ジャパンフットボールリーグ(Japan Football League)は、かつて存在した日本のサッカーリーグであり、1992年から1998年まで開催された。
実態としては日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)と地域リーグの間のカテゴリであったが、本来はアマチュア・プロを問わない日本のサッカー界の頂点に位置する全国リーグであった(Jリーグは独立した存在)。ジャパンフットボールリーグを継承した日本フットボールリーグも略称として「JFL」を採用したため、便宜上これと区別するために旧JFLと呼ばれることがある。
本稿では以後ジャパンフットボールリーグを「旧JFL」、日本フットボールリーグを「JFL」と略記する。
概要
1993年のJリーグ発足を受けて、Jリーグとともに従来の日本サッカーリーグ(JSL)を改組した形で始められたのが旧JFLである。Jリーグ開幕より1年早く1992年から開催された。この当時の日本サッカーのリーグ構成 (1種)における2部リーグに相当する役割を持っていた。
第1回大会 (1992年) の参加チームはJSL1部・2部合計28クラブのうち、Jリーグに参加しなかった18クラブに全国地域リーグ決勝大会を勝ち抜いた大阪ガスサッカー部と西濃運輸サッカー部を合わせた合計20クラブであった。JSL2部の読売ジュニオールは同1部の読売サッカークラブ(現:東京ヴェルディ)に吸収され、また全国地域リーグ決勝大会2位の体大蹴鞠団(大阪体育大学のサッカー同好会や後に実業団・佐川急便大阪SC → 佐川急便SC/SAGAWA SHIGA FC)は参加を辞退した。
発足当初は、Jリーグ参加を目標に立てながらもハード・ソフト面での準備不足によって、Jリーグ発足時の最初の10クラブから漏れたクラブや、Jリーグに参加しない社会人・地域クラブも、混在していた。当初はアマチュアリーグであったJSLの後を受け継いだリーグであったが、旧JFLに参加したクラブにはJリーグへの参加意思を持ったクラブ(第2位までに入ったクラブにJリーグ加盟権利が与えられる準会員チームも)が多く、実質的にはJリーグにこうしたクラブを送り出す、Jリーグの下部リーグ(セミプロリーグ)としての特性を強く持っていた。
1999年にJリーグ ディビジョン2(J2)と日本フットボールリーグ(JFL)に改組され、1998年シーズンをもって終了した。
また、それまでJFL1部(2部に相当)を「J1」と呼び、JFL2部(3部に相当)を「J2」と呼んでおり、1999年以前と以降では「J1・J2」の呼び名が指すリーグはカテゴリー的に1段階ズレが生じている。
主催・主管
歴史
第1回 (1992年)および第2回大会 (1993年)は2部制(各10クラブ)で実施されたが、第3回大会 (1993年)から2部制を廃し、16クラブによる1部制になった。
Jリーグでは漸進的にクラブ数を増やし、最終的には16クラブにすることを予定していた。そこで1993年から旧JFLに参加しているクラブの中から、Jリーグが定める基準をクリアしたクラブに対してJリーグ準会員という資格を与えた。準会員チームにはJリーグカップ、サテライトリーグの出場資格が与えられていた(ただしJリーグカップは1996年はリーグ戦のスケジュールがタイト → Jリーグの中断期である6-8月の開催であったため参加しなかった)。この準会員資格を持ったクラブが旧JFLで2位以上の成績を収めれば、Jリーグ参入が承認された。
なお、Jリーグの2部制導入について、旧JFL内でも消極的な声が挙がっていたが、最終的には旧JFL総務主事(Jリーグ理事と兼務)の木之本興三が賛成票を投じたことで1999年からのJ2移行が決定。木之本には、公益企業ゆえの手堅さを持つNTT関東サッカー部及び東京ガスサッカー部のJ2加盟がJリーグへの信頼向上につながるとの確信があったという[1]。
Jリーグ参加のための登竜門としての側面が強くクローズアップされた旧JFLだが、実際には地域リーグ・都道府県リーグといったリーグ戦のピラミッド構造の頂点にあたるため、全国地域サッカーリーグ決勝大会を勝ち抜いた2クラブと旧JFL下位2クラブの入れ替えが行なわれる規定であった。しかしJリーグ参加クラブの存在と参加クラブの廃部・解散が相次いだため、1部制移行後に地域リーグへ降格したクラブは無かった。
所属クラブ一覧
結果
試合方式
- 1992年のみ90分制。延長戦・PK戦なし。勝ち点制(勝ち3、引き分け1、負け0)
- 1993年度以後はJリーグの方式に倣って、延長・PK戦も行う。
- 1993・1994年 勝ち点制廃止。単純に勝利順で順位決定
- 1995・1996年 勝ち点制再開。延長・PKを含めあらゆる勝ち3、延長までの負け0、PK負け1
- 1997・1998年 勝ち点制見直し。90分勝ち3、延長勝ち2、PK勝ち1、あらゆる負け0
JFLオールスターサッカー
1992年から1998年(ただし1993年は開催せず)の毎年夏にオールスターサッカーが開かれた。
1992年(この年のみ1部、2部で分けて開催)、1994年は本拠地別の東西対抗戦、1995年は前シーズンのリーグ戦順位を参考として奇数順位クラブによる「オッズ」と偶数順位クラブによる「イーブンス」で対戦。1996年と1997年は日本人チームvs外国人チームによる対抗戦[2][3]。1998年に再び東西対抗戦に戻して行われた[4]。
1995年大会
ODDS v EVENS
宮城陸上観客数: 3780人 [5]主審: 小幡真一郎
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1996年大会
1997年大会 (山形県サッカー協会50周年記念事業[3])
1998年大会
脚注
- ^ 木之本興三『日本サッカーに捧げた両足 真実のJリーグ創世記』ワニブックス、2013年、270-271頁。ISBN 4847091655。
- ^ a b c d 月刊ブランメル仙台 1996 NO.20号 p.3-4
- ^ a b c 月刊ブランメル仙台 1997 NO.32号 p.4-5
- ^ a b 月刊ブランメル仙台 1998 NO.45号 p.24-25
- ^ 週刊サッカーマガジン 1995年8月30日 32-33ページ
関連項目
外部リンク