平和遺族会全国連絡会(へいわいぞくかいぜんこくれんらくかい)は、靖国神社への公式参拝を是とすることを初めとする日本遺族会のあり方に反対する日本の戦没者遺族たちにより、北海道から沖縄まで全国各地に組織された「平和遺族会」[1][2][注 1]の取りまとめ組織。
概要
「天皇の戦争責任を追及すること無くして戦没者の死と向き合うことは不可能」を活動の原点としており[4]、その上で、日本国憲法で謳われている「主権在民・平和主義・国際協調主義」(前文)、「戦争の放棄」(第9条)および「政教分離原則」(第20条)の精神を固持し、二度と国内外に戦没者、戦争犠牲者を生み出させず、また靖国神社公式参拝など一切の戦争への道を許さず、平和をつくりだすため共に努力することを活動の目的としている[5]。
医師(元軍医)で牧師の小川武満が1986年(昭和61年)に当連絡会を発足させたが[2]、小川の死後、現在はキリスト教信者の西川重則[注 2]が代表に就任。
略称が同一で共産党が主導する「平和を願い戦争に反対する戦没者遺族の会(略称:平和遺族会・会長:島田初代)」とは無関係。
歴史
当連絡会立ち上げの直接の契機となったのは、1985年(昭和60年)8月15日、すなわち同年の終戦記念日当日に内閣総理大臣・中曽根康弘(当時)が靖国神社への公式参拝を行ったことである[3]。
それまでにも、1969年に靖国神社法案が初めて国会に提出されたことに対し「戦争を美化する」もの等と反対の意を示した医師(元軍医)で牧師の小川がキリスト教徒の戦没者遺族達と共に同年6月「キリスト者遺族の会」を先ず結成[2][6]、これを皮切りに、仏教・キリスト教両信徒など靖国公式参拝に反対する戦没者遺族たちが同様の遺族会組織を次々と立ち上げていった[6]。
これらのような遺族会組織が中心となって、前記靖国公式参拝の約1ヶ月後にあたる1985年9月17日に結成準備委員会を設立、翌1986年(昭和61年)7月7日に”反靖国”で一致する者たちの結集を目指して当連絡会を発足するに至る[6]。
なお、小川が先立って発足させている前記「キリスト者遺族の会」については、現在当連絡会代表を務める西川が実行委員長として、同様に引き継ぎ、現在に至っている[7]。
沿革
平和集会(8月15日)
当連絡会による集会の開催や他団体による集会への客員参加の中でも、毎年8月15日(終戦記念日)に開催している平和集会は恒例行事の一つとなっている[2]。
特に2014年(平成26年)と2015年(平成27年)の両終戦記念日に各々開かれた平和集会では、靖国神社に隣接する日本キリスト教団九段教会を会場としており、会場の外で「憲法改正賛成」と署名を求める団体の声などが響く中、国政批判を展開していた(2014年平和集会のテーマは「アジアは日本の侵略・加害の事実を忘れない」、2015年平和集会のテーマは「戦後70年 アジア・太平洋戦争の反省の下に憲法を活かそう! 『安保法制』を廃案に! 再び遺族をつくらせないために」だった)[15][16]。
編纂書籍
※ 英文併記有 - 斎藤忠利 監訳 ・ 市塚日出男ほか 訳
脚注
注釈
- ^ 2011年8月8日付け『解放新聞』紙上に於いては「北海道から沖縄まで14の平和遺族会の連絡会」と伝えている[3]。
- ^ 小川が当連絡会代表として在りし頃には事務局長を務め、35年間にわたり小川を支えてきた[2]。
- ^ 「反靖国連帯会議」を立ち上げた西本願寺派の若手僧侶達は、以後、靖国神社公式参拝や同”国営化”に反対する活動を展開させていった。その過程で、既に旭川などで組織されていた平和遺族会群と交流を深めていったという。そして、「連帯会議」立ち上げから約1年半経過した1986年1月22日に京都市内で全国集会を開き、真宗十派に向けて「真宗門徒として政治利用されず平和を願う真宗遺族会の結成を進める」とのアピールを採択、「真宗遺族会」発足に至った[6]。以後、21世紀に入ってからも真宗遺族会の幹部が当連絡会主催の集会に客員参加するなど、時折行動を共にしている[8][9]。
- ^ 1937年(昭和12年)のこの日に日中戦争(支那事変)の端緒をつくった盧溝橋事件が発生したとされている。当連絡会がこの日を発足日として選ぶにあたり、「二度とアジアの人々を敵視し、平然と何の罪もない民衆を殺すようなことをしてはならないと思う。日本の政府が再び戦争の惨禍をもたらすことがないように最善の努力を払いたいと願う。」との結成宣言を発表している[10]。
- ^ 西川の当連絡会”代表”への正確な就任時期については明らかにされていない模様であるが、西川自身の当連絡会の一員としての行動から拾ってみると、2003年(平成15年)1月15日に実施された「国会前緊急行動」に参加した際には、前代表の小川が存命だったことから”事務局長”の立場であった[11]ことは勿論であるが、小川が死去した翌年2004年(平成16年)から2005年(平成17年)にかけて行われた731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟の控訴審に際して2004年7月20日に弁護士会館で開かれた控訴審第6回公判報告会・講演会ならびに同年10月30日になかのZEROホールで開かれた集会『集会「あぶない日中関係-戦争責任と日中友好-』に参加した際にも”事務局長”とされていた[12]。それが、2005年1月に長谷川ひでのり著『石原知事に挑戦状-とめよう戦争教育・うばうな介護』(星雲社)に絡む鼎談で著者・長谷川らと共に参加した際には”代表”とされていた[13]ほか、2006年8月15日に開かれた当連絡会主催の集会「アジアと共に生きる日本を」に於いても”代表”として基調報告を行っているのが見える[14]。
出典
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