ホーンズビーのレコーディング・キャリアは、彼の楽曲の中で最大のヒットとなった「ザ・ウェイ・イット・イズ」で始まった。この曲は1986年のアメリカ音楽チャートでトップに立った[8]。疾走感がありながらも内省的なピアノリフと That's just the way it is / Some things will never change / That's just the way it is / But don't you believe them という歌詞の繰り返しが受けたこの曲は、公民権運動と根強い人種差別の一面を描き出した[9]。また、この曲は一面で、1980年代初頭から中盤にかけての経済不況に対する不満をかこっていたアメリカの大衆を刺激するものでもあった。その後この曲は、2パック、E-40やメイスなど、6組以上のラップ・アーティストにサンプリングされている[8]。
このシングルの世界的な成功を受けて、アルバム『ザ・ウェイ・イット・イズ』はマルチプラチナアルバムとなり[10]、さらに収録曲の「マンドリン・レイン」がトップ5に入るヒットとなった[8]ほか、「エヴリ・リトル・キス」 ("Every Little Kiss") も好評だった[8]。この他の収録曲も、一部で“バージニア・サウンド”と呼ばれるようになる、南部の味わいを感じさせるロック・ジャズ・ブルーグラスのミックスというスタイルを確立するのに貢献した[11]。この勢いを駆ったザ・レインジは1987年、シンプリー・レッドなどを抑えてグラミー賞最優秀新人賞を獲得した。
ザ・レインジのサウンドは、他のアーティストと比べて幾分特徴的であった。一つには、ホーンズビーのピアノソロにおけるシンコペーションの多用。また、ホーンズビーのピアノは1980年代のポップスで一般的だったものに比べてより明るいサウンドであり、さらに、「ザ・ショー・ゴーズ・オン」("The Show Goes On")、「ザ・ロード・ノット・テイクン」("The Road Not Taken") といった曲で、ホーンズビーのソロの間シンセサイザーをバックグラウンドで鳴らし続けるという点のほか、ジョン・モロのドラムがしばしば曲全体を通してループしていたという点がある。これは典型的なダブルタイム・ビートであり、ホーンズビーや他のバンド・メンバーがさらに多くのソロを入れる助けになった。
ザ・レインジの2枚目のアルバム『シーンズ・フロム・ザ・サウスサイド』は1988年に発表された。このアルバムからマンスフィールドに代わってピーター・ハリス (Peter Harris) が加入した。本作からは「ルック・アウト・エニー・ウィンドウ」("Look Out Any Window") や「ザ・ヴァレー・ロード」("The Valley Road") といった、“さらに広がりのある”アレンジによってホーンズビーのピアノソロが“さらに表現豊か”になった[12][13]と多くの批評家に賞賛されたヒット曲が生まれた。ホーンズビーの友人であるヒューイ・ルイスに提供し、ナンバーワン・ヒットになった楽曲「ジェイコブズ・ラダー」[14]のセルフカヴァーも収録されている。『シーンズ・フロム・ザ・サウスサイド』はアルバムとしては成功し、再び「アメリカ的なもの」や「小さな町」への郷愁をリスナーに呼び起こした[13]が、この後シングル中心になっていった音楽市場において、本作はザ・レインジによる最後のヒット・アルバムとなった[12]。
1990年、ザ・レインジのアルバム『ナイト・オン・ザ・タウン』を発表。この作品ではウェイン・ショーターやチャーリー・ヘイデンといったジャズ・ミュージシャンや、ブルーグラスの先駆者であるベラ・フレックと共演した。ホーンズビーのスタイルが変化してきたことが明らかに分かるアルバムで、ジェリー・ガルシアのギターを前面に押し出すなどロック色が強くなっており、とりわけ、ヒット・シングル「アクロス・ザ・リバー」("Across the River") などでこれが顕著であった[16]。コンサートでは、ザ・レインジは1曲の演奏時間を長くし、さらに多くの“自由な音楽的やり取り”[8]を取り入れるようになった。このアルバムは批評家にも受けがよく、プロデュース、政治との関連性、凝り固まったポップミュージックを脱してジャズやブルーグラスを取り入れた[16]ホーンズビーの姿勢が評価された。
ホーンズビーのオリジナル曲「ザ・ヴァレー・ロード」や「スタンダー・オン・ザ・マウンテン」("Stander on the Mountain") は、デッドのコンサートでもたびたび演奏された。またホーンズビーも、デッドのライブ・アルバム『インフラレッド・ローゼス』収録の「シルバー・アップルズ・オブ・ザ・ムーン」("Silver Apples of the Moon") で即興演奏を披露している。彼のデッドとの関係は、1995年のデッド解散まで続き、デッドのコンサートへの出演は100回以上を数えた。1990年代の初めから現在に至るまで、ホーンズビーのライブには数多くのデッドヘッズ(デッドの熱狂的ファン)がつめかけるようになっている。これについて、ホーンズビー自身は「グレイトフル・デッド時代からのファンのみんなはとても好きだ。なにしろ、彼らは結構冒険的な音楽リスナーだからね」[3]と語っている。彼はデッド時代に敬意を表する意味で、自身のコンサートで数多くのデッドの曲を演奏したり、スタジオ・アルバムやライブ・アルバムでオマージュを捧げている[15]。
1994年、デッドがロックの殿堂入りを果たした際、ホーンズビーがプレゼンターを務めた[19]。その後も、ホーンズビーはボブ・ウィアーのバンドラットドッグ、ミッキー・ハートのソロ・プロジェクトや、2005年に開催されたジェリー・ガルシアの追悼コンサート「Comes a Time」への出演など、デッド関連のプロジェクトに関わり続けている。
ソロ時代
ソロ名義レコード
ホーンズビーは初のソロ名義によるアルバム『ハーバー・ライツ』を1993年に発表した。このアルバムではさらにジャズへの志向を見せ、パット・メセニー、ブランフォード・マルサリス、ジェリー・ガルシア、フィル・コリンズにボニー・レイットと、一流のゲストミュージシャンが揃っていた。それまでのアルバムとは違って、本作はホーンズビー自身やゲスト・ミュージシャンの「長時間のインストゥルメンタル」ソロプレイが「曲から自然に流れ出てくる」[20]ように計られたものであった。アルバム全体のトーンは、50秒間のソロピアノの後にアップテンポなジャズナンバーへと展開し、メセニーのギターで締めくくられる1曲目の表題曲によく表現されている。アルバムの最後は、ガルシアのギターソロにホーンズビーのピアノが絡む「パスチャーズ・オブ・プレンティ」("Pastures of Plenty") で幕となる。「トーク・オブ・ザ・タウン」("Talk of the Town") ではグレイトフル・デッドの曲「ダーク・スター」からの引用もされている[15]。ミッドテンポな「フィールズ・オブ・グレイ」("Fields of Gray") は、このアルバムを制作する直前にホーンズビーに生まれた双子の息子たちのために書かれ、ラジオでもよく流された。本作は「クールでジャジーなサウンド」「アメリカ人の人生、愛、そして心の痛みが丁寧に描かれている」[20]として、批評家やファンにも好評であった。この年、バルセロナオリンピックのためにマルサリスと共作した「バルセロナ・モナ」("Barcelona Mona") で、グラミー賞最優秀ポップ・インストゥルメンタル賞を受賞。ホーンズビーにとって3度目のグラミー受賞であった。
1995年、アルバム『ホット・ハウス』を発表。ジャケットには、ブルーグラスの大御所ビル・モンローとジャズの重鎮チャーリー・パーカーがジャムセッションを行なっている姿を想像したイラストが使用され、当時ホーンズビーが発展させていた、多ジャンルをミックスした豊かな音楽スタイルの比喩となっている。このアルバムでは前作『ハーバー・ライツ』から続くジャズサウンドが展開されているが、ここでは『ナイト・オン・ザ・タウン』や他アーティストとの共同作業からのブルーグラスの風味が再び取り入れられている[21]。それまでの作品にも社会的な歌詞の曲があったように、本作でも配偶者間の殺人を歌った「カントリー・ドクター」("Country Doctor")、原子力事故を取り上げた「ホット・ハウス・ボール」("Hot House Ball")、結婚式の日の不倫というテーマの「白いホイールのリムジン」("White Wheeled Limousine") など、曲自体はキャッチーながらその背後にあるメッセージは非常に暗いものが多かった[14]。ゲストミュージシャンは、以前の作品と同じくパット・メセニーやジミー・ハスリップなどが参加しており、ベラ・フレックも再びバンジョーで加わっている。
『ホット・ハウス』から3年後の1998年、ホーンズビーにとって初の2枚組アルバム『スピリット・トレイル』を発表。ジャケット写真にホーンズビーのおじのユーモラスな姿をあしらったこの作品は、インストゥルメンタル曲に加えてロック、ジャズ、その他ホーンズビーがそれまで追い求めてきた音楽すべてが注ぎ込まれたものであった。スピリチュアルでほとんどゴスペルに近い「プリーチャー・イン・ザ・リング・パート1 & 2」("Preacher in the Ring, parts I & II") から、キャッチーなコード進行を見せる「サッド・ムーン」("Sad Moon") まで、様々な素材で織られたタペストリーのような作品である[22]。「サンフラワー・キャット」("Sunflower Cat (Some Dour Cat) (Down With That)") ではグレイトフル・デッドの曲「チャイナ・キャット・サンフラワー」("China Cat Sunflower") をサンプリングし、本作でもデッドへのオマージュを捧げている[15]。『スピリット・トレイル』はホーンズビー作品の中でも特に悔恨の思いを強く歌った歌詞が多く、「極めて南部的なテーマ」の「人種、宗教、裁きと寛容についての曲」であり、「これらの問題に対する取り組み」を考えた作品[22]である。
『ハーバー・ライツ』『ホット・ハウス』『スピリット・トレイル』という流れを通じて、ホーンズビーのピアノ演奏は次第に複雑さを帯びるようになり、『スピリット・トレイル』の「キング・オブ・ザ・ヒル」("King of the Hill") に見られるように、いくつもの音楽スタイルを束ね、さらに難しい技術を取り入れるようになっていった[22]。このソロ・アルバム時代に、ホーンズビーはキャリアの中で初めて、彼のソロピアノによるミニツアーを数本行なった[14]。これらの公演では、クラシック曲、ジャズのスタンダード、伝統的なブルーグラス、フォーク、フィドル曲といったジャンルを超えて、グレイトフル・デッドの曲、そしてもちろん自作曲の再アレンジ版を自在に行き来する演奏を見せた[15]。ホーンズビー自身は、この集中的なソロ・パフォーマンスの期間について、「ピアノの研究に再び没頭する」ことができ、「自身の演奏がまったく新しいレベルに導かれ」、バンド形式ではできなかったであろう探索や即興演奏が可能になったと振り返っている[22]。
『ヒア・カム・ザ・ノイズメイカーズ』はホーンズビーのコンサートの雰囲気をよくとらえているというだけでなく、彼の力強い気質やそれまで追い求めてきた真に多様なスタイルを反映し、ライブパフォーマンスがあたかも完全な音楽的瞬間を求める旅のようになっている[8][18]。このアルバムは、ジャムバンドのやり方の中にロック、ジャズ、クラシックを含んだスタイルを作り上げるというホーンズビーの強い意志が表れている[24]。本作では、フルバンドという構成の中、完全に自然発生的な即興演奏や、ホーンズビーのソロによって元の曲が何なのか分からないほどにまでアレンジが加わっているのが見て取れる[8]。また、ジョージ・ガーシュウィン、サミュエル・バーバー、ビル・エヴァンス、バド・パウエルそしてボブ・ディランといった、ホーンズビーが影響を受けているアーティスト[24]の曲のカヴァーも収録されている。そして、デッドの「レディ・ウィズ・ア・ファン」("Lady with a Fan") や「ブラック・マディ・リバー」("Black Muddy River") といった曲も演奏し、その影響を直接的に認めている[18]ほか、デッドの「ワーフ・ラット」("Wharf Rat") から「そのまま出てきたかのような」アレンジ[23]の「ザ・ヴァレー・ロード」も演奏している。
ホーンズビーの次のスタジオ・アルバムは、2002年の『ビッグ・スウィング・フェイス』であった。これはホーンズビーのキャリアの中でも最も実験的な作品であり、彼のアルバムの中で唯一、まったくピアノを弾いていない。ポストエレクトロニカのビートやドラムループ、Pro Toolsによる編集、密度の濃いシンセサイザーのアレンジが中心である[25]。本作はまた、「意識の流れ的な言葉遊び」を用いた、それまでの作品よりもエキセントリックかつユーモラスな歌詞を用いている[26]。それまでのホーンズビーらしさが見えるのは「カートゥーンズ&キャンディ」("Cartoons & Candy") でのフュージョン・ジャムや、スティーヴ・キモックの長いギターソロにジャムバンドの影響が見られる「ザ・チル」("The Chill") 程度であり[26]、逆に1曲目の「スティックス&ストーンズ」("Sticks and Stones") ではレディオヘッドの「エヴリシング・イン・ イッツ・ライト・プレイス」("Everything in its right place") にオマージュを捧げたりもしている[27]。『ビッグ・スウィング・フェイス』は「新しい、進歩したブルース・ホーンズビー」[28]という賞賛から、「誰か他の人物が歌っているようだ」「2002年の変なレコードナンバーワン」[25]という批判まで、毀誉褒貶さまざまであった。RCAの宣伝が不足していたこともあってセールスは芳しくなく、結果的に本作が同レーベルにおける最後の作品となった[27]。
2004年、ホーンズビーは19年在籍したRCAレコードを離れ、さらにアコースティックでピアノを中心に置いたアルバム『ハルシオン・デイズ』をコロムビア・レコードから発表し、批評家から「純粋なホーンズビー」と評価された[29]。ゲストにスティング、エルトン・ジョン、エリック・クラプトンを迎え、「ゴナ・ビー・サム・チェンジズ・メイド」("Gonna Be Some Changes Made")、「キャンディー・マウンテン・ラン」("Candy Mountain Run")、「ドリームランド」("Dreamland") そして「サーカス・オン・ザ・ムーン」("Circus On The Moon") といった、ホーンズビーの即興演奏やノイズメイカーズのライブサウンドの多様性を示した収録曲は、すぐにコンサートでの定番となった。一方で、ホーンズビーのソロピアノによる曲「ホワット・ザ・ヘル・ハップンド」("What The Hell Happened To Me")、「フーレイ・フォー・トム」("Hooray For Tom")、「エアー・ゴードン」("Heir Gordon") は「ランディ・ニューマンの作品のよう」とも評された[28]。本作は『ビッグ・スウィング・フェイス』に比べればさほどリスクを冒した作品ではなかったが、「(ホーンズビーの)彼らしい曲と冒険的な面の絶妙なバランス」[29]と評価された。本作発表後の、ノイズメイカーズとのツアーおよびホーンズビー自身のソロツアーでは、歌手・演奏家として成長すること、ピアノという楽器の可能性をあらゆるジャンルで広げることへの欲求を見せた[11]。
この時期には、デジタルリマスターしたライブ録音をCDのボックス・セットやウェブサイトからのダウンロードによって提供することも始めた。サイト「Bruce Hornsby Live」では、2002年より一部のライブ音源がダウンロードできるようになっている。2006年7月、CD4枚組にDVDを加えたボックス・セット『インターセクションズ』を発売。内容は「Top 90 Time」「Solo Piano, Tribute Records, Country-Bluegrass, Movie Scores」「By Request (Favorites and Best Songs)」の3パートに分かれており、収録曲の3分の1は未発表の音源、その他も大部分がシングルのB面曲や他アーティストとの共演作、映画サウンドトラックの曲である[30]。この中で特筆すべきものとして、サックス奏者オーネット・コールマンとのデュエット、ロジャー・ウォーターズと共演したピンク・フロイドの「コンフォタブリー・ナム」がある[31]。このボックス・セットはまた、ホーンズビーの自作曲を再アレンジする能力の高さ、とりわけライブ時のそれがよくわかるものでもあり[32]、例えば「ザ・ヴァレー・ロード」は、ブルージーなファンク調のノイズメイカーズ・ライブバージョン、ニッティ・グリッティ・ダート・バンドによるグラミー賞を受賞したブルーグラスバージョン、そして緩い感じながらもグルーヴのあるブギのグレイトフル・デッドバージョンと、3つの異なるバージョンが収録されている[30]。このほか、2007年のグラミー賞最優秀ポップインストゥルメンタル賞にノミネートされた曲「ソングH」("Song H") も収録されている。2006年のソロピアノ・ツアーのチケット購入者には、もれなくこのボックス・セットが配られた。