宮内 國郎(みやうち くにお[1]、1932年(昭和7年)[1]2月16日[2][3] - 2006年(平成18年)[4]11月27日[2])は、日本の作曲家。宮内 国郎と表記されることも多い。
略歴
東京府[注釈 1]出身[1]。実家は印刷業を営んでいた[3]。
少年時代、音楽好きであった兄の影響でクラシック音楽に親しみ、16歳のときにジョージ・ガーシュウィンの伝記映画『アメリカ交響楽』を見てジャズに傾倒する[3]。国立音楽大学附属高等学校に入学、松本文男に師事し、トランペット奏者を志したが、高校2年生の時、軽い肺結核を患い断念[3]。服部正、入野義朗、斎藤一郎などの指導を受けながら、作曲家としての修業を積む傍ら、フリーの立場でアレンジを中心に、民放ラジオ局ニッポン放送関係の仕事に従事する[3]。
1950年代後半からテアトル・ド・ポッシュに所属。ニッポン放送での仕事を皮切りに、映画やテレビ番組の音楽を担当するようになる。もともと映像の音楽を手がけるようになったきっかけは、1959年(昭和34年)のフジテレビ開局前に試験電波として流していたテスト放送用の番組に音楽をつけたことが始まりだという[3]。フジテレビ開局以降は同局のテレビドラマの音楽や番組テーマ曲などを次々と作曲し、のちの映像音楽作曲への第一歩を記した。1960年(昭和35年)には、映画『恐妻党総裁に栄光あれ』で初めて映画音楽を手掛ける[3]。
フジテレビに勤務していた友人・円谷皐の推薦により、円谷プロダクションが1964年にフジテレビで放映する予定であった初のテレビ特撮ドラマ『WOO』の音楽担当に抜擢される[要出典][注釈 2]。この企画は実現しなかったが、1966年にTBSで放映が決まった『ウルトラQ』、引き続いて『ウルトラマン』の音楽を担当し、初期ウルトラシリーズのイメージ作りに、音楽面で大きく貢献した[3]。以後、特撮テレビ番組の音楽も多く手掛けた[3]。
1979年(昭和54年)、それまで培ってきた映像音楽の集大成を『ザ☆ウルトラマン』に残すこととなり、これは円谷プロ作品ではBGMを初めて海外録音という快挙を成し遂げた。
ジャズ畑出身だが、晩年はデジタル系の音楽に傾倒していった。『ウルトラQ dark fantasy』では、原作『ウルトラQ』のテーマ曲をデジタル系のサウンドでリメイクしている。
2006年11月27日午後4時13分、大腸癌のため東京都府中市の病院で死去。74歳没。
作品
映画
テレビ
ミュージカル
楽曲
作曲
歌手名の五十音順。
編曲
オリジナルアルバム
- 交響組曲 恐竜(1978年)[注釈 18]
- 交響詩 ウルトラマン/交響詩 ウルトラセブン(1979年)[注釈 19]
- ディスコ ウルトラマン(1979年)
- 「ウルトラマン・ファンタジー組曲“2001”」〜宮内国郎の世界(1997年)
脚注
注釈
出典
参考文献
関連項目
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