デューク・オブ・ヨーク (英語 : HMS Duke of York, 17 ) は、イギリス海軍 の戦艦 。キング・ジョージ5世級 超弩級戦艦 の3番艦[ 3] 。
計画時の艦名はジョージ・アンソン 海軍元帥にちなんだ「アンソン 」(HMS Anson ) だったが[ 注釈 2] 、1938年12月に「デューク・オブ・ヨーク 」と改名された[ 注釈 3] [ 注釈 4] 。
第二次世界大戦 の大西洋攻防戦 では、1943年(昭和18年)12月26日の北岬沖海戦 において[ 6] 、ドイツ海軍 の戦艦 「シャルンホルスト 」を共同で撃沈した[ 7] 。
ドイツ戦艦 「ティルピッツ 」無力化後、イギリス海軍の主力艦 多数と共にイギリス太平洋艦隊 へ編入され、太平洋戦線 に投入される[ 9] 。1945年(昭和20年)9月2日 、日本 の降伏 調印式 に参加した(日本の降伏文書調印式に参加した連合国艦艇一覧 (英語版 ) )。大戦中における本艦の戦歴は活発なものであり、通算5名の海軍提督の旗艦を務めている[ 10] [ 注釈 5] 。
艦歴
クライドバンク (英語版 ) のジョン・ブラウン社 で建造[ 注釈 6] 。
1937年5月5日起工。1940年2月28日進水。1941年11月4日竣工。竣工の月、本艦はウォーシップ・ウィーク のキャンペーンに参加し、グラスゴー の市民に割り当てられた[ 10] 。就役後は本国艦隊 に所属。
竣工直前の8月[ 12] 、国防大臣 のウィンストン・チャーチル (英国首相兼任 )は、海軍本部 が練っていたシンガポール 防衛計画 (英語版 ) に異論をとなえた。イギリス海軍はネルソン級戦艦 やR級戦艦 多数およびレナウン級巡洋戦艦 1隻を派遣する計画だったが、チャーチルが提案したのは、新鋭戦艦「デューク・オブ・ヨーク」、レナウン級巡戦 1隻、旧型空母1隻からなる小規模部隊 であったという。チャーチルは「『デューク・オブ・ヨーク』の訓練は回航の途次を利用しておこなえば良い。既存のキングジョージ5世級戦艦は『ティルピッツ 』(ビスマルク級戦艦 )対策として、本国艦隊に残すべきだ。」と覚書に綴った。
アレキサンダー (英語版 ) 海軍大臣 (英語版 ) とパウンド 第一海軍卿 が反対したが、チャーチルを翻意させられなかった。日本 の南方侵攻作戦 に対抗して新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ 」と巡洋戦艦 「レパルス 」、さらに新鋭空母「インドミタブル 」が極東 に派遣された[ 注釈 7] 。
サイドパイプ (英語版 ) を吹く「デューク・オブ・ヨーク」のクォーターマスター (英語版 ) 。救命いかだ の間に掲げられているのは、本艦の船紋章 (英語版 ) (Ships crest)。船紋章の意匠はヨークの白薔薇 (英語版 ) と、それを囲む本艦のモットー「HONI SOIT QUI MAL Y PENSE」(悪意を抱く者に災いあれ)であった[ 10] [ 24] 。
1941年12月12日、アルカディア会談 をおこなうためアメリカ合衆国 へ向かうイギリス首相ウィンストン・チャーチル やイギリス陸軍 ・イギリス海軍 ・イギリス空軍 の指導者達は、「デューク・オブ・ヨーク」に乗艦してイギリスを出発した。冬の大西洋 を横断するためハッチは閉鎖され、乗客は甲板に出ることを許されず、チャーチルは妻クレメンタイン に「第二次世界大戦 がはじまって以来、私が過ごしたもっとも長い一週間」と語っている。「デューク・オブ・ヨーク」は12月22日に東海岸 メリーランド州 のアナポリス に到着した。チャーチル首相はそこからワシントンD.C. に移動し、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト に出迎えられた[ 27] 。「デューク・オブ・ヨーク」は1942年1月にバーミューダ への慣熟航海を行い、1月17日にスカパ・フロー へと向かった[ 28] 。なおチャーチル首相は1月15日に航空機でアメリカを出発、バミューダを経由し、約18時間の飛行でイギリスに戻った。
このあと、「デューク・オブ・ヨーク」はソ連向け輸送船団 の護衛任務についた。
1942年3月1日、「デューク・オブ・ヨーク」は巡洋戦艦「レナウン 」、軽巡洋艦「ケニア 」、6隻の駆逐艦とともにソビエト連邦 にむかうPQ12船団 の近接護衛を務めた。ジョン・トーヴィー 大将が、ドイツ戦艦「ティルピッツ 」が船団攻撃に出撃して来るかもしれないと考えたため、3月6日には戦艦「キング・ジョージ5世 」、空母「ヴィクトリアス 」、重巡洋艦「ベリック 」、駆逐艦6隻が増強された。同6日、ドイツ戦艦は出撃し、19時40分ごろにイギリス潜水艦により発見された。「ヴィクトリアス」搭載機による不成功に終わった雷撃を除けば、両軍の間に接触は無かった[ 28] 。
3月下旬、PQ13船団 が編成され、「デューク・オブ・ヨーク」は再び護衛部隊の一部となった[ 32] 。4月初頭、アメリカ海軍の新型戦艦 「ワシントン 」、空母「ワスプ 」、重巡洋艦「ウィチタ 」、重巡「タスカルーサ 」などで編成された第39任務部隊(ロバート・C・ギッフェン 少将)が、スコットランド のオークニー諸島 スカパ・フロー 泊地に到着し、ジョン・トーヴィー 大将が率いるイギリス 本国艦隊 の指揮下に入った[ 注釈 8] 。デューク・オブ・ヨークは「ワシントン」(ギッフェン少将旗艦)と演習をおこなう[ 注釈 9] 。
5月1日、姉妹艦「キング・ジョージ5世」がPQ15船団 (ドイツ語版 、英語版 ) を護衛中に味方駆逐艦「パンジャビ 」と衝突して後者が沈没、戦艦の方も修理が必要になった。「デューク・オブ・ヨーク」が本国艦隊旗艦を引き継ぐ。
第99任務部隊(第39任務部隊より改称)は、そのあと本国艦隊と合流のため5月15日に編成替えが行われ、5月22日に大型艦(「デューク・オブ・ヨーク」、「ワシントン」、「ヴィクトリアス」)と巡洋艦や駆逐艦が出撃する。一週間後にスカパ・フローへ戻る。6月4日にはヨーロッパ方面艦隊の司令官ハロルド・スターク 提督が「ワシントン」に乗艦、その司令官旗を掲揚し、「ワシントン」には臨時司令部が置かれた。6月7日にはジョージ6世 が「ワシントン」を視察した。
スターク提督が艦を離れた後、空母「ワスプ」も地中海 戦線 の焦点になっていた英領 マルタ へのクラブラン (航空機輸送作戦)に駆り出されたので、本国艦隊の頼りになる空母は「ヴィクトリアス」だけになった。「デューク・オブ・ヨーク」や「ワシントン」は、ソ連の港に通じる北極海の航路を哨戒した。6月27日、PQ17船団 はアイスランドを出発し、アルハンゲリスク にむかった。トーヴィ提督直率の警戒部隊(戦艦「デューク・オブ・ヨーク」、戦艦「ワシントン」、空母「ヴィクトリアス」、巡洋艦数隻(重巡洋艦「カンバーランド 」、軽巡洋艦「マンチェスター 」)、「ナイアガラ (英語版 ) 」ほか随伴駆逐艦が間接護衛を行い、ルイス・ハミルトン (英語版 ) 少将率いる英米巡洋艦部隊(重巡洋艦「ロンドン 」、「ノーフォーク 」、「ウィチタ」、「タスカル―サ」、駆逐艦「ウェインライト (英語版 ) 」、「ローワン (英語版 ) 」、「ソマリ (英語版 ) 」)が直接護衛をおこなう(PQ17船団戦闘序列 (英語版 ) )。ドイツ軍は輸送船団PQ17 を攻撃するためレッセルシュプルング作戦 (英語版 ) を発動した[ 注釈 10] 。
「ティルピッツ」以下のドイツ艦隊を恐れたイギリス海軍省はPQ17船団を分散させ、大損害を蒙った。ソ連向け援助船団 は運航停止に追い込まれる[ 注釈 11] 。7月14日にギフェン少将は旗艦を「ウィチタ」へ移し、「ワシントン」はアメリカ大陸に帰っていった。
トーチ作戦のH部隊。戦艦「デューク・オブ・ヨーク」、「ネルソン 」、空母「フォーミダブル 」、巡洋戦艦「レナウン 」、軽巡「アルゴノート 」。
1942年10月、「デューク・オブ・ヨーク」はH部隊 の新たな旗艦としてジブラルタル に派遣され、翌月にはトーチ作戦 を支援した[ 50] 。「デューク・オブ・ヨーク」はイタリア王立空軍 (Regia Aeronautica ) による攻撃を受けたがそれらは比較的小規模であり、空母「ヴィクトリアス」や「フォーミダブル 」、「フューリアス 」搭載機によって速やかに処理された。その後「デューク・オブ・ヨーク」はイギリスに戻り修理を受けた[ 51] 。
1943年5月初頭、トーヴィー提督の後任として、新たな本国艦隊司令長官ブルース・フレーザー 提督が着任した。ハスキー作戦 のためイギリス海軍の主力艦多数が地中海へ移動したので、北大西洋の戦力を補填するためアメリカ海軍 のサウスダコタ級戦艦 がイギリス諸島 に派遣された。5月中旬、オラフ・M・ハストヴェット (英語版 ) 提督が指揮する戦艦2隻(「サウスダコタ 」、「アラバマ 」)と駆逐艦がスカパ・フローに到着した。6月、本艦と姉妹艦「アンソン 」、サウスダコタ級戦艦2隻や空母「フューリアス 」及び巡洋艦部隊で「ギアボックスIII作戦 (英語版 ) (Operation GEARBOX III ) 」を実施した。7月、ハスキー作戦の陽動と「ティルピッツ」対策を兼ねた「キャメラ作戦 (Operation Camera ) 」と「ガバナー作戦 (Operation Governor ) 」にサウスダコタ級戦艦2隻などと共に参加した。このあとサウスダコタ級戦艦は太平洋へ転戦するためアメリカへ戻り、空母「レンジャー 」や重巡2隻(「タスカルーサ 」 、「オーガスタ 」)などが引き続き本国艦隊と行動を共にした。
1943年9月上旬、ドイツ海軍の戦艦2隻(「ティルピッツ」、「シャルンホルスト」)がノルウェー のスピッツベルゲン島 に艦砲射撃 をおこなった。「デューク・オブ・ヨーク」は北大西洋から北極海方面においてソビエト連邦 むけ北極船団 の護衛を担当した。10月、空母「レンジャー」の艦上機でノルウェー沖のドイツ船舶を攻撃するリーダー作戦 に参加。この作戦で4隻のドイツ商船を撃沈し、7隻を損傷させその多くを擱座させる戦果を挙げた[ 55] 。
「シャルンホルスト」撃沈から間もない1944年1月1日、アンチ・フラッシュ・ギア (英語版 ) を着用して「A」主砲塔前に並んだ砲員。
北岬沖海戦後、スカパ・フローに帰投した本艦がドリフター (英語版 ) 乗員の歓呼に迎えられる。
12月26日 、エーリヒ・バイ 少将が率いるドイツ戦艦「シャルンホルスト 」(DKM Scharnhorst ) と駆逐艦部隊が、連合軍のソ連向け輸送船団JW55B船団 (英語版 ) を攻撃した。まずバーネット (英語版 ) 提督指揮下の巡洋艦部隊(「ノーフォーク」、「ベルファスト 」、「シェフィールド 」)が「シャルンホルスト」を迎撃し、「シャルンホルスト」はレーダー に損害を受けた。その後、ブルース・フレーザー 提督(本国艦隊司令長官)[ 7] が率いる「デューク・オブ・ヨーク」(旗艦)と大型軽巡 「ジャマイカ 」および駆逐艦部隊が戦闘に加入する。本艦はスタビライザー方式の主砲射撃方位盤 により荒天の揺れを抑え、さらに正確なレーダー管制射撃[ 60] によりこれを大破させた[ 注釈 12] [ 注釈 13] 。「シャルンホルスト」は「デューク・オブ・ヨーク」に圧倒され、最終的に巡洋艦や駆逐艦の雷撃により沈没した[ 注釈 14] [ 注釈 15] 。バイ少将も戦死した[ 67] 。
1944年3月下旬から4月初旬にかけて、本艦と姉妹艦「アンソン 」は空母「ヴィクトリアス」、「フューリアス 」 、護衛空母 部隊と共に、フィヨルドに潜むドイツ戦艦「ティルピッツ」[ 68] を葬ることを企図したタングステン作戦 に参加した。
8月、デューク・オブ・ヨークはグッドウッド作戦 に参加し、ティルピッツ攻撃をおこなう空母部隊を指揮した。「ティルピッツ」は幾度も攻撃を受け (英語版 ) 、11月12日に沈没した。9月、本艦はリバプール でオーバーホール された。部分的に近代化改装を受け、レーダー装置と対空砲が更新された。
1945年8月28日、富士山 を背景に東京湾の連合国艦艇。手前から「ミズーリ 」、本艦、「キング・ジョージ5世 」、「コロラド 」などが写る。
「ティルピッツ」の脅威がなくなると、キング・ジョージ5世級戦艦も太平洋戦線 に配置転換された。
1945年4月にはイギリス太平洋艦隊 所属となり、4月25日に「アンソン」と共に出航した。しかし、マルタ滞在中に艦内の電気回路に問題が発生したため太平洋 への移動は遅れ、シドニー に到着したのは7月29日となった。その時には、既に日本軍 との戦闘で有意義な働きをするには遅すぎた[ 70] 。8月初旬、「デューク・オブ・ヨーク」は空母4隻及び姉妹艦「キング・ジョージ5世」と共に第37任務部隊 (英語版 ) に配属された。8月9日以降、第37任務部隊と3つのアメリカ空母機動部隊は日本への一連の空襲 を行い、8月15日まで続いた[ 71] 。イギリス太平洋艦隊旗艦となった後の8月10日、グアム においてアメリカ太平洋艦隊 司令長官チェスター・ニミッツ 提督が本艦に乗艦し、ブルース・フレーザー 提督よりバス勲章 (Order of the Bath ) を授与された[ 注釈 16] 。
9月2日 の日本 降伏調印式には[ 73] 、イギリス太平洋艦隊の旗艦として参加している(日本の降伏文書調印式に参加した連合国艦艇一覧 (英語版 ) )。続いて「デューク・オブ・ヨーク」は香港 へ移動し、現地の日本軍部隊の降伏を受け入れた。1946年6月にオーバーホールのためにプリマス に帰還するまで、引き続きイギリス太平洋艦隊旗艦の地位を維持した[ 74] 。
戦後、「デューク・オブ・ヨーク」は本国艦隊旗艦となり、1949年4月まで現役で活動した。1951年11月に退役し、1957年5月18日に解体 を命じられた。「デューク・オブ・ヨーク」の艦体はファスレーン のShipbreaking Industries, Ltd.によって解体された[ 75] 。本艦の船鐘は保存され、ケニア のナイロビ にある本艦にちなんだデューク・オブ・ヨーク・スクール(現:レナナ・スクール (英語版 ) )に贈られた。
主な活動
北洋船団護衛
北アフリカ戦線
南イタリア上陸
ティルピッツ警戒および空母機動部隊護衛
日本本土上陸予備作戦
日本降伏調印式参加
など
栄典
「デューク・オブ・ヨーク」は第二次世界大戦の戦功により3個の戦闘名誉章(Battle honours)を受章した[ 10] 。
「ARCTIC 1942-43」 - 「NORTH AFRICA 1942」 - 「NORTH CAPE 1943」
本艦の改装遍歴
「デューク・オブ・ヨーク」は現役期間中に複数の改装を受けた[ 76] 。
ギャラリー
大戦末期、太平洋で活動中の本艦。
北大西洋にて (1941年12月)
スカパ・フロー停泊中の本艦上における海軍士官と
英国芸術評議会 (英語版 ) 会員の音楽家。
レナナ・スクール (英語版 ) に保存されている本艦の船鐘。2016年撮影。
脚注
注釈
^ 英国王がその主権者を務めるガーター騎士団 のモットー。
^ (倫敦廿九日發)[ 5] 昨日の下院 に於いてホア 海相は左の如く聲明した「一九三七年度主力艦 アンソン ヂェリコ 、ベツテイ 三隻の建造はそれぞれヂョン・ブラウン、クライドバンク・スワン、ハンター及ウイガムリチャードソン ウォールセンド・オン・タイン諸會社に註文、機關はウオールセンド及フエアフイルド各會社に註文した」(記事おわり)
^ 1936年1月20日に死去したイギリス国王ジョージ5世 の第一王子がエドワード8世 (プリンス・オブ・ウェールズ)、第二王子がジョージ6世 (デューク・オブ・ヨーク)である。
^ ヨーク公 (Duke of York ) またはヨーク=オールバニ公爵 (Duke of York and Albany ) にちなむ「デューク・オブ・ヨーク」の艦名をもつイギリス船は多数存在する(デューク・オブ・ヨーク (英語版 ) )。イギリス海軍の艦艇としては他に、帆走カッター の「デューク・オブ・ヨーク (英語版 ) 」(1763年)がある。
^ ジョン・トーヴィー (1941年 - 1943年)、アルバン・カーティス (英語版 ) (1942年)、エドワード・サイフレット (1942年)、ブルース・フレーザー (1943年 - 1944年)、ヘンリー・ラスヴェン・ムーア (1944年)の5名[ 10] 。
^ H.M.S. Duke of York[ 11] Britain launches a new superbattleship, the Duke of York, a 35,000-ton ship mounting ten 14-inch guns, 16of5.25 inches and a powerful anti-aircraft defence. The ship was launched at the Clydeside shipyard.(記事おわり)
^ 「インドミタブル」は訓練中にカリブ海 のジャマイカ で座礁した。アメリカ合衆国 で修理をおこなったが太平洋戦争 開戦までにシンガポールに進出できず、直掩航空兵力を欠いたZ部隊 (英語版 ) の主力艦2隻がマレー沖海戦 で沈没する一因となった。
^ 第39任務部隊の本来の司令官はジョン・W・ウィルコックス (英語版 ) 少将だったが、大西洋横断中に旗艦から落下して行方不明になった。そこでギッフェン少将が第39任務部隊の指揮を引き継いだ。
^ ワシントンの将兵は「デューク・オブ・ヨーク」の射撃について酷評している。
^ レッセルシュプルングとは、チェス におけるナイト (桂馬 )の働き のこと。
^ ソ連向け援助船団は、9月初旬のPQ18船団 から再開された。続いて12月中旬にJW51A船団 (英語版 ) が運航されて成功し、12月下旬のJW51B船団 (英語版 ) ではバレンツ海海戦 が生起した。
^ 北岬沖海戦において、「デューク・オブ・ヨーク」の主砲射撃方位盤はスタビライザーのおかげで横揺れを4度に抑え、正確な射撃を行うことができた。一方で、四連装主砲塔の信頼性の低さは海戦時にも露呈しており、装薬量を7割に減じたにもかかわらず1番・3番砲塔で斉射不能の砲が続出し、全砲力の68パーセントしか発揮できなかった。
^ 「デューク・オブ・ヨーク」の273Q型レーダーは、その探知距離の限界に近い23海里 (43 km )で「シャルンホルスト」を探知することに成功している。交戦において「シャルンホルスト」の放った28.3cm砲弾がマストに命中し、281型レーダーのアンテナを破壊した。273Q型レーダーも衝撃で故障したものの、無事だったレーダー操作員が応急修理を行い探知を継続した。
^ 北海の怒濤上英艦隊と激戰 獨乙の至寶戰艦沈没 ― 二万六千噸シャーンハスト[ 64] 【倫敦廿六日公報聯合通信】獨乙艦隊の至寶シャーンハスト號は開戰以來北海の聯合國對露レンド・リース航路遮斷の爲め幾多の苦戰を重ね、常に無事であつたが、一昨クリスマスの日、有力なる英國近海防備艦隊と遭遇、敢然交戰の結果、遂に北海の氷山を枕とし深海に沈降した旨公表された/ 此海戰は、英國側の 勝利であり、飛行機が此戰爭に参加したかどうか等、其他乗組員の死傷等に關する詳報は未だ不明であるが、此獨戰闘艦二万六千噸を失へば、殘る戰闘艦は僅かに二隻、チルピッツ 號(四万一千噸)、並にグニーセノウ 號(二万六千噸)のみである(記事おわり)
^ 交戦中、「シャルンホルスト」では水雷士官ボッセ中尉が左舷水上魚雷発射管から「デューク・オブ・ヨーク」に向けて魚雷1本を発射したのが目撃されている(三連管のうち、二管は使用不能になっていたとされる)。「デューク・オブ・ヨーク」に命中はしなかったが、1941年5月のライン演習作戦 において戦艦「ロドニー 」が戦艦「ビスマルク 」を雷撃した事例[ 65] に次いで、戦艦が他の戦艦を雷撃した珍しい例であった。
^ Fleet Admiral C.W.Nimitz, commander-in-chief of the United States Pacific Fleet , is Shown on the deck of H.M.S.Duke of York, flagship of the British Pacific Fleet, after he had been invested with the Order of the Bath, knight Grand Crowns, by Admiral Sir Bruce Fraser, GCB, KBE, commander-in-chief of the Brittisf Pacific Fleet at Guam, August10. [ 72] (Official U.S.Navy photograph, Pacific Fleet)(記事おわり)
出典
^ “King George V : Statistics ”. Hoji Shinbun Digital Collection . Nippu Jiji, 1941.04.01. pp. 10. 2024年3月29日 閲覧。
^ “Five British Super-Warships See Service ”. Hoji Shinbun Digital Collection . Nippu Jiji, 1940.11.16. pp. 11. 2024年3月29日 閲覧。
^ “英國主力艦 ホア海相聲明 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . Nan’yō Nichinichi Shinbun, 1937.04.30. pp. 02. 2024年3月31日 閲覧。
^ “ノースケープ沖英獨大海戰 獨艦シャ號沈没 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . Manshū Nichinichi Shinbun. pp. 01 (1943年12月29日). 2023年11月23日 閲覧。
^ a b “英本國艦隊のため 獨戰艦撃沈さる シャルンホルストの最後 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . Hawaii Times. pp. 04 (1943年12月27日). 2023年11月23日 閲覧。
^ “Giant Battleship New Jersey in Strike on Japan ”. Hoji Shinbun Digital Collection . Hawaii Times, 1945.07.21. pp. 01. 2024年3月29日 閲覧。
^ a b c d e Mason, Geoffrey B. “HMS DUKE OF YORK - King George V-class 14in gun Battleship ”. naval-history.net . 2024年3月31日 閲覧。
^ “Super Battleship ”. Hoji Shinbun Digital Collection . Kashū Mainichi Shinbun, 1941.01.26. pp. 08. 2024年3月29日 閲覧。
^ “Battleship, Duke of York, to be Launched ”. Hoji Shinbun Digital Collection . Hawai Mainichi, 1941.08.27. pp. 01. 2024年3月29日 閲覧。
^ “Official ship's badge of HMS Duke of York ”. グリニッジ王立博物館. 2024年3月30日 閲覧。
^ “敗戰米、英のワシントン會談 捻るは頽勢挽回策 英首相一行 總勢八十名乗込む ”. Hoji Shinbun Digital Collection . Manshū Nichinichi Shinbun, 1941.12.25 Edition 02. pp. 04. 2024年1月2日 閲覧。
^ a b Garzke p. 216
^ Rohwer, p. 153
^ Konstam p. 43
^ Chesneau p. 14
^ Rohwer, p. 280
^ 世界の艦船 増刊第67集
^ “Yuta Nippō, 1943.12.27 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 03. 2023年11月23日 閲覧。
^ ルードヴィック・ケネディ『戦艦ビスマルクの最期』内藤一郎 訳 、早川書房〈ハヤカワ文庫〉、1982年9月、389-375頁。ISBN 4-15-050082-7 。
^ “獨海軍指揮官ベイ少将戰死 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . Hawaii Times. pp. 04 (1944年3月2日). 2023年11月23日 閲覧。
^ “本國への脱出を企圖する 獨戰闘艦に爆撃敢行 英空軍チ號に命中彈を投下 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . Hawaii Times. pp. 04 (1944年4月3日). 2023年11月23日 閲覧。
^ Conway, p. 15
^ Rohwer, p. 426
^ “FLEET ADMIRL NIMITZ WEARING BRITISH AWARD ”. Hoji Shinbun Digital Collection . Hawaii Times, 1945.08.14. pp. 01. 2024年3月29日 閲覧。
^ “九月二日調印された日本降伏書の正文 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . Hawaii Times, 1945.09.04. pp. 04. 2024年1月2日 閲覧。
^ Garzke, p. 221
^ Garzke, p. 222
^ Conway, p. 52
^ a b Konstam, p. 37
^ a b c d Campbell, p. 55
参考文献
ジョン・キーガン 「第九章 ビッグ・スリー 一九四一 ~ 四五年」『チャーチル 不屈の指導者の肖像 』富山太佳夫、岩波書店、2015年8月(原著2002年)。ISBN 978-4-00-023887-8 。
ラッセル・グレンフェル『プリンス オブ ウエルスの最期 主力艦隊シンガポールへ 日本勝利の記録 』田中啓眞 訳、錦正社 、2008年8月(原著1953年)。ISBN 978-4-7646-0326-4 。
ジョン・ジョーダン『戦艦 AN ILLUSTRATED GUIDE TO BATTLESHIPS AND BATTLECRUISERS 』石橋孝夫(訳)、株式会社ホビージャパン〈イラストレイテッド・ガイド6〉、1988年11月。ISBN 4-938461-35-8 。
『世界の艦船 増刊第67集 第2次大戦のイギリス戦艦』海人社 〈世界の艦船 〉、2004年11月。
イアン・トール「第五章 チャーチルは誘惑する」『太平洋の試練(上) 真珠湾からミッドウェイまで 』村上和久(訳)、文藝春秋、2013年6月。ISBN 978-4-16-376420-7 。
ダグラス・E・フォード「太平洋戦争前夜におけるイギリスの極東戦略 1941年 」『『戦争史研究国際フォーラム報告書』. 第7回』、防衛省、2009年3月。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1282967 。
ダドリー・ポープ 『バレンツ海海戦』伊藤哲 訳、早川書房〈ハヤカワ文庫NF〉、1981年9月。ISBN 4-257-17078-6 。
月間雑誌「丸」編集部編『丸季刊 全特集 写真集 ドイツの戦艦 ド級前戦艦から戦艦まで全37隻のすべて THE MARU GRAPHIC WINTER 1977 』株式会社潮書房〈丸 Graphic・Quarterly 第27号〉、1977年7月。
M・ミドルブック 、P・マーニー『戦艦 ― マレー沖海戦 ―』内藤一郎 訳 、早川書房、1979年6月。
イヴァン・ミュージカント『戦艦ワシントン 米主力戦艦から見た太平洋戦争 』中村定 訳、光人社、1988年12月。ISBN 4-7698-0418-0 。
ジャン・モリス 『帝国の落日〔上巻〕 パックス・ブリタニカ完結篇 』椋田直子、株式会社講談社、2010年9月(原著1978年)。ISBN 978-4-06-215247-1 。
ジャン・モリス 『帝国の落日〔下巻〕 パックス・ブリタニカ完結篇 』椋田直子、株式会社講談社、2010年9月(原著1978年)。ISBN 978-4-06-215248-8 。
* アンガス・コンスタム 著、橋本若路 訳『北岬沖海戦 一九四三・戦艦シャルンホルスト最期の出撃』(初)イカロス出版 、2020年、224頁。ISBN 978-4-8022-0900-7 。
Garzke, William H., Jr.; Dulin, Robert O., Jr. (1980). British, Soviet, French, and Dutch Battleships of World War II . London: Jane's. ISBN 0-7106-0078-X
Konstam, Angus (2009). British Battleships 1939–45 (2) Nelson and King George V classes . New Vanguard. 160 . Oxford, England: Osprey Publishing. ISBN 978-1-84603-389-6
Rohwer, Jürgen (2005). Chronology of the War at Sea 1939–1945: The Naval History of World War Two (Third revised ed.). Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 1-59114-119-2
Chesneau, Roger, ed (1980). Conway's All the World's Fighting Ships 1922-1946 . Greenwhich: Conway Maritime Press. ISBN 0-85177-146-7
Chesneau, Roger (2004). King George V Battleships . ShipCraft. 2 . London: Chatham Publishing. ISBN 1-86176-211-9
関連項目
外部リンク