リオ・グランデ・ド・スル州
Estado do Rio Grande do Sul
(旗) (紋章)
リオグランデ・ド・スル州 (リオグランデ・ド・スルしゅう、Estado do Rio Grande do Sul [ˈʁi.u ˈɡɾɐ̃dʒ(i) du ˈsuw, riw ˈɡɾɐ̃de do ˈsuɫ] ( 音声ファイル ) )は、ブラジル の最南端に位置する州 である。北にサンタ・カタリーナ州 、南にウルグアイ 、西にアルゼンチン と国境を接しており、東は大西洋に面する。州都はポルト・アレグレ 。ブラジル国内での発音は「ヒ ウグランジ ・ドゥ・スウ 」
ガウーショ(牧童)によるブラジルを代表する料理シュハスコ と、航空会社ヴァリグ・ブラジル航空 の発祥地であり、ワインの生産も盛んである。略称は「RS 」であり、州名はポルトガル語 で南の大きな川 を意味する。日系ブラジル人 による現地日本語媒体による表記は「南大河州 」である。
逆に「北の大きな川 」を意味する名前のリオグランデ・ド・ノルテ州 (Rio Grande do Norte)がブラジル北東部 にある。略称は「RN」。
歴史
イエズス会のサン・ミゲル・ダス・ミソンイス 廃墟。1983年に世界遺産 に登録されている。
州の極西部には17世紀ブラジルのイエズス会 のグアラニー族 に対する伝道または征服(aldeias )の名残が存在する。地域にとって重要なことに、イエズス会 の教父ロケ・ゴンサレス (ロケ・ゴンザレス・デ・サンタ・クルスとしてもまた知られている)は特筆されるべきであり、彼は1626年5月3日にパラグアイから到着し、サン・ニコラウ伝道地を建設し、白人として最初に今日リオ・グランデ・ド・スル州として知られる領域に到達した人物となった。グアラニー伝道所消滅の後に残された全ての遺跡の中で、最も重要なものの一つであるサン・ミゲル 、またはサン・アルカンジョ は、現在のサント・アンジェロ の近くに存在している。音と光 (ポルトガル語では Som e Luz) のショーがサン・ミゲル教会の廃墟で行われている。
1738年に領域(今日のサンタ・カタリーナ州を含む)は王領カピタニア となり、リオデジャネイロの属領となった。スペインとポルトガルの国境紛争はスペイン人にリオ・グランデ (カピタニアの首都だった)と近隣地域を1763年から1776年まで占領させ、1776年にポルトガル領に復帰した。1763年のリオ・グランデ占領はパトス湖 の上流のヴィアマン にあった政府の移転をもたらした。すなわち、ポルト・ドス・カザエスがポルト・アレグレ に改名されて首都となった。1801年のスペインとポルトガルとの戦争に関するニュースは、リオ・グランデの住民に1763年以来スペイン人が領有していた7つの布教地といくつかの国境の要塞を攻撃させ、占領させたが、1801年以来、1777年に条約によって確立された国境に変更はなかった。
サンタ・カタリーナとリオ・グランデの地区は1760年に軍事上の都合によって分離され、1807年に後者はサン・ペドロ・ド・リオ・グランデ としてカピタニア=ジェラールのカテゴリに登録され、リオデジャネイロから独立し、サンタ・カタリーナを従属させた。1812年にリオ・グランデとサンタ・カタリーナは二つの異なったコマルカ が組織され、後者は1822年にブラジル帝国 が組織された際に独立した州となった。
このように、初期の歴史において主に田園地帯だったのにもかかわらず、コロニア・デル・サクラメント を巡るスペインとポルトガルの紛争とグアラニー伝道地戦争によって、リオ・グランデ・ド・スルの大草原は血塗られた戦争の舞台となった。また、元来この地域の一部はウルグアイ の領域(バンダ・オリエンタル )の一部だったが、ウルグアイの独立における混乱の最中にウルグアイはこの地域を喪失した。ブラジルを破りたがっていたアルゼンチン の助けがなければ、ウルグアイはリオ・グランデ・ド・スルの全ての領域を失う可能性があった。独立後の19世紀には国内の反乱の焦点にもなった。1835年に分離主義運動が州内で勃発し、10年間続いた。ファラーポス戦争 は結局軍隊と武器ではなく、金銭と恩赦によって終結したが、州は大きな混乱に苦しみ、長らくそれは回復しなかった。ジュゼッペ・ガリバルディ がヨーロッパ に帰還し、出身地イタリア の英雄になる前に分離主義者に加っていたことは興味深いことである。
1865年、三国同盟戦争 の最中にパラグアイ 軍が州に侵攻し、8月5日にウルグアイアナ の町を占領した。しかしながら、翌年の9月、パラグアイのエスティガリビア将軍は戦うことなくして降伏―― 三国同盟戦争 においては稀な事態―― した。
リオ・グランデ・ド・スルではしばしば政治的扇動が発生したが、重要な革命は1845年のポンシェ・ヴェルデ協定の後、フロリアーノ・ペイショト 将軍―― 彼の考えがたい州政府への干渉はグメルシンド・サライーヴァ の下での1892年から1894年までの反乱につながった―― がリオデジャネイロ の政権を奪取するまで起きなかった。この混乱の中で革命家はサンタ・カタリーナとパラナを占領し、クリチバ を攻略したが、結局、彼らが軍需品を入手出来なかったために打倒された。この混乱における事件はサルダーニャ・ダ・ガマ 提督の死である。ブラジル海軍 の将校であり、1893年から1894年の海軍の反乱の首謀者の一人だった彼は、ウルグアイの国境付近で紛争終結間近に小競り合いの中で死亡した。
1894年から1930年にかけてブラジルを支配したカフェ・コン・レイテ の時代において、リオグランデ・ド・スル州は政治を寡占していたミナス・ジェライス州 、サンパウロ州 に次いで政治的影響力を持つ州だった。その背景には州の経済的影響力を基盤とした地方権力者の存在があった。
1930年にブラジルの独裁者となり1950年に再選されたジェトゥリオ・ヴァルガス は、リオグランデ・ド・スル出身だった。
2024年 5月、州内で長雨(2024年リオグランデ・ド・スル水害 (英語版 ) )。洪水、土砂崩れが多数発生し、60万人以上が避難を余儀なくされた[ 2] 。
地理
州の北部はサンパウロ州 南部からパラナ州 とサンタ・カタリーナ州 を通って延びているブラジル高原 の丘陵地帯に位置しており、多くが低い山脈によって途切れている。低い山脈はセッハ・ド・マール の延長であり、サンタ・カタリーナ州からウルグアイ まで続いている。州の1/3を占める南部はラ・プラタ盆地に位置しており、ウルグアイ、アルゼンチン に続くパンパ の始まりとなっている。
州内にはパトス湖 、メリン湖 などの湖が存在し、ジャグアロン川 、イビクイ川 などの河川が流れている。州西端のウルグアイ川 はアルゼンチンとの国境を形成している。
気候
リオ・グランデは、南温帯 地域に位置し、亜熱帯性気候 である。比較的顕著な四季があり、降水量は一年を通して均等であるものの、旱魃 が起きることもある。冬期の数ヶ月間(6月から9月)は、大雨とミヌアノスと呼ばれる氷点下にまで温度を下げる冷たい南西の風によって特徴付けられ、特に山の多い自治体では、雪が降ることもある。夏の気温は 30℃(86°F ) にまで上昇し、日射病 も稀ではない。
隣接州
主な都市
州都 ポルト・アレグレ
経済
カシアス・ド・スル のブドウ畑
工業セクターはGDPの42.6%と多くを占めており、次にサービスセクターが41.1%と続く。農業はGDP(2004年)の16.3%に相当する。南大河州の輸出品目は、履物 が18.1%、大豆 が14.2%、タバコ が13.6%、自動車 が8.1%、冷凍牛肉 が7.2%、化学物質 が6.8%、皮革 が 5.3%となる(2002年)。
ブラジル経済の6.7%を占めている(2005年)。
最も繁栄しているブラジルの州の内の一つ、南大河州は特に穀物生産、ブドウ生産、牧場、工業生産によって有名である。ブラジルの総人口の6%未満を構成している。南大河州の主な輸出品目は、靴、タバコ、自動車、小麦、牛肉、皮革、化学物質である。州の住人はガウーショ として知られており、パンパ地域に定着した牛飼いの牧童と牧場主にちなんで名付けられている。
住民
19世紀に建造されたカシアス・ド・スル のイタリア系ブラジル人 移民の館
アソーレス人 移民を称えるポルト・アレグレの記念碑
ノーヴァ・ペトロポリス のドイツ系 の建築物
ブラジル地理統計院 (IBGE) によると、州の人口は2022年時点で1088万人である。人口密度は38.63人/km²だった[ 1] 。
最新のPNAD(国家居住統計調査)のセンサスが示すところによれば、8,973,928人(81.7%)が白人 であり、1,405,952人(12.8%)がパルド (褐色)、560,000人(5.1%)が黒人 、43,000人(0.4%)がアジア系 もしくはインディオ である。[ 3]
主にガウーショとアソーレス の人々を背景に持っているポルトガル系 の人々の家系は沿岸部と州南部で優勢である、
ドイツ系 の人々の子孫はシノス渓谷(ノヴォ・アンブルゴ 、サン・レオポルド 、その他)と中部、及び西部地域で優勢である。イタリア系 の人々の子孫は山の中(セラ・ガウーシャ 、カシアス・ド・スル 、ベント・ゴンサルヴェス 、その他)と中部、及び西部地域で優勢である。州の至るところにかなりのポーランド系 とウクライナ系 のコミュニティがある。[ 4]
アフリカ系 の人々の家系はポルト・アレグレ 、ペロータス やリオ・グランデ など州都と南部の諸都市に集中している。州の南部はかなりの人口のインディオ によって特徴付けられている。
現リオ・グランデ・ド・スルの地域には、元来グアラニー族 とカインガング族 をはじめとするインディオ の人々が定住していた。[ 5]
ヨーロッパ人の定着が始まったのは、1627年のスペイン人 のイエズス会士 によってだった。ポルトガル人の イエズス会士は1687年にインディオ伝道所 を建設し、地域を支配した。地域のインディオはカトリックに改宗し、イエズス会と共に生活した。これらの縮図はサンパウロ市 からの、インディオを奴隷として求めたバンデイランテ によって18世紀に破壊された。ポルトガル人のリオ・グランデ・ド・スル入植者は1748年から1756年の間、アソーレス諸島 とポルトガル からの2000人の移民の到着によってに急速に増加した。彼らは現州都のポルト・アレグレ を含む州の各地に定住した。1822年にアフリカ系ブラジル人 はリオ・グランデ・ド・スルの人口の50%を占めていた。この人口は1858年には25%に、2005年には5.2%にまで減少した。彼らの多くはアンゴラ から奴隷として牛 牧場 で働かせるために連行された。今日、黒人のコミュニティは主にポルト・アレグレ地域に集中している。[ 6]
ドイツ移民 が最初に南にブラジルに到着したのは1824年だった。彼らは国家を隣国の侵略から守るため、そして南部地域の空白の内陸部に入植させるためにブラジルに引き寄せられた。彼らが最初に築いた都市はサン・レオポルドだった。続く50年の間に、28,000人のドイツ人が農村部の小農家として働くためにこの地域に流入した。[ 7]
イタリア移民 は1875年にリオ・グランデ・ド・スルに到着し始めた。彼らの多くはヴェネト 、北イタリア、の貧しい農民であり、南ブラジルで自らの農場を獲得するために引き寄せられた。この地域へのイタリア移民は1914年まで続き、総計100,000人のイタリア人がこの時代に定着した。移民の多くは小農家として働き、主に州の一部のセッハ・ガウーシャ (ポルトガル語版 ) でブドウ を栽培した。[ 8]
他のヨーロッパ 人移民もまたリオ・グランデ・ド・スルに移住し、多くは東ヨーロッパ (ポーランド 、ウクライナ 、ロシア )から渡来した。
教育
リオ・グランデ・ド・スル連邦大学
ポルトガル語 は国家の公用語 であり、学校で第一に教えられる言語でもあるが、英語 とスペイン語 も高等学校 での公式のカリキュラムに組み込まれている。
主要な大学
文化
ガウーショ の像
ガウーショの踊り
シマホン(マテ茶)
リオグランデ・ド・スル州はブラジルで最も豊かかつ独特な文化を持つ州の内の一つとして有名である。南大河州の音楽は多くの様式(主にプラタのリズム)、チャマメ やミロンガ 、ポルカ 、チャカレーラ などが混濁している。州の住民はシマホン-隣国ウルグアイやアルゼンチンで飲まれるマテ茶 の当地品-を日常的に愛飲することで国家的に有名である。バーベキューは、局地的にシュハスコ として知られており、日常生活で最も重要な要素の一つである。
州の各地域には独自の文化的背景が存在する。パンパでは、未だに古きガウーショの文化が大きな影響を持っている。ガウーショとはリオグランデ・ド・スル州生まれの人物の誰をも表現することが出来る用語である。同州出身、あるいは同州にアイデンティティを持つ人物は男性であれば男性であればガウーショ(Gaúcho)、女性ならばガウーシャ(Gaúcha)と呼ばれる。ガウーショはまた北米のカウボーイ やベネズエラ ・コロンビア のリャネーロ 、チリ のウアッソ 、メキシコ のバケーロ に対する緩い同義語として、19世紀における地域の農村部での労働者を説明するのにも用いられるものでもある。
州のその他の部分には「ポスト・ガウーショ」文化があり、主にドイツ人 とイタリア人 の移民に影響を受けている。数世代後に、移民の子孫は彼らの文化的な影響を未だに強く残したまま、地域社会に同化しており、多くは農村部に居住している。
日本との関係
日本の姉妹都市・提携都市
中部地方
脚注
出典
^ a b c d “Rio Grande do Sul ”. ブラジル地理統計院 (IBGE) . 2024年4月20日 閲覧。
^ “ブラジル南部洪水、空港が海に ”. AFP (2024年5月29日). 2024年5月29日 閲覧。
^ (Portuguese) (PDF) Síntese de Indicadores Sociais 2007 . Rio Grande do Sul, Brazil: IBGE . (2007). ISBN 85-240-3919-1 . ftp://ftp.ibge.gov.br/Indicadores_Sociais/Sintese_de_Indicadores_Sociais_2007/Tabelas 2007年7月18日 閲覧。
^ RS VIRTUAL - O Rio Grande do Sul na Internet - História - Colonização
^ Página do Gaúcho - Índios - Os grupos indígenas e sua distribuição
^ RS VIRTUAL - O Rio Grande do Sul na Internet - História - Colonização - Negros - A história dos gaúchos sem história Archived 2007年9月29日, at the Wayback Machine .
^ Germans Archived 2007年7月16日, at the Wayback Machine .
^ Italians Archived 2007年9月27日, at the Wayback Machine .
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
リオグランデ・ド・スル州 に関連する
メディア および
カテゴリ があります。