AEG はドイツの電力事業にも貢献した。ウニオン社に同じく1892年、エレクトロヴェルケ(Elektrowerke)が設立された。1917年9月、ドイツ帝国がAEGのエレクトロヴェルケを買収した。ヴァイマル期(1926年)のエレクトラヴェルケも、やはりバイエルン電力(VIAG, 現E.ON)を通じて100%連邦所有であった。その供給する電力は、供給量がRWEより一回り小さい程度であったが、しかし供給先がベルリンの、アルミニウム精錬を切り口とする諸工業へ集中していた。バイエルン電力は1986年から民営化されていった。[6]
1935年にエネルギー産業法が制定された。これにより、それまで各州が独立して行っていた電力政策が連邦の経済大臣に統括されることとなった。ナチスは翌年10月に「価格形成連邦委員会(Reichskommiser für Preisbilding)」を、1939年9月に「電力業連邦機関(Reichsstelle für Elektrizitätswirtschaft)」を設立した。1941年ライフラインを統合して「水道エネルギー総督府(Generalinspektor für Wasser und Energie)」を設置した。ナチスは列挙したような人的統制によりAEGをふくむ電力業を統制しようとした。しかしエネルギー産業法は各州の反対を受けたので、国内の電力業を国有化・民営化・混合化いずれに落ち着けるのか、さらに電力供給を都市へ集中させるのかどうか、方向性を結論しないまま成立していた。[6]
第二次世界大戦後、シーメンスとAEG はドイツ版逆コースによって全く独占解体を免れた。ビューヒャーが一時戦犯として退いてほどなく、AEG旧幹部のシュペンラート(Friedrich Spennrath)が取締役会長となった(1947年)。その前年にベルリンの金属労働組合がシュペンラートを戦犯として追及するよう決議したが、西側占領当局は決議を黙殺した。西ドイツの主権回復までマーシャル・プランが更地をもてあますAEG に巨額の復興信用(Wiederaufbaukredit, 見返り資金からの借款)を与え続け、AEGはおびただしい工場を建設した。主権回復後の1955-56年に、AEG は直属の企業体だけで1億マルク以上の設備投資を行った。その設備でコンツェルンの総力をあげた軍需生産を展開した。なお、通貨改革以後1960年までの12年間において、コンツェルンとしてのシーメンスとAEGの投資総額はそれぞれ18億マルクと8億マルクであった。主権回復の前後には、国家政策で過大償却が推進され、合法的な秘密積立金制度として利潤を隠蔽、資本蓄積を促進していた。西ドイツの輸出先は戦前と違い、1960年だと6割強が西欧で、アメリカはたったの8.9%であった。再生産としてAEG はオーストリアやブラジル・アルゼンチンへ自社ブランドの参与会社を設けた。一方、テレフンケンもアメリカのテルディクス(Teldix)へ50%参加したが、なかんずくフランスのラジコンメーカー(Société Européenne de Téléguidage)に対する20%の参与はNATOの支柱であった。[5]
^Adressbuch der Direktoren und Aufsichtsräte der Aktiengesellschaften, 2/1933, S.72; Eberhard Koebel-Tusk, AEG Energie Profit Verbrechen, Berlin 1958, S.114.