ニッティー・グリッティー・ダート・バンド (英語 : Nitty Gritty Dirt Band )は、アメリカ のカントリーロック バンド。グループは1966年 にカリフォルニア州 ロング・ビーチ で結成されて以来形を変えながら存続している[ 2] 。長年の間にバンド のメンバー構成は、ダート・バンド と呼称していた1976年 から1981年 を含めて少なくとも12回変わっている。
初期から常在しているメンバーはシンガーソングライター のジェフ・ハンナ とドラマー のジミー・ファッデン の2人である。マルチ奏者 のジョン・マッキューアン は1966年から1986年 まで在籍し、その後2001年 に復帰してから16年間バンドにとどまったが2017年 11月に離脱した。キーボード奏者 のボブ・カーペンター は1977年 にバンドに加入した。バンドは現代のカントリーとルーツ・ミュージック の進歩に貢献したとしばしば引用される。
バンドの代表作としてはジェリー・ジェフ・ウォーカー の「ミスター・ボージャングルス 」のカバーバージョンが挙げられる。アルバムとしてはメイベル・カーター 、アール・スクラッグス 、ロイ・エイカフ 、ドク・ワトソン 、マール・トラヴィス (英語版 ) 、ジミー・マーティン (英語版 ) と言った伝統的なカントリー・アーティストをフィーチャーした1972年 の『永遠の絆 』が挙げられる。同じコンセプトの次のアルバム『永遠の絆 Vol.2 (英語版 ) 』が1989年 に発売され、ゴールドディスク に認定され、2つのグラミー を勝ち取り、カントリーミュージック協会賞 の最優秀アルバムを受賞した。2002年 には続編として『永遠の絆 Vol.3 (英語版 ) 』を発表した。
来歴
1966年~1969年: ジャグ・バンドとしての結成からカントリー・ロックへの転換期
ニッティー・グリッティー・ダート・バンドは1966年頃カリフォルニア州ロング・ビーチでニュー・コースト・トゥーとして演奏していたシンガーでギター とウォッシュボード を担当するジェフ・ハンナ と、シンガー・ソングライターでギターリスト でもあるブルース・カンケルの二人によってジャグ・バンド として結成された[ 2] 。バンドのウエブサイト の言葉を借りれば、「生活のために働かずにすむ方法を見つける」ことを試みて、ハンナとカンケルはロングビーチのマッケイブのギターショップでの非公式なジャムセッション に参加していた。ここで二人はギタリスト兼ウォッシュタブ・ベース 奏者のラルフ・バー、ギタリスト兼クラリネット 奏者のレス・トンプソン、ハーモニカ とジャグ (英語版 ) 演奏者のジミー・ファッデン、ギタリスト兼ボーカリストのジャクソン・ブラウン などの他のミュージシャンと知り合った。6人はニッティー・グリッティー・ダート・バンドをジャグ・バンドとして活動を開始し、急成長している南カリフォルニア のフォークロック のスタイルを取り入れて、ピンストライプのスーツとカウボーイ・ブーツ を身にまとって地元のクラブで演奏していた。バンドの最初の実演はカリフォルニア州ハンティントンビーチ のナイトクラブ 、ゴールデンベア (英語版 ) で行われた[ 3] 。
ブラウンはシンガー=ソングライターとしてのソロ活動に集中するために離脱する前の数か月だけバンドに参加していた[ 2] 。ブラウンに替わってバンジョー 、フィドル 、マンドリン 、スティール・ギター 担当のジョン・マッキューアン が加わった。マッキューアンの兄のバンドのマネージャー を務め、1967年にグループのデビューアルバム『ニッティー・グリッティー・ダート・バンド (英語版 ) 』を発売することになるリバティ・レコード (英語版 ) との契約を手助けした[ 2] 。バンド初のシングル "Buy for Me the Rain" はトップ40入りの成功を収め[ 2] 、『ザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジョニー・カーソン (英語版 ) 』への出演にこぎつけ、ジャック・ベニー やドアーズ といった異種のアーティストとのコンサート に出演した。
セカンドアルバム『リコシェ (英語版 ) 』が同年後半に発売されたが、ファーストアルバムほどは成功しなかった[ 2] 。カンケルはバンドのエレクトリック化と、より多くのオリジナル作品を使うことを求めた。カンケルは WordSalad and of the People 結成のためにバンドを去った。後任には多楽器奏者のクリス・ダーロウ (英語版 ) が加入した[ 2] 。
1968年 までに、バンドは電気楽器 を採用し、ドラムスを追加した。
最初のエレクトリックなアルバム『レア・ジャンク (英語版 ) 』は、その次のアルバム『アライヴ (英語版 ) 』同様に商業的には失敗だった。
バンドは主に販促活動として宣伝を続け、1968年の映画『For Singles Only 』に出演したり、1969年 のミュージカル西部劇映画『ペンチャー・ワゴン 』にカメオ出演 して "Hand Me Down That Can o' Beans" を演奏した[ 2] 。バンドはビル・コスビー の前座としてカーネギー・ホール でも演奏し、ディジー・ガレスピー とジャムセッションを行った。
1969年~1976年: "Uncle Charlie"ヒット作が多く生まれた時代
グループは『ペンチャー・ワゴン』後の6か月のあいだ活動を休止し、その後にクリス・ダーロウの代わりにジミー・イボットソン (英語版 ) が加入した。ウィリアム・マッキューアンをプロデューサー として、バンドにより芸術的な自由を与えるために契約の再交渉を行い、『アンクル・チャーリーと愛犬テディ (英語版 ) 』を録音して1970年 に発売した[ 2] 。ストレートで伝統的なカントリーとブルーグラス のサウンドを取り入れたアルバムには、グループの最もよく知られたシングルである、ジェリー・ジェフ・ウォーカー の「ミスター・ボージャングルス 」や[ 4] 、マイケル・ネスミス の「サム・オブ・シェリーズ・ブルース(Some of Shelley's Blues)」のカバーや、「プー横丁の家 」含むケニー・ロギンズ の曲が4曲(「プー横丁の家」はロギンズ作の初録音)収録されていた。彼らのバージョンの「ミスター・ボージャングルス」はバンドの初ヒットとなり、ビルボード の全ジャンルのチャートであるHot 100 で最高9位に到達し、36週にわたってチャートにとどまった。
1972年 前半に発売された次のアルバム『オール・ザ・グッド・タイムズ (英語版 ) 』も同様のスタイルだった。
バンドメンバーのジョン・マッキューアンがアール・スクラッグス に一緒にレコーディング することを持ち掛けたときに、ニッティー・グリッティー・ダート・バンドは次にカントリーバンドとしての評判を固めようとした。翌週、マッキューアンはドク・ワトソンにも同じ提案をして承諾されたときに、アールの承諾回答も得ることになった。この組み合わせは他のミュージシャンのさらなる参加を促し、アールとルイーズ・スクラッグスの助けを借りてテネシー州ナッシュビル に旅し、三枚組のアルバム『永遠の絆 』をロイ・エイカフ 、アール・スクラッグス 、ジミー・マーティン (英語版 ) と言ったナッシュビル の腕自慢や、カントリーの先駆者メイベル・カーター 、フォーク=ブルース・ギタリストのドク・ワトソン 、マール・トラヴィス (英語版 ) 、ノーマン・ブレイク などとともに録音した[ 2] 。アルバムタイトルはA.P.カーター が改変した曲「永遠の絆 」からのもので、カルフォルニア の長髪の男の子と、米国中部の主流の年上のベテランの3世代を結びつけようとするアルバムの主題を反映している。エイカフが歌った収録曲「アイ・ソー・ザ・ライト (英語版 ) 」が成功し、アルバムはグラミー賞 の2部門でノミネートされた。ベテランフィドラーのバッサー・クレメンツ はこのアルバムで幅広い聴衆に知られることとなり、新たなキャリアを歩んだ。バンドはこの時期の後で日本 にも2度のツアーを行った。
次のアルバムの後でレス・トンプソンが離脱してバンドは4人構成となった。『星条旗よ永遠なれ』は "Buy for Me the Rain" や「ミスター・ボージャングルス」などの初期の成功と、『永遠の絆』でのコラボレーション(フィドラーのバッサー・クレメンツ が客演している)に長い物語を語るモノローグをミックスしたものだった。スタジオアルバムの『ドリーム』もリリースされている[ 2] 。
1974年 7月、バンドはミズーリ州 セダリア (英語版 ) のミズーリ・ステート・フェア会場で行われたオザーク・ミュージック・フェスティバル (英語版 ) のヘッドライン・アクトの一つだった。いくつかの推定では、群衆は35万人にのぼり、これは歴史上最大の音楽イベントの一つとなる。別のコンサートでは、バンドはエアロスミス のオープニング・アクト を務めた。
1976年から1981年: "The Dirt Band"時代
1976年 末にジミー・イボットソンがバンドを去り、残ったファッデン、ハンナ、マッキューアンにジョン・ケイブルとジャッキー・クラークを加えて、ギターとベースを追加した。1977年 5月、ニッティー・グリッティー・ダート・バンドはソビエト連邦 で演奏することが許可された最初のアメリカのグループとなり、28回の公演は売り切れとなり[ 2] 、テレビ 出演は推計1億4500万人が視聴した。1977年、ニッティー・グリッティー・ダート・バンドはPBS の音楽番組『オースティン・シティ・リミッツ・ミュージック・フェスティバル 』の第二シーズンに初出演した。バンドは最初の「グレイテスト・サクセス」コンピレーション・アルバム 「Dirt, Silver & Gold」 を1976年にリリースした。このリリース後、バンド名をダート・バンドと短いものに変更し[ 2] 、グループのサウンドはよりポップ でロック 指向のものになった。サクソフォーン 奏者のアル・ガース 、ドラマーのメレル・ブリガンテおよびベーシストのリチャード・ハサウェイも1978年 にメンバーに加わり、ジェフ・ハンナが数枚のアルバムをプロデュースした。
キーボード奏者のボブ・カーペンター(1975年から時々バンドに参加していた)は1978年のアルバム『ダート・バンド』で活躍し、バンドに恒久的に加わった。
この時期のアルバムには『ダート・バンド』、『アメリカン・ドリーム』なども含まれる。リンダ・ロンシュタット と共演したシングル曲「アメリカン・ドリーム」はポピュラー音楽チャートで13位を獲得した。バンドは『サタデー・ナイト・ライブ 』に自分たちの枠で出演し(スティーヴ・マーティン がバンジョーで共演した、ジョンが書いたインストゥルメンタル 曲「ホワイト・ロシア」を演奏)、その後で、The Toot Uncommons名義でスティーヴ・マーティン の代表曲 "King Tut " の伴奏を務めた[ 5] 。彼らは、同年前半にアスペン で録音されていたレコード発売用のバージョンでも演奏していた。
1979年 、ブリガンテがグループを去り、ドラマーのマイケル・ブオノと、その後はマイケル・ガードナーがグループのツアーでのステージでブリガンテの代わりを務めたが、1981年 にヴィック・マストリアンニが引き継いだ。アル・ガースはピュア・プレイリー・リーグ (英語版 ) に移籍し、のちにイーグルス に移った。
アルバム『メイク・ア・リトル・マジック』と『ジェラシー』が1980年 と1981年にリリースされ、ニコレット・ラーソン をフィーチャーしたシングル「メイク・ア・リトル・マジック」はポップ・チャートでトップ25に入った。グループはこの曲を1980年のスティーヴ・マーティンのスペシャル番組 All Commercials で、曲の最後の部分でマーティンがラーソンのボーカルに口パク するコミック要素をつけて演奏した。
1982年から1989年: "Nitty Gritty"に戻る
バンドは1982年 にオリジナルのバンド名と、カントリーの原点に回帰した。テネシー州ナッシュビル でのレコーディング・セッションのために再結集するハンナ、ファッデン、マッキューアン、カーペンター、イボットソンにメンバーを絞り込み、トップ10カントリー・ヒットとなる「ダンス・リトル・ジーン」を含むアルバム『レッツ・ゴー』を録音した[ 2] 。1984年 の次のアルバム『プレイン・ダート・ファッション』には初のNo.1ヒット「ロング・ハード・ロード (英語版 ) 」が収録されていた。
さらに「モダン・デイ・ロマンス (英語版 ) 」(1985年 )と[ 2] 、ホット100には入らなかったものの最終的に2014年 にプラチナ認定されたバンドで最も売れたシングルとなる「フィッシン・イン・ザ・ダーク (英語版 ) 」という2曲がカントリーでNo.1となった。その他のヒット曲としては「ダンス・リトル・ジーン」(1983年)、「アイ・ラヴ・オンリー・ユー」(1984年)、「ハイ・ホース」(1985年)、「ホーム・アゲイン・イン・マイ・ハート」、「パートナーズ、ブラザーズ・アンド・フレンズ」、「スタンド・ア・リトル・レイン」(1986年 )、「ファイア・イン・ザ・スカイ」、「ベイビーズ・ガット・ア・ホールド・オン・ミー」、「オー・ホワット・ア・ラヴ」(1987年 )、「ワーキン・マン(ノーウェア・トゥ・ゴー)」、「アイヴ・ビーン・ルッキン」(1988年 )、「ダウン・ザット・ロード・トゥナイト」、「ウェン・イッツ・ゴーン」(1989年 )などがある。
公演としては1984年ロサンゼルスオリンピック や、イリノイ州シャンペーン での一回目のファーム・エイド のコンサートなどがある。コロラド州デンバー のマクニコルズ・スポーツ・アリーナでの20周年コンサートでは、ゲストとしてリッキー・スキャッグス 、エミルー・ハリス 、ドク・ワトソン およびジョン・プライン (英語版 ) が出演した。
ジョン・マッキューアンは1986年末にバンドを離れ、後任として元イーグルス のバーニー・レドン が加入した[ 2] 。レドンは1987年と1988年にニッティー・グリッティー・ダート・バンドで活動した。バンドの19枚目のアルバム『ホールド・オン』ではNo.1シングルの「フィッシン・イン・ザ・ダーク」と「ベイビーズ・ガット・ア・ホールド・オン・ミー」が取り上げられていた。バンドは同じ週に『トゥデイ 』と『ザ・トゥナイト・ショー 』に出演し、ヨーロッパ ツアーに出発した。アルバム『ワーキン・バンド (英語版 ) 』にミュージシャン、ソングライター およびシングル曲「コーデュロイ・ロード」のリードシンガーとして貢献したのちに、バーニー・レドンがバンドを離れた。
1989年、ニッティー・グリッティー・ダート・バンドは『永遠の絆 Vol.2 (英語版 ) 』を録音するためにナッシュビルに戻ってきた[ 2] 。最初の『絆』からの帰還者としてはアール・スクラッグス 、バッサー・クレメンツ およびロイ・エイカフ などがいた。ジョニー・キャッシュ とカーター・ファミリー 、エミルー・ハリス 、そしてリッキー・スキャッグス が、ジョン・プライン (英語版 ) 、リヴォン・ヘルム 、ジョン・デンバー 、ジョン・ハイアット (英語版 ) 、ブルース・ホーンズビー および元ザ・バーズ のロジャー・マッギン とクリス・ヒルマン らとともにセッションに加わった[ 2] 。このアルバムは2部門でグラミー賞 を獲得し[ 6] 、カントリーミュージック協会賞 の最優秀カントリー・ボーカル・パフォーマンス賞(デュオないしグループ)とカントリーミュージック協会の1989年最優秀アルバム賞を受賞した。
1990年~2000年:"熟成"時代
ハンナ、ファッデン、イボットソン、カーペンターの4人組として、カナダ 、ヨーロッパ、そして日本へと同様にバンドは再び旧ソビエト連邦でツアーした。25周年コンサートはT・ボーン・バーネット のプロデュースでアルバータ州レッドディア で Live Two Five として録音された。
1992年 、バンドはグラミー賞 受賞アルバム『Another Country』 でアイルランド 民謡 のチーフタンズ とコラボレート した。その他の成果としてはアルバム『Acoustic』 、自らの「木製」サウンドへスポットライトを当て、カーラ・ボノフ とのデュエット、MCA のオリンピック・コンピレーション向けの "You Believed in Me"、デッカのトリビュートアルバム『Not Fade Away』 のためのバディ・ホリー の「メイビー・ベイビー」のカバーなどがある。
『The Christmas Album』 が1997年 にリリースされ、1999年 に『Bang! Bang! Bang!』 が続いた。
2000年代
ジョン・マッキューアンは2001年 にバンドに再加入した。2002年 、ニッティー・グリッティー・ダート・バンドは彼らのランドマークとなった『永遠の絆 』の30周年を記念して、1972年 のアルバムのリマスター CDと新しいコンピレーションアルバム『永遠の絆 Vol.3 (英語版 ) 』をリリースした。全曲新曲のアルバム『Welcome to Woody Creek』 が2004年 にリリースされた。ジミー・イボットソンは数年後にバンドから離れた。
2004年には、カントリー・グループのラスカル・フラッツ が、1994年 のニッティー・グリッティー・ダート・バンドのアルバム『Acoustic』 収録の "Bless the Broken Road" のカバー版をリリースした。この作品でソングライターのジェフ・ハンナ、マーカス・ハーモン、ボビー・ボイドは2005年 にグラミー賞最優秀カントリーソングを受賞した。
2005年、バンドは地雷被害者のためのクリア・パス・インターナショナルの活動を支援するためのチャリティー・アルバム『Too Many Years』 に楽曲 "Soldier's Joy" の使用権を寄付 した。2005年にはまた、40年間の音楽産業 への貢献に対して、International Entertainment Buyers Associationに認められた。
2009年 、バンドはニュー・アルバム『Speed of Life (英語版 ) 』をリリースした。ジョージ・マッセンバーグ とジョン・ランドール・スチュワートのプロデュースを受けた『Speed of Life』 では、過剰な作りこみを意図的に避けて、バンドの協働精神と、自発性を示す一連のライブ、自由奔放なスタジオ録音で構成されている。『Speed of Life』 の13曲のうち、11曲はバンドメンバーが書いた新曲で、2曲はキャンド・ヒート のウッドストックでの演奏曲「ゴーイング・アップ・ザ・カントリー (英語版 ) 」とスティーラーズ・ホイール の「スタック・イン・ザ・ミドル 」のカバーである。
2010年代
2015年 9月、ニッティー・グリッティー・ダート・バンドは彼らの50周年をライマン・シアターでの全席売り切れとなった公演で記念した。2016年 3月に公開された、PBS の特番用に録画されたコンサートにはゲストとして元メンバーのイボットソンに加えてジョン・プライン (英語版 ) 、サム・ブッシュ 、ヴィンス・ギル 、ジェリー・ジェフ・ウォーカー 、アリソン・クラウス 、ロドニー・クロウエル 、バイロン・ハウス、ジェリー・ダグラス およびジャクソン・ブラウン が出演した。2016年9月30日、ライヴCD およびDVD の Circlin’ Back: Celebrating 50 Years がリリースされた。2016年のレビューで、ロサンゼルス・タイムズ は(『永遠の絆』の)最初のリリースが「伝統的なカントリーとロック・ミュージックのコミュニティを分離していた障壁を打ち破り、アメリカーナ・ミュージックとして知られるものの最終的な出現の舞台を設定する手助けをした」と書いた[ 7] 。ジョン・マッキューアンは、50周年ツアーの最後に、2017年 12月でバンドから離れることを公表した。現在、ジョンはソロ・アーティストとして活動している。2018年 、ジェイム・ハンナ(ジェフ・ハンナの息子)とロス・ホームズが、2016年からバンドとツアーしているジム・フォトグロとともにバンドのツアーに参加してている。ジムは「フィッシン・イン・ザ・ダーク」の共作者である。
2019年 6月25日、ニューヨーク・タイムズ・マガジン は2008年ユニバーサル・スタジオ火災 (英語版 ) でマスターテープが破壊されたと伝えられている数百のアーティストの中にニッティー・グリッティー・ダート・バンドを掲載した[ 8] 。
家族
ジェフ・ハンナとジョン・マッキューアンの息子たち、ジェイム・ハンナとジョナサン・マッキューアンはハンナ=マッキューアン (英語版 ) として2005年にドリームワーク・レコードで録音した[ 9] 。
受賞及びノミネーション
1984年 – CMA 最優秀インストゥルメンタルグループ(ノミネート)
1985年 – CMA 最優秀インストゥルメンタルグループ(ノミネート)、ACM 最優秀ボーカル(ノミネート)
1986年 – CMA 最優秀ボーカルグループ(ノミネート)
1988年 – CMA 最優秀ボーカルグループ(ノミネート)
1989年 – CMA 最優秀アルバム(受賞)[ 10] 、グラミー賞 最優秀カントリー・コラボレーション賞ヴォーカル部門(受賞)、最優秀ブルーグラス・アルバム賞(受賞)[ 11] 、グラミー賞最優秀共同プロデュース・カントリー・インストゥルメンタル(受賞)
1990年 – ナッシュビルのStarWalk の銘板[ 12]
2002年 – デュオないしボーカルグラミー賞最優秀カントリー・ボーカル・パフォーマンス部門(ノミネート)、最優秀カントリー・コラボレーション賞ヴォーカル部門(ノミネート)
2003年 – CMA 最優秀ボーカル・イヴェント(ノミネート)(ジョニー・キャッシュとともに)、IBMA award for Best Recorded Event
2004年 – グラミー賞最優秀カントリー・インストゥルメンタル(アール・スクラッグス、ランディ・スクラッグス、ジェリー・ダグラス、バッサー・クレメンツとともに)[ 13]
2015年 – コロラド音楽の殿堂 入り[ 14]
メンバー構成
1966年 5月~8月
1966年~1967年
1967年~1968年
1969年~1973年
1974年~1975年
1976年~1977年 The Dirt Band時代
ジェフ・ハンナ – ギター 、ドラムス 、ウォッシュボード 、パーカッション 、ボーカル
ジミー・フェイデン – ドラムス、ギター、ハーモニカ 、ボーカル
ジョン・マクユーアン – ギター、フィドル、バンジョー、マンドリン、アコーディオン
ジョン・ケイブル – ギター、ベース 、ボーカル
ジャッキー・クラーク – ギター、ベース、ボーカル
1977年~1979年 The Dirt Band時代
ジェフ・ハンナ – ギター 、ウォッシュボード 、パーカッション 、ボーカル
ジミー・フェイデン – ギター、ハーモニカ 、ボーカル
ジョン・マクユーアン – ギター、フィドル、バンジョー、マンドリン
アル・ガース – サキソフォン 、フィドル、キーボード、パーカッション、ボーカル
メレル・ブリガンテ – ドラムス、パーカッション
リチャード・ハサウェイ – ベース 、ボーカル
1979年~1980年 The Dirt Band時代
1980年~1981年 The Dirt Band時代
1981年~1982年 The Dirt Band時代
ジェフ・ハンナ – ギター 、ウォッシュボード 、パーカッション 、ボーカル
ジミー・フェイデン – ギター、ハーモニカ 、ボーカル
ボブ・カーペンター – キーボード 、アコーディオン 、ボーカル
ジョン・マクユーアン – ギター、フィドル、バンジョー、マンドリン、アコーディオン、ボーカル
リチャード・ハサウェイ – ベース 、ボーカル
ヴィク・マストリアニ – ドラムス
ブライアン・サヴェイジ - サキソフォン
1982年~1986年
1987年~1988年
1988年~2000年
2001年~2005年
2005年~現在
Timeline
ディスコグラフィ
スタジオ・アルバム
『ニッティー・グリッティー・ダート・バンド』 - The Nitty Gritty Dirt Band (1967年)
『リコシェット』 - Ricochet (1967年)
『レアー・ジャンク』 - Rare Junk (1968年)
『アンクル・チャーリーと愛犬テディ』 - Uncle Charlie & His Dog Teddy (1970年)
『オール・ザ・グッド・タイムズ』 - All the Good Times (1972年)
『永遠の絆』 - Will the Circle Be Unbroken (1972年) ※コラボレーション作品
『星条旗よ永遠なれ!』 - Stars & Stripes Forever (1974年)
『ドリーム』 - Symphonion Dream (1975年)
『ワイルド・ナイツ』 - The Dirt Band (1978年) ※ダート・バンド名義
『アメリカン・ドリーム』 - An American Dream (1979年) ※ダート・バンド名義
『メイク・ア・リトル・マジック』 - Make a Little Magic (1980年) ※ダート・バンド名義
『ジェラシー'81』 - Jealousy (1981年) ※ダート・バンド名義
Let's Go (1983年)
『プレーン・ダート・ファッション』 - Plain Dirt Fashion (1984年)
『パートナーズ・ブラザーズ・アンド・フレンズ』 - Partners, Brothers and Friends (1985年)
Hold On (1987年)
Workin' Band (1988年)
『永遠の絆 Vol.2』 - Will the Circle Be Unbroken: Volume Two (1989年) ※コラボレーション作品
The Rest of the Dream (1990年)
『ノット・フェイド・アウェイ』 - Not Fade Away (1992年)
Acoustic (1994年)
The Christmas Album (1997年)
『バング・バング・バング』 - Bang, Bang, Bang (1999年)
Will the Circle Be Unbroken, Volume III (2002年) ※コラボレーション作品
Welcome to Woody Creek (2004年)
Speed of Life (2009年)
Dirt Does Dylan (2022年)
脚注
^ a b c d e Eder, Bruce. Nitty Gritty Dirt Band | Biography & History - オールミュージック . 2021年4月13日 閲覧。
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r Colin Larkin , ed (1997). The Virgin Encyclopedia of Popular Music (Concise ed.). Virgin Books . pp. 905/6. ISBN 1-85227-745-9
^ Bego, Mark (2005). Jackson Browne: His Life and Music . Citadel Press . p. 26. ISBN 0-8065-2642-4 . https://books.google.com/books?id=TSoOOD-MidAC&q=%22golden+bear%22+%22huntington+beach%22
^ Hanna, Jeff (2013). "The Making of The Nitty Gritty Dirt Band's 'Mr. Bojangles.' " Grammy.com (December 27, 2013). Retrieved December 28, 2019.
^ King Tut - SNL , https://www.youtube.com/watch?v=FYbavuReVF4 2021年3月31日 閲覧。
^ The Recording Academy. Grammy.com Archived February 15, 2009, at the Wayback Machine .. Retrieved August 22, 2009.
^ Lewis, Randy (September 9, 2016). “Premiere: Jackson Browne joins Nitty Gritty Dirt Band for 50th” . Los Angeles Times (Los Angeles Times). オリジナル のNovember 10, 2016時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20161110105901/http://www.latimes.com/entertainment/music/la-et-ms-jackson-browne-nitty-gritty-dirt-band-20160909-snap-htmlstory.html November 9, 2016 閲覧。
^ “Here Are Hundreds More Artists Whose Tapes Were Destroyed in the UMG Fire ”. The New York Times (June 25, 2019). June 28, 2019 閲覧。
^ Ruhlmann, William. “Hanna-McEuen biography ”. Allmusic . February 13, 2008 閲覧。
^ “Archived copy ”. December 22, 2015時点のオリジナルよりアーカイブ 。December 11, 2015 閲覧。 , Retrieved January 23, 2018
^ Winners 32nd Annual GRAMMY Awards (1989) Archived November 14, 2017, at the Wayback Machine ., Retrieved January 23, 2018
^ Hurst, Jack (July 19, 1990). “Variety Works ”. Chicago Tribune . 2021年3月31日 閲覧。
^ Winners 47th Annual GRAMMY Awards (2004) Archived February 18, 2018, at the Wayback Machine ., Retrieved January 23, 2018
^ “Archived copy ”. January 24, 2018時点のオリジナルよりアーカイブ 。January 23, 2018 閲覧。 , Retrieved January 23, 2018
外部リンク