福原 鐐二郎(ふくはら りょうじろう、1868年8月13日(慶応4年6月25日) - 1932年(昭和7年)1月17日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の文部官僚。号は蘇洲。
文部次官、東北帝国大学総長、学習院長、帝国美術院(日本芸術院の前身)院長、貴族院議員を歴任した。
経歴
桑名藩士・福原資英の二男として生まれる。共立学校、第一高等学校を経て、1892年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。逓信省試補となり官房兼郵務局勤務。1893年7月、内務省に移り内務属となる。同年11月、社寺局神社課長に就任し、以後、内務省参事官、奈良県参事官、奈良県警察部長、鳥取県警察部長などを歴任。
1897年3月、文部省に転じ参事官に就任。1899年5月、文部省から教育行政法の研究のため派遣されヨーロッパに留学。1901年に帰国し、同年7月、兼文部省書記官となる。以後、総務局会計課長、専門学務局長、兼文部次官心得、文部次官、兼専門学務局長などを務め、1916年10月に退官した。
退官後の1916年10月5日、貴族院議員に勅選され[1]、同成会に属し死去するまで在任した。1917年10月、第3代東北帝国大学総長、1922年11月、第14代学習院長に就任。
1924年8月、帝国美術院長となり1931年11月まで務めた。また1929年10月、学習院長退任に伴い宮中顧問官となった。
人物
1911年2月から4月まで続いた 夏目漱石のいわゆる文学博士の学位授与問題で、政府側における責任者の地位にあったのが、当時文部省専門学務局長の任にあった福原であった(漱石から福原への書翰も残されている[2])。
親族
栄典
- 位階
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
著作
- 「美術審査と展覧会」(国民教育奨励会編纂 『教育五十年史』 民友社、1922年10月 / 国書刊行会〈明治教育古典叢書〉、1981年4月 / 日本図書センター、1982年1月)
- 『蘇洲詩存』 福原吉野、1932年3月 / 寺岡富士、1985年6月
- 著書
脚注
- ^ 『官報』第1256号、大正5年10月6日。
- ^ 『漱石全集』第16巻(1967年、岩波書店)
- ^ 『官報』第7020号、「叙任及辞令」1906年11月21日。
- ^ 『官報』第8486号「叙任及辞令」1911年10月2日。
- ^ 『官報』第1258号「叙任及辞令」1916年10月9日。
- ^ 『官報』第1276号「叙任及辞令」1916年11月1日。
- ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。
- ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
- ^ 『官報』第1455号「叙任及辞令」1931年11月4日。
- ^ 『官報』第996号「叙任及辞令」1915年11月26日。
参考文献
関連文献
外部リンク
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東北大学総長(東北帝国大学総長:第3代:1917年 - 1919年) |
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東北帝国大学総長 | |
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東北大学総長 ※1949-1994学長 | |
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前身諸学校・大学長 |
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仙台医学専門学校長 |
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第二高等中学校医学部主事 |
- 学部長/主事 山形仲芸 1888/1888-1894
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第二高等学校医学部主事 | |
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仙台医学専門学校長 |
- 心得/校長 山形仲芸 1901/1901-1912
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東北帝国大学附属医学専門部主事 | |
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| | | | 東北大学附属医学専門部長 |
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東北帝国大学臨時附属医学専門部主事 | |
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東北帝国大学附属医学専門部長 | |
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東北大学附属医学専門部長 | |
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前身諸学校・大学長 |
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| 九州大学附属工業専門部長 |
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九州帝国大学附属工業専門部長 |
- 事務取扱/部長 河東卓四郎 1944/1944-1945
- 事務取扱/部長 張玄彦 1945/1945-1946
- 坂井甚吉 1946-1947
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九州大学附属工業専門部長 | |
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| | | 九州大学附属医学専門部長 |
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九州帝国大学臨時附属医学専門部主事 | |
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九州帝国大学附属医学専門部長 | |
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九州大学附属医学専門部長 | |
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