学び、当初は物理学 を学んだが、在学中に電気工学 に転じて1952年に卒業した[ 1] [ W 2] 。
卒業後、同大学で助手として勤務した後、1953年4月にダイムラー・ベンツ に見習いエンジニア(電気技師)として入社した[ 1] [ W 1] 。当時、同社ではコンピュータ支援による車両設計を模索しているチームがあり、ブライトシュベルトはそのチームの担当を入社して間もなく任され、その後、同社のボディ設計部門などで経験を積んだ[ 1] 。
ブライトシュベルトは1960年からは100以上の発明をしてダイムラー・ベンツに大量の特許をもたらすようになり、1963年10月には配属先である同車のジンデルフィンゲン工場の車両試験部門において責任者となった[ W 2] 。
その後も昇進を重ね、1965年には試験車両の部門の主任技師となり、1967年には同部門全体の監督者の一人となった[ W 2] 。この間、アンチロック・ブレーキ・システム (ABS)の開発についてブライトシュベルトは顕著な貢献を果たし、メルセデス・ベンツ社は1970年にABSの開発発表を行い、Sクラス ・W116 の1978年モデルにおいて市販車としては世界で初めてABSを搭載した[ W 2] 。
「C101」
C111(1969年)
1968年当時、ダイムラー・ベンツのかつてのレース部門(Rennabteilung)の責任者で、伝説的なエンジニアとして知られていたルドルフ・ウーレンハウト が、ヴァンケルエンジン 搭載車両の開発計画である「C101 」という試作車プロジェクトを進めていた[ 1] 。
「C101」は1968年末に完成したが、試作車であるため、そのボディは間に合わせのものだった[ 1] 。ダイムラー・ベンツのボディ開発の全体を統括しており、ブライトシュベルトの上司でもあるカール・ヴィルフェルト (英語版 ) はC101のボディのみすぼらしさに不満を持ち、ブライトシュベルトとともに新たなボディの開発を始めた[ 1] 。
この際、あくまで実用車としての範囲で(可動フラップなどは使わず)ドラッグの少ないボディワークとすることを条件として設計が進められた[ 1] (スタイリングの実作業はブルーノ・サッコ とヨーゼフ・ガリッツェンドルファー によって行われた[ W 3] )。設計自体は2ヶ月弱の短期間で仕上がったが、問題は当時のメルセデス・ベンツ車にはない流麗なボディを製造する方法であり、当時のメルセデス・ベンツ車(乗用車)では用いられていないグラスファイバー が用いられることになり、その製造のため、ブライトシュベルトは製造ノウハウを持つトラック部門に協力を要請して実現した[ 1] 。新たなボディを与えられたC101は、「C111」に改名されて発表された[ 1] [ 注釈 2] 。
1971年にはブライトシュベルトはボディ開発部門においてヴィルフェルトに次ぐ副責任者に任命され、そのヴィルフェルトの引退に伴い、1974年に同部門の責任者に昇進した[ 1] [ W 1] [ 注釈 3] 。
車両開発責任者
1977年初め、ブライトシュベルトはダイムラー・ベンツの取締役となり[ W 1] [ W 4] 、翌1978年3月には同社の車両開発と研究全体の責任者であるハンス・シェレンベルク の跡を継いで、同社の車両開発全体の責任者となった[ 1] [ W 2] 。
開発責任者を務めている間、ブライトシュベルトはダイムラー・ベンツの従来の特徴でもある車両の安全性と乗員保護の精神を継承して発展を決定づけていき[ W 1] 、同時に、経済性と環境への配慮の面でも大きな進歩をもたらした[ W 2] 。
ブライトシュベルトはそれまでの同社のラインナップにはない小型セダンの開発を後押しし、この施策により開発されたのが「190 」(W201)である[ W 2] 。(他の関連車両は「#代表作 」を参照)
取締役会会長
190 (W201、1982年)。欧米では「ベイビー・ベンツ(Baby Benz)」、日本では「小ベンツ ( こ-べんつ ) 」と呼ばれた。
1983年、ダイムラー・ベンツの取締役会会長であるゲルハルト・プリンツ が急死したことに伴い、同年12月にブライトシュベルトはその後任として同職に就任した[ W 4] [ 注釈 4] 。
ブライトシュベルトが開発を後押しした小型セダンの190(W201)は、発売当初は、それまでのメルセデス・ベンツブランドの高級車としてのイメージを毀損するものと言われることも少なくなかった[ W 5] 。ブライトシュベルトは経営者となった後も同車の後押しを続け、同車は販売面で大きな成功を収め、「メルセデス・ベンツ」ブランドはニッチな高級大型乗用車という従来のイメージから、「フルラインナップのプレミアムブランド」に脱皮することに成功することになる[ W 5] 。
しかし、同社の取締役会では財務部門の責任者であるエツァルト・ロイター と、同じく取締役のヴェルナー・ニーファー の一派が社内で有力となり、ブライトシュベルトの経営は彼らとの対立の中で行われることになった[ W 4] 。
プロメテウス計画
会長となったブライトシュベルトは、ヨーロッパの他の自動車関連会社との共同プロジェクトとしてプロメテウス計画 (PROMETHEUS、Programme for European Traffic with Highest Efficiency and Unprecedented Safety)を立ち上げた[ W 2] 。これは自動車メーカー、電子機器などの自動車部品メーカー、大学や研究機関と共同で進められた自動車分野における開発プロジェクトである[ W 2] 。このプロジェクトの成果として、後にメルセデス・ベンツ車に搭載されたものとしては、インテリジェントなクルーズコントロール である「ディストロニック・プラス」や、自動ブレーキシステム である「PRE-SAFE」といった技術が開発された[ W 2] 。
海外展開
ブライトシュベルトはそれまで関与が手薄だったアジア市場の開拓も進め、日本においては、それまでのヤナセ をインポーターとする体制を改め、1986年に販売子会社としてメルセデス・ベンツ日本 を設立した[ 1] [ 注釈 5] 。
退任
1987年、ドイツ銀行 の頭取であるアルフレート・ヘルハウゼン (英語版 ) がダイムラー・ベンツの監査役会会長となったことで、ブライトシュベルトによる経営は終わりを迎えた[ W 4] 。ロイターの親友でもあるヘルハウゼンは、技術者出身のブライトシュベルトが大企業であるダイムラー・ベンツを主導していることに難色を示すとともに、ロイターが掲げていた「総合技術コンツェルン」という方針に賛同した[ W 6] [ W 4] [ 注釈 6] 。任期延長の見込みがないことをヘルハウゼンから告げられたブライトシュベルトは、1987年7月に「個人的な理由で」会長職を退き、その座をロイターに譲った[ W 4] [ 注釈 7] 。
結果として、ブライトシュベルトの在任中、メルセデス・ベンツ車の販売には190が大きく貢献し、年間の乗用車販売台数は約48万台(1983年)から約60万台(1987年)に増え[ W 5] 、ダイムラー・ベンツの売上高は世界全体で60%以上増加し、単年度の純利益も1983年比で80%増加し、1986年の純利益は17億ドイツマルクに到達した[ 1] [ W 1] [ W 2] 。また、同期間にダイムラー・ベンツだけで、約16,000人の新規雇用が創出された[ W 1] [ W 2] 。
退任後
会長職を退いた後、ブライトシュベルトは1988年から1993年までダイムラー・ベンツの監査役を務めた[ W 1] 。新会長のロイターが進めた「総合技術コンツェルン」構想は数年で大きな失敗を露呈していったが、ダイムラー・ベンツそのものに忠実なブライトシュベルトは公にそのことを批判することはしなかった[ W 4] 。その後の同社の会長たちが会社を傾けさせた末に去ることになったのとは対照的に、同社に利益をもたらし、最後まで忠節と礼儀を尽くしたブライトシュベルトは、退任後に同社を訪れた際も賓客として歓迎された[ 6] 。
後に、コンチネンタル 、MTUフリードリヒスハーフェン 、ツプリン (ドイツ語版 ) 、メルセデス・ベンツUSA (英語版 ) においても監査役を務めた[ W 7] 。
2000年代にはダイムラー・ウント・ベンツ財団 (ドイツ語版 ) の理事会を率いた[ W 7] 。
2009年にブライトシュベルトはヨーロッパ自動車殿堂の殿堂入りを果たした[ W 2] 。ダイムラー・ベンツ社とその前身企業の人物として、これはカール・ベンツ 、ゴットリープ・ダイムラー 、ヴィルヘルム・マイバッハ 、ベラ・バレニー 、ブルーノ・サッコ に続くものだった[ W 2] 。
代表作
「
違いを生むのはスター(過去の栄光)ではなく、我々が最高の製品を作るという事実です。我々は作り出す新しい車ごとに我々自身のスターを得なければならない。(It is not the star that makes the difference but the fact that we build the best products. We must earn our star with each new car.)[ 1]
」
—ブライトシュベルトの車両開発におけるモットー
ブライトシュベルトはダイムラー・ベンツの技術部門を率いている間にいくつかの車種の開発に携わっているが、中でも、最大の成果は190 (W201)だと言われている[ W 1] 。同車は高い安全性と快適性、製品寿命の長さといったメルセデス・ベンツ車の特徴をそのままに[ 注釈 8] 、同ブランドとしては初の小型セダンとして巨費を投じて開発された[ W 1] [ 注釈 9] [ 注釈 10] 。同車の販売は大きな成功となり、ダイムラー・ベンツはメルセデス・ベンツ車の販売セグメントを小型車に拡大することにも成功した[ W 1] 。加えて、同車の成功から後継車には新たに「Cクラス 」という名称が与えられ、1990年代以降のメルセデス・ベンツ車のセグメントごとの明確な体系化の最初のステップともなった[ W 1] [ W 2] 。
技術部門の責任者を務めていた間、ブライトシュベルトは完全に新世代となる車両群(下記)の開発を主導し、それらは1980年代に市場に投入され、メルセデス・ベンツの技術的な評判を高めた[ W 2] 。
この時期の車両の外装(スタイリング)は基本的にブルーノ・サッコ がスタイリングデザイン部門のチーフとして手掛けた。
市販車
試験車
栄典
脚注
注釈
^ ブライトシュベルトが権限を持っていた1987年までのメルセデス・ベンツのモータースポーツ活動は、ダイムラー・ベンツとしての公式な活動ではなく、乗用車開発部門がプライベーターに「支援を行っている」という名目で行われていた。
^ 「101」はプジョー によって商標登録されていたため改名された[ 4] [ W 3] 。
^ サッコらやその上司であるフリードリッヒ・ガイガー が属するスタイリング部門はボディ開発部門に属する。
^ 後年、ブライトシュベルトは自身はこの時点では開発部門担当の総責任者という仕事に満足しており、同社の経営者である会長職という地位には全く興味がなかったと述べている[ 5] 。
^ ブライトシュベルトは後年のインタビューで「ヤナセの販売体制そのものには非常に満足していたが、長期的に考えて、自社で販売子会社を持つのが得策と判断した」と語っている[ 1] 。
^ ロイターはブライトシュベルト退任以前から電機メーカーであるAEG など異業種の買収を進めていた。
^ この件を念頭に置いたのかは定かでないが、ブライトシュベルトは後に「ダイムラー・ベンツを大きくしたのは技術者たちです。弁護士やビジネスマンではありません」と語っている[ W 7] 。
^ 一例として、ブライトシュベルトは所有者の満足度を保つため、同車の内装について、値段を下げるために安価なプラスチック を使用するのではなく、Sクラスと同様にソフトパッド を使用するよう指示した[ W 5] 。
^ メルセデス・ベンツブランドとしては初の小型セダンだが、ダイムラー・ベンツ社は小型車のラインナップを持つアウトウニオン を1958年から1965年まで一時的に保有していたことがあるため、ダイムラー・ベンツとして初の小型車というわけではない[ W 8] 。
^ 190(W201)を製造するために、工場の新設・拡張も行われ、それらも含めると同車の開発から完成に至るまでにはおよそ20億マルクが投じられ、これはダイムラー・ベンツとしてはそれまで開発した車両の中でも最大の投資額だった[ W 9] 。
出典
書籍
ウェブサイト
参考資料
書籍
外部リンク
チーム首脳 主なスタッフ 主なドライバー 車両 主なスポンサー 関連組織 関連項目
※ダイムラー・ベンツ(メルセデス・ベンツ)の正式な復帰は1988年 だが、同社がザウバーにエンジン供給を行う契機となった1982年 から1984年 までの内容と、非公式なエンジン供給が行われた1985年から1987年 までの内容も含めている。