モンペリエ大学(英語: Montpellier University、仏称:Université de Montpellier)は、オクシタニー地域圏エロー県モンペリエに本部を置くフランスの公立大学。1289年創立、1896年大学設置。
フランスの大学としては屈指の歴史を誇り、特に医学部はヨーロッパ最古の歴史、法学部も長大な歴史を有する。
1970年に医学・薬学・農学部のモンペリエ第1大学、理学部のモンペリエ第2大学、文学部はモンペリエ第3大学(ポール・ヴァレリー[1]、ポールバレリー・モンペリエ第3大学(Paul-Valery University Montpellier 3)[2]、Université Paul-Valéry-Montpellier)に分割されたが[3]、2015年に第3大学以外の第1大学と第2大学は再統合され「モンペリエ大学」として再興された。
歴史
前身と初期の学部
大学としての正式な創設は、ローマ教皇ニコラウス4世による大勅書が出た1289年のことである。これは、パリ大学(1150年)、トゥールーズ大学(1229年)に次いで、フランスで3番目に古い設置である。加えて、ボローニャ大学、オックスブリッジ、サラマンカ大学等と共に、12〜13世紀に設立されたヨーロッパ最古の中世大学にあたる。ただし、それに先立ってモンペリエには前身となる学校が存在していた。
- 教養学部(自由七科)
- この前身の創設は明確ではない。
- 法学部
- 1160年にモンペリエに来たボローニャの法学校のプラケンティヌス (Placentinus) が礎を作った。彼はそこで教鞭を執り、1192年に没した。法学部は長い伝統を誇り、のちにはナポレオン法典の起草に当たっても、当時のモンペリエ大学の教授たちが大きく貢献した。なお、法学部は1998年に改組された。
- 医学部
- モンペリエ大学で最も名高いのが医学部である。この前身はスペインの医学校で学んだユダヤ人たちによって形成されたと推測されている。モンペリエの領主ギレムの政策のおかげで、免状を持った医師であればその学校で講ずる事ができた。また、教員に定員はなく、多様な講義が可能であった。
- 1220年にはローマ教皇ホノリウス3世の特使コンラート・フォン・ウルラッハ枢機卿 (Cardinal Conrad von Urach) によって法認が与えられ、1240年にはマグロンの司教の指揮下でさらに広い分野での承認が与えられた。ただし、こうした監督下にあっても事実上かなりの自治を謳歌していた。
- 神学部
- 修道院での講義に起源を持ち、パドヴァのアントニオやドミニコ会士のベルナール・ド・ラ・トレイユ (Bernard de la Treille) らが講じた。修道院と切り離された形での神学部が確認できるのは1350年1月のことである。1421年12月17日付のマルティヌス5世の大勅令では、神学部に教会法に基づく研究機関を設置することが認められ、それは法学部と密接に結び付けられた。
付属施設、その他
日本の学生交流協定校
人物
卒業生
関係者
分割と統合
1970年にモンペリエ第1大学、モンペリエ第2大学、モンペリエ第3大学に分割されたが、2015年に第3大学以外の第1大学と第2大学は再統合され「モンペリエ大学」として再興された。
脚注