デ・ロイテル (軽巡洋艦・初代)


竣工時のデ・ロイテル
艦歴
発注 ウィルトン・フィエノールト社スヒーダム造船所
起工 1933年9月16日
進水 1935年5月11日
就役 1936年10月3日
退役
その後 1942年2月28日に戦没
除籍 1942年2月28日
前級 ジャワ級軽巡洋艦
次級 トロンプ級[注釈 1]
もしくはデ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン級[4][注釈 2]
性能諸元
排水量 基準:6,642トン
満載:7,822トン
全長 170.92m
水線長 168.3m
全幅 15.7m
吃水 5.0m
機関 ヤーロー重油専焼水管缶6基
パーソンズギヤードタービン2基2軸推進
最大出力 66,000hp
最大速力 32.0ノット(公試時:33.7ノット)
航続距離 常備:12ノット/6,800海里
満載:12ノット/10,000海里
燃料 重油:1,300トン(満載)
乗員 士官:35名
兵員:438名
兵装 ボフォース 1938年型 15cm(50口径)連装速射砲3基+同単装速射砲1基
ボフォース 1936年型 4cm(56口径)連装機関砲5基
ブローニング 12.7mm(50口径)連装機銃4基
装甲 舷側:51mm(水線最厚部)、30mm(艦首尾部)、33mm(水面下隔壁)
主甲板:33mm(平面部)、50mm(傾斜部)
主砲塔:100mm(前盾)、33mm(側盾)、30mm(後盾)、30mm(天蓋)
主砲バーベット部:50mm(最厚部)
司令塔:33mm(最厚部)
航空兵装 水上偵察機2機
旋回式カタパルト1基

デ・ロイテルオランダ語: Hr. Ms. De Ruyter)は、オランダ海軍軽巡洋艦[6]。同型艦はない。艦名は英蘭戦争の英雄ミヒール・デ・ロイテル提督に因む[注釈 3]。デ・ロイテルはジャワ級軽巡に引き続いて建造され、その設計にはドイツヴァイマル共和国海軍が建造したドイッチュラント級装甲艦の影響が見受けられる[7][注釈 4]第二次世界大戦前にオランダ領東インドに配備される[注釈 5]太平洋戦争の初期に東南アジア海域で日本軍と戦い、蘭印作戦[10]によって生起した1942年(昭和17年)2月28日のスラバヤ沖海戦で沈没した[11]

概要

デ・ロイテルは、第一次世界大戦で建造中止になったジャワ級軽巡洋艦セレベス (Hr.Ms. Celebes) [注釈 6]の代艦として、オランダ海軍の1930年計画で1隻が建造承認された[13]。当初は基準排水量5,250トンで15cm連装砲3基の設計であったが、仮想敵国大日本帝国)の一万トン級巡洋艦に対抗するためにも設計を変更する[14]。1932年の改設計により艦体を大型化し、艦橋と艦主砲塔の間に単装砲1基を追加して15cm砲7門艦として要求性能が承認された。デ・ロイテルは当時の巡洋艦の多くで採用されていた高角砲や魚雷兵装を持たない代わりに、大仰角を取れる15cm砲と4cm機関砲と12.7mm機銃で武装していた[13]。当初の艦名はセレベスとされたが、設計中にデ・ロイテルに変更された[注釈 7]

艦形について

艦首から撮影されたデ・ロイテル。特徴的な艦橋形状が判る写真。

デ・ロイテルの船体は、長船首楼型船体で排水量に比して乾舷の高い船体は良好な凌波性を持っていた。船体デザインは設計にドイツヴァイマル共和政)のクルップ・ゲルマニア社が携わっているために、同世代の共和国海軍 (Reichsmarine) ドイッチュラント級装甲艦(通称“ポケット戦艦”)に似ている[14][注釈 4]。特に艦橋構造の両脇に船橋を持つ艦橋デザインは装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペー (Die Admiral Graf Spee) に類似性が見られる近代的なフォルムを持っている。また、装甲板を船体の構造材の一部として設計し、材料には溶接に適した鋼材や軽合金が使用された。

垂直に切り立ったクリッパー型艦首にはが左舷に2つ・右舷に1つが配置され、使用しない時はフランス海軍クールベ級戦艦の様に、艦首に錨が埋め込まれる巧妙な細工となっていた。艦首甲板上に「ボフォース 1938年型 15cm(50口径)速射砲」を収めた箱型の連装式主砲塔が1基、その背後から上部構造物が始まり、その上に防楯の付いた15cm速射砲を単装砲架で1基が配置されて背負い式配置となっていた。

デ・ロイテルでの水上機を示した映像。水上機施設がよく判る。

塔型艦橋は基部に船体幅一杯までの船橋(ブリッジ)を持つ前後に細長い形状で、艦橋の構成は丸窓が並ぶ操舵艦橋・戦闘艦橋・見張り所の上には6m測距儀塔の順である。艦橋には探照灯台が艦橋側面に片舷1基ずつ、前部に1基の計3基配置されていた。

艦橋の背後に大型の1本煙突が立てられた。煤煙の逆流を防ぐために竣工時には開口部に板を立てたが効果はなく、後に黒いファンネルキャップを装着した。デ・ロイテルは同時期のドイッチュラント級装甲艦と同様に後部マストを持たない設計であったために、アンテナ線展開のために煙突後部にT字型のヤードを設置して代用とした。

艦橋と煙突の間は艦載艇置き場とされ、煙突の後方にはハインケル(Heinkel)K8型旋回式カタパルトを中心線上に1基を配置し、その後ろにフォッカー(Fokker)C 11水上機2機が露天で置かれた。艦載艇と水上機の運用のために煙突の基部に付いた「くの字」型のクレーンが片舷1基ずつ計2基が設置された。

上部構造物の末端部に位置する4m対空測距儀を載せた後部見張所は上から見て底辺を前方に向けた五角形状となっており、そこに対空火器としてボフォース 4cm(56口径)機関砲を連装砲架で5基を集中配置された。その下の船首楼の末端部に3番主砲塔1基と、一段下がった後部甲板上に4番主砲塔が後向きの背負い式配置で計2基配置された。

主砲、その他備砲、雷装

1941年に撮影された写真。デ・ロイテルの主砲は連装砲塔と単装砲を組み合わせていた。

デ・ロイテルの主砲には、スウェーデンボフォース社の新設計の1938年型 15cm(50口径)速射砲を採用した。主砲は本来は連装砲塔3基の予定であったが、日本海軍の強力な火力を持つ最上型二等巡洋艦[注釈 8]に対抗するために砲架を装甲板でカバーで覆う15cm単装砲(砲塔形式でなく、旋回も装填も人力)を追加して連装砲3基+単装砲1基の計7門装備とした。形式番号は砲架の形状により異なり、連装砲はMark9で3基が搭載、単装砲形式はMark10で1基を搭載した。後にデ・ロイテルの後継艦であるトロンプ級軽巡洋艦には、改良型のMark11が搭載された。

その性能は、重量46.7kgの徹甲弾を仰角45度で最大射程27,400mまで届かせられた。砲塔・単装砲架ともに旋回角度は艦首尾方向を0度として左右共に150度まで旋回でき、動力は電動、非常用に人力が選択出来た。バーベット内の揚弾薬機は電動式である。砲身の上下は対空戦闘を考慮され最大60度から俯角10度までで、単装砲架が照明弾打ち上げに適していた。装填形式はどの角度からでも装填が出来る自由角度装填方式で発射間隔は毎分5~6発であった。

デ・ロイテルは高角砲を持たず、対空をボフォース4cm連装機関砲が担っていた。

デ・ロイテルの対空火器として、ボフォース社製1936年型 40mm(56口径)機関砲を連装砲架で五基を五角形に集中配置していた。その性能は重量0.93kgの機関砲弾を仰角45度で射程9,600mまで、最大仰角90度で高度10,180mまで飛ばす事が出来た。砲架の俯仰は仰角90度・俯角15度で360度の旋回角度を持っていたが、実際は上部構造物により射界を制限された。これを連装砲架で5基を搭載。他に近接火器としてブローニング12.7mm(50口径)機銃を連装砲架で4基装備した。なお、オランダ巡洋艦の多くで装備していた魚雷発射管をデ・ロイテルは装備していなかった。

機関

デ・ロイテルの機関構成は、ヤーロー式重油専焼水管缶6基とパーソンズ式ギヤードタービン2基2軸推進と組み合わせて機関出力60,000馬力、速力32ノットを達成した(公試時は75,000馬力で33.7ノット)。燃料は重油を常用で12ノット/6800海里、満載1,300トンで12ノットで10,000海里の航続性能を得た。

艦歴

戦時迷彩が施されたデ・ロイテル。

デ・ロイテルはウィルトン・フィエノール社スヒーダム造船所で建造された。1933年9月16日起工[16]。1935年5月11日進水[16]。1936年10月3日就役[17]ウィルヘルミナオランダ女王の親閲を受ける[9]

1937年1月12日に「デ・ロイテル」はデン・ヘルダーから出航し、リスボンタンジールアレクサンドリアボンベイを経て3月3日にサバンに到着[17]。それからバタビアを経てスラバヤへ向かった[18]

大日本帝国を訪問する計画もあったが[19]、実現しなかった。東南アジア海域で活動中の1939年(昭和14年)9月に第二次世界大戦が始まった。1940年(昭和15年)5月中旬、オランダ王国ナチス・ドイツ敗北して占領され、オランダ王室はイギリス亡命してオランダ亡命政府英語版オランダ語版を樹立した(オランダの歴史)。オランダは本国を失い、東インドネシアの植民地が主要な領土になった。同年9月からは日本軍の仏印進駐が始まり、極東でも緊迫の度合いが増した。

1941年(昭和16年)12月8日、日本軍は東南アジア方面でマレー作戦フィリピン作戦を発動し、南下を開始した[20]太平洋戦争南方作戦)。比島作戦が一段落すると、日本軍は蘭印作戦を発動してボルネオ島スラウェシ島ジャワ島などを目指す[10]。1942年(昭和17年)1月、連合国ABDA司令部を編成して日本軍に対抗した[21]。ABDA部隊の最高指揮官は英軍のウェーヴェル陸軍大将で[22]、アメリカ海軍のトーマス・C・ハート提督がABDA海軍部隊司令官に[注釈 9]、オランダ海軍のカレル・ドールマン提督がABDA艦隊司令官に任命された[24]

2月4日、アメリカ重巡洋艦ヒューストン (USS Houston, CA-30) 、アメリカ軽巡洋艦マーブルヘッド (USS Marblehead, CL-12) 、オランダ軽巡洋艦トロンプ (Hr. Ms. Tromp) および護衛の駆逐艦部隊と共にスラバヤから出撃し、ボルネオ島バリクパパン方面の日本艦隊攻撃に向かうが、マカッサル海峡で日本軍機の攻撃を受ける[25]。日本軍基地航空隊(一式陸上攻撃機九六式陸上攻撃機)の水平爆撃によりデ・ロイテルとヒューストンが小破し、マーブルヘッドが大破した[26]。ABDA艦隊は日本軍輸送船団の攻撃をあきらめて反転した[27][注釈 10]

連合国軍はマレー半島スマトラ島を経由してジャワ島を目指す日本軍西方部隊の動向にも注意を払わねばならなかった[27]。2月13日、オランダ海軍軽巡3隻(デ・ロイテル、ジャワ、トロンプ)、イギリス重巡エクセター (HMS Exeter, 68) 、オーストラリア軽巡ホバート (HMAS Hobart) 、アメリカ駆逐艦6隻とオランダ駆逐艦4隻がジャワ島バタヴィアに集結した。ABDA艦隊は東部スマトラのバンカ島にむけて出撃したが、15日に軽空母龍驤第四航空戦隊)の艦上機と、陸上攻撃機に襲撃される[29]。ABDA艦隊に決定的な被害はなかったが[27][注釈 11]、ドールマン提督は進撃を諦めてジャワ島に戻った[24]。2月20日には健在艦(デ・ロイテル、ジャワ、トロンプ、駆逐艦部隊)でバリ島沖海戦に参加したが、ABDA艦隊は戦力が分散しすぎており、トロンプ損傷と駆逐艦ピートハイン (Hr.Ms. Piet Hein) 沈没に見合う戦果を挙げられなかった[27]

2月中旬、ABDA海軍部隊の指揮官はハート提督(アメリカ海軍)からコンラッド・ヘルフリッヒ中将(オランダ海軍)に交代した[27]。日本軍はジャワ島占領を目的として陸軍の上陸船団部隊を派遣する[11]。偵察機から報告をうけたドールマン少将(旗艦デ・ロイテル)は、日本軍のジャワ島上陸を阻止するため[31]、オランダ軽巡デ・ロイテル (HNLMS De Ruyter) [32]、イギリス重巡エクセター (HMS Exeter, 68) 、アメリカ重巡ヒューストン (USS Houston, CA-30) 、オーストラリア軽巡パース (HMAS Perth, D29) 、オランダ軽巡ジャワ (HNLMS Java) および多国籍駆逐艦を率いて出撃した[33][注釈 12]2月27日夕刻、日本軍輸送船団を護衛していた第五戦隊司令官高木武雄少将が指揮する妙高型重巡洋艦2隻(那智羽黒)と、二つの水雷戦隊二水戦四水戦)に遭遇した[33][35]スラバヤ沖海戦[36]。 ほぼ互角の戦力を揃えたABDA艦隊と日本艦隊の艦隊決戦が始まる[注釈 13]

日没までの海戦により[38]、損傷した重巡エクセターが後落してスラバヤに撤退[39]、駆逐艦部隊は沈んだり損傷艦の護衛にまわしてしまったので、ABDA艦隊の戦力は巡洋艦4隻(デ・ロイテル、ヒューストン、パース、ジャワ)だけになった[40]。ドールマン提督はなおも日本軍輸送船団の撃滅を諦めていなかったが、第五戦隊の重巡2隻(那智羽黒)と遭遇して夜戦になる[41]。妙高型重巡が発射した酸素魚雷が命中し[42]、デ・ロイテルとジャワは炎上して沈没した[43]。座乗していたカレル・ドールマン提督やラコンブレ艦長も戦死[44]。なおドールマン提督は旗艦の沈没直前に健在艦(パース、ヒューストン)に撤退を下令しており[45][46]、2隻はスンダ海峡を通過してインド洋へ脱出しようとしたが[47]バタビア沖海戦で沈没した[48]

デ・ロイテルではドールマン提督を含めて345名が戦死し、生存者は109名であったという。アメリカ海軍のS級潜水艦S-37英語版はデ・ロイテルの救命ボートを発見、アメリカ人のみ救助している[注釈 14]。 重巡那智(第五戦隊)は、その後の海戦で沈没した連合軍艦艇乗組員を含め、約50名ほどを救助した[50]。 第1護衛隊(指揮官西村祥治第四水雷戦隊司令官)の報告では[51]、デ・ロイテル乗組員80名を救助した[注釈 15]。四水戦の駆逐艦五月雨はデ・ロイテルの探照灯員1名を救助し、他にも乗組員多数が乗った大型ボートを目撃している[53]

2月28日朝、二水戦の駆逐艦雪風時津風(第16駆逐隊)は、海上を漂流する連合軍の沈没艦船の生存者を発見し、デ・ロイテルの通信科の下士官やイギリス駆逐艦エレクトラ (HMS Electra, H27)の砲術長を含む40名ほどを救助した[54]。同日夜、デ・ロイテル乗組員と連絡係のイギリス海軍将校 合計39名は[55]、駆逐艦初風(第16駆逐隊)に救助された[56]。 このあと、捕虜は燃料補給のためバンジャルマシンにむかう雪風に移された[57]。雪風がバンジャルマシンに到着後、捕虜は同地で抑留されていたオランダ病院船オプテンノール (Op Ten Noort) に引き渡された[57][58][注釈 16][注釈 17]

脚注

注釈

  1. ^ トロンプ級軽巡は水雷戦隊の旗艦として計画され[1]嚮導艦としての性格が強い[2][3]
  2. ^ 本艦がスラバヤ沖海戦で沈没したあと、艦名を継承して「デ・ロイテル級軽巡(2代)」となった[5]
  3. ^ デ・ロイテルの艦名をもつオランダ海軍艦艇一覧
  4. ^ a b ドイッチュラント級装甲艦が設計されたのはヴァイマール共和国時代であり、ヴェルサイユ条約の制限下で建造された[8]ナチスによる権力掌握後、1935年の再軍備宣言をもって共和国海軍 (Reichsmarine) は国防軍 (Wehrmacht) 隷下のドイツ海軍 (Kriegsmarine) になった。
  5. ^ "第七節、其の他の歐洲諸國(略)[9]三、和蘭 (略)巡洋艦デ・ルイターは昨年公試を行ひ三二節の速力を得て成功した。同艦は東印度勤務として十月三日に就役した。同日は女王の検閲を受けてゐる。アムステルダムにて建造中の小型巡洋艦トロムプ號は従來の舊式海防艦ヘルトッグヘンデリックに代りて内地における練習任務に使用される豫定である。(以下略)
  6. ^ 資料によってはスマトラ級軽巡洋艦とする[12]
  7. ^ アドミラーレン級駆逐艦 (Admiralenklasse) のデ・ロイテルが、1934年10月1日をもってヴァン・ゲント英語版と改名された(ヴァン・ゲント提督にちなむ)。
  8. ^ 建造時の最上型は6インチ三連装砲塔5基(計15門)を備えており、軍縮条約脱退後に8インチ連装砲塔5基(計10門)に換装した[15]
  9. ^ ラッセル・グレンフェル『主力艦隊シンガポールへ』130ページでは「ハルゼー提督」と記述するが、同提督は第16任務部隊指揮官として空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) に将旗を掲げて太平洋で作戦行動中[23]マーシャル・ギルバート諸島機動空襲)。
  10. ^ 日本側は、戦果を過剰に見積もって大本営発表をおこなった[28]
  11. ^ 日本側攻撃隊は、対空砲火で多数の被弾機を出した[30]
  12. ^ (昭和17年3月2日)〔 二日〇五五二第二水雷戰隊司令官(宛略)[34] 「ス」沖海戰ニ於ケル神通(飛行)長ノ目撃及「デロイテル」乗組信號係将校英「ジヤクソン」大尉訊問ノ結果ヲ綜合スレバ左ノ如シ( )内ハ捕虜陳述
    一.参加兵力 巡洋艦五(「デロイテル」「エクゼター」「ヒューストン」「パース」「ジャバ」ノ順)驅逐艦九(英三 米四 蘭二) 晝戰ニ於テ敵反転時巡洋艦一褐色煙ノ蔭ニ姿ヲ没シ他ノ巡洋艦一 一時黒煙ヲ吐キ落伍気味ナリ第一次夜戰参加ハ巡洋艦四驅逐艦六(終始信號甲板ニアリシ爲全般ノ状況不詳ナルモ反転後列中ノ一巡洋艦落伍セルハ確認セリ兩夜戰ニ参加セル巡洋艦ハ四隻ニシテ驅逐艦ハ三隻認メタリ)
    二.敵ノ被害 (イ)晝戰 巡洋艦一爆沈一被害アリ(第一項ノ外米蘭驅逐艦各一沈没) (ロ)第二夜戰(デロイテル火災後爆沈「ジヤバ」大火災 長官Adomiral Doorman艦ト運命ヲ共ニセルモノト認ム)
    三.晝戰ニ於テ被害發生後大混乱ノ裡ニ急反転シ俄ニ「ジクザク」運動ヲナシツヽアリシ点(捕虜モ確言ス)ニ鑑ミ敵ハ我魚雷ニ依ル被害或ハ雷跡ヲ認メタルニ依リ潜水艦ノ襲撃ト誤認シ之ヲ回避セント努メタルモノノ如シ(略)(ロ)當日参加ノ英艦ハ二月二十六日「バタビヤ」ヨリ「スラバヤ」着 (ハ)敵艦隊ハ「スラバヤ」艦艇ノ殆ンド全力 〕
  13. ^ (昼戦経過)[37] (ハ)晝戰ハ敵巡五隻(内20cm砲艦二隻)駆逐艦一〇隻ニ對シ我ハ重巡二隻軽巡二隻駆逐艦駆逐艦十四隻ニシテ勢力略同等ナシリモ實情ハ敵巡洋艦戰隊五隻ニ對シ我ガ巡洋艦戰隊二隻ト二個水雷戰隊ヲ以テ戰闘シ水雷戰隊突撃時ノ情況ハ若干決戰ノ對勢ニ似タル点アリ此ノ情況ニ於テ5Sハ敵CSト概ネ二六,〇〇〇乃至二一,〇〇〇米ノ巨離ニ於テ砲戰シ「エキセター」(二番艦)ニ落伍スル程度ノ損害ヲ與ヘタル外他ノ艦ニハ左程大ナル損害モ與ヘズシテ既ニ搭載彈藥ノ大半以上ヲ使用シ水雷戰隊突撃時敵陣形支離滅裂ニ乗ジ追撃戰ニ移リタル際ニモ徹底的効果モ挙ゲ得サリシハ敵ノ巧妙ナル避彈運動ニ因ル処アリト思考セラルヽモ砲戰距離大ナリシニ依ルモノト認ム(以下略)
  14. ^ 連絡係としてアメリカ重巡ヒューストンの信号兵がデ・ロイテルに派遣され、勤務していた[49]
  15. ^ 捕虜調査表 「スラバヤ」沖海戰々場附近ニ於テ救助セシ捕虜[52] 所属艦名/員数 士官 下士官兵 計/總計/記|デロイテル(蘭)|二|七八|八〇|/|ジャバ(〃)|〇|一|一|/|ジュピター(英駆)|二|二四|二六| |「ジュピター」駆逐艦長ヲ含ム|/|エレクトラ(〃)|一|六|七|一一四(總計)|〔註)捕虜ハ全部「クラガン」ニ於テ陸軍48Dニ引渡セリ(終)
  16. ^ 同じく雪風に救助されたイギリス駆逐艦エレクトラ (HMS Electra, H27) の砲術長は、故郷スコットランドのことなどは友好的に話す反面、軍事的なことは一切喋らなかった[59]。その一方でデ・ロイテルの下士官が全て喋ってしまったので、黙秘が無駄になってしまったと言う[59]。二水戦の戦闘詳報では、軍事的なことを供述したのはデ・ロイテルに乗艦していたイギリス海軍の将校となっている[34]
  17. ^ ABDA艦隊沈没艦救助のために出動した病院船オプテンノールを臨検したのが、駆逐艦村雨(四水戦、第2駆逐隊)と[53]、駆逐艦天津風(二水戦、第16駆逐隊)である[60]

出典

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  2. ^ ブラッセー海軍年鑑 1936, p. 41原本48-49頁
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  4. ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 186オランダ/巡洋艦「デ・ロイテル」級 DE RUYTER CLASS
  5. ^ 世界の艦艇完全カタログ 2019, p. 116デ・ロイテル級巡洋艦(II)
  6. ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 136aオランダ/軽巡洋艦「デ・ロイテル」 DE RUYTER
  7. ^ 世界の艦艇完全カタログ 2019, p. 108aデ・ロイテル
  8. ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 130ドイツ/重巡洋艦(装甲艦)「ドイッチュラント」級 DEUTSCHLAND CLASS
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  11. ^ a b ニミッツ 1962, pp. 36–39ジャヴァ海海戦
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  14. ^ a b 世界の艦艇完全カタログ 2019, p. 108b.
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  17. ^ a b Her Netherlands Majesty's Ship De Ruyter, p. 86
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  38. ^ 佐藤和正、艦長たち続篇 1984, pp. 175–177スラバヤ沖で敵艦隊を雷撃
  39. ^ #S17.02二水戦戦闘詳報(4) p.35〔 第五戰隊司令官|(宛略)|「エクゼタ」乗組俘虜(機関科士官及候補生)ヨリ聴取事項左ノ通 一.同艦ハ二十七日晝戰ニ 二番艦トシテ参加セルモ機械室被彈ノ爲「スラバヤ」ニ避退岩避ニ横付應急修理ノ上 二十八日夜驅逐艦二 ト共ニ「スラバヤ」脱出セリ((以下略))|〃〕
  40. ^ グレンフェル 2008, p. 132.
  41. ^ #S16.12五戦隊日誌(5) p.37〔 夜戰ニ於ケル戰果 一、敵ニ與ヘタル被害 敵巡一隻轟沈、一隻撃沈(後日ノ調査ニヨリ判明セル処左ノ通「ジャバ」轟沈 「デロイテル」炎上沈没)、同資料 p.45(二月二十七日スラバヤ沖海戰夜戰合戰圖)
  42. ^ 巡洋艦戦記 2011, pp. 147–152魚雷十二射線のみ
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  46. ^ 巡洋艦戦記 2011, pp. 153–154長蛇を逸す
  47. ^ グレンフェル 2008, p. 134.
  48. ^ #作戦経過概要第37号 p.25〔 (別表其ノ一)自二月二十七日至三月一日「スラバヤ」沖及「バタビア」沖海戰ノ成果 〕
  49. ^ #S17.02四水戦戦闘詳報(6) p.40〔(三)敵ハ (1)晝戰第一次襲撃後(魚雷到達時)ノ敵ノ支離滅裂ナル潰走 (2)夜戰ニ於テ「デロイテル」「ジャバ」ヲ失ヒタル後ノ「ヒューストン」「パース」ノ逃走 (3)連絡ノタメ「ヒューストン」信號兵ヲ「デロイテル」ニ派遣勤務セシメ居タル点(捕虜ノ調査ニテ判明ス)等聯合軍ノ弱点ヲ遺憾ナク曝露セリ 〕
  50. ^ 海軍下士官兵 1971, pp. 145–146.
  51. ^ #S17.02四水戦戦闘詳報(4) p.52(1Eg機密第三二四番電)
  52. ^ #S17.02四水戦戦闘詳報(4) p.66
  53. ^ a b 五月雨出撃す 2010, pp. 76–77.
  54. ^ 雪風ハ沈マズ 2004, pp. 103–106.
  55. ^ #S17.02二水戦戦闘詳報(5) p.30〔 五、其ノ他 (イ)初風「デロイテル」乗員士官三 下士官兵三六 計三九ヲ捕虜トス/(ロ)天津風 和蘭病院船「オプテンノート」號ヲ抑留ス/(ハ)夏雲 和蘭機帆船「ユーラシヤ」號(五二噸)ヲ拿捕乗員和蘭海軍大尉二名下士官兵一〇名ヲ捕虜トス 〕
  56. ^ #S17.02二水戦戦闘詳報(1) pp.31-32(昭和17年2月28日)〔 二二〇〇(略)同時刻神通ニ溺者アリトノ報ニヨリ初風ニ救助ヲ命シタル所右ハ「デロイテル」乗員ノ漂流者ニシテ同艦ハ英海軍大尉以下三九名ヲ救助セリ 〕
  57. ^ a b #S17.02二水戦戦闘詳報(1) p.39(昭和17年3月3日)〔 一四三五 雪風時津風 神通ニ燃料移載終了(計二〇〇瓲)補給ノ為「バンジャルマシン」ニ向ケ發 天津風初風哨区掃蕩開始 初風ノ収容セル捕虜ヲ雪風ニ移乗抑留病院船「オプテンノート」ニ送皈セシム 〕
  58. ^ #S17.02二水戦戦闘詳報(4) p.30〔 天津風驅逐艦長|二日一七一八 第三艦隊司令長官 第二水雷戰隊司令官 第十六驅逐隊司令|「バンジエルマシン」着 和蘭病院船「オプテンノート」ヲ蒼鷹ニ引渡セリ 一六五〇|〃〕
  59. ^ a b 雪風ハ沈マズ 2004, pp. 103–109.
  60. ^ 佐藤和正、艦長たち続篇 1984, pp. 187–188非情、敵兵を救助せず

参考文献

  • ラッセル・グレンフェル「第十一章 蘭印の敗北」『プリンス オブ ウエルスの最期 主力艦隊シンガポールへ 日本勝利の記録』田中啓眞 訳、錦正社、2008年8月(原著1953年)。ISBN 978-4-7646-0326-4 
  • (監修)毒島刀也、(著者)門田充弘、神奈川憲、小高正稔、後藤仁、谷井成章、山崎龍『COSMIC BOOK 世界の艦艇完全カタログ 第一次世界大戦から現代までの全1249種』株式会社コズミック出版〈ミリタリーシリーズ〉、2019年7月。ISBN 978-4-7747-8657-5 
  • 佐藤暢彦「第六章 大艦巨砲主義は終わったか ― ジャワ沖のガスパール海峡の戦い」『一式陸攻戦史 海軍陸上攻撃機の誕生から終焉まで』光人社〈光人社NF文庫〉、2019年1月(原著2015年)。ISBN 978-4-7698-3103-7 
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続篇 17人の艦長が語った勝者の条件』光人社、1984年4月。ISBN 4-7698-0231-5 
    • (173-183頁)「読みと賭け」<駆逐艦「春風」艦長・森本義久中佐の証言>(スラバヤ沖海戦時の重巡「羽黒」水雷長)
    • (184-200頁)「独断反転」<駆逐艦「」艦長・岩淵悟郎少佐の証言>(オプテンノール鹵獲時の駆逐艦「天津風」水雷長)
  • 須藤幸助『駆逐艦「五月雨」出撃す ソロモン海の火柱』光人社〈光人社NF文庫〉、2010年1月(原著1956年)。ISBN 978-4-7698-2630-9OCLC 491333421 
  • 世界の艦船 1986年1月増刊号 近代巡洋艦史」(海人社
  • 編集人 木津徹、発行人 石渡長門『世界の艦船 2010.No.718 近代巡洋艦史』株式会社海人社〈2010年1月号増刊(通算第718号)〉、2009年12月。 
  • 竹本定男『海軍下士官兵 重巡・那智』R出版、1971年11月。 
  • 豊田穣『雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦 栄光の生涯』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年11月。ISBN 978-4-7698-2027-7 
  • チェスター・ニミッツ、E・B・ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』実松譲、富永謙吾(共訳)、恒文社、1962年12月。 
  • 「丸」編集部編『巡洋艦戦記 重巡「最上」出撃せよ』光人社〈光人社NF文庫〉、2011年8月(原著1990年)。ISBN 978-4-7698-2700-9 
    • (101-161)『重巡「那智」神技の砲雷戦を語れ』主砲発令所長が綴るスラバヤ沖海戦の苦き勝利 ― 萱嶋浩一
  • 「Conway All The World's Fightingships 1922-1946」(Conway)
  • F. C. Van Oosten, Her Netherlands Majesty's Ship De Ruyter, Profile Warship 40, Profile Publishing, 1974
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『各国二於ケル船艦造修関係雑件(5-1-8-0-7)(外務省外交史料館)7.蘭国』。Ref.B07090377700。 
    • 『公文備考 D巻6 外事 海軍大臣官房記録第7(防衛省防衛研究所)欧2普通第178号 7.7.16蘭領印度警備第3巡洋艦の建造に関する和蘭本国議会の討議状況』。Ref.C05022018000。 
    • 『公文備考 昭和12年 D 外事 巻9(防衛省防衛研究所)欧2機密第212号12.5.6蘭印軍艦訪日に関する件』。Ref.C05110739700。 
    • 『昭和16年12月16日~昭和17年2月28日 第5戦隊戦闘詳報戦時日誌(4)』。Ref.C08030042600。 
    • 『昭和16年12月16日~昭和17年2月28日 第5戦隊戦闘詳報戦時日誌(5)』。Ref.C08030042700。 
    • 『昭和17年3月11日~昭和17年5月17日 第5戦隊戦闘詳報戦時日誌(1)』。Ref.C08030043000。 
    • 『昭和17年2月24日~昭和17年3月11日 第2水雷戦隊戦闘詳報(1)』。Ref.C08030093400。 
    • 『昭和17年2月24日~昭和17年3月11日 第2水雷戦隊戦闘詳報(2)』。Ref.C08030093500。 
    • 『昭和17年2月24日~昭和17年3月11日 第2水雷戦隊戦闘詳報(3)』。Ref.C08030093600。 
    • 『昭和17年2月24日~昭和17年3月11日 第2水雷戦隊戦闘詳報(4)』。Ref.C08030093700。 
    • 『昭和17年2月24日~昭和17年3月11日 第2水雷戦隊戦闘詳報(5)』。Ref.C08030093800。 
    • 『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(2)』。Ref.C08030110700。 
    • 『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(3)』。Ref.C08030110800。 
    • 『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(4)』。Ref.C08030110900。 
    • 『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(5)』。Ref.C08030111000。 
    • 『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(6)』。Ref.C08030111100。 
    • 『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(7)』。Ref.C08030111200。 
    • 『「南方部隊の作戦部隊全般経過」JACAR(アジア歴史資料センター)昭和16~20年 南方部隊の作戦部隊 全般経過(防衛省防衛研究所)』。Ref.C16120666200。 
    • 『「作戦経過概要第37号」JACAR(アジア歴史資料センター)昭和17年3月~昭和17年4月 大東亜戦争経過記録(防衛省防衛研究所)』。Ref.C16120686500。 

関連項目

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