カルピスは、アサヒ飲料の機能子会社となる日本の乳製品メーカーのカルピス株式会社(英称:Calpis Co., Ltd.)及び、同社が製造してアサヒ飲料が販売する乳酸菌飲料の名称である。アルファベット表記はCALPIS、日本以外ではCalpicoとも。
カルピス本社は、東京都渋谷区恵比寿に所在していた。2012年(平成24年)10月にそれまでは味の素が保有していた全株式がアサヒ飲料などを傘下に持つアサヒグループホールディングスに譲渡され、同社の機能子会社となった。2016年(平成28年)1月のアサヒグループにおける飲料事業の再編にともない、アサヒ飲料の機能子会社である2代目法人となり、本社が東京都墨田区吾妻橋のアサヒビール本社ビルへ移転した。同時に「カルピス」の登録商標についても、カルピスから親会社のアサヒ飲料に商標権が移管された。
2020年(令和2年)12月現在のコーポレート・スローガンは「カラダにピース。CALPIS」。ブランド・スローガンは「ピースはここにある。」。
企業としてのカルピスの創業者は、僧侶出身の三島海雲である。20世紀の初頭の創業初期より、後に日本初の乳酸菌飲料となる「カルピス」を生産していた[2]。これと共に、脱脂乳の生産の際に副産品として製造を開始したとされるカルピスバターが主力商品である。
1990年の味の素との提携後は、カルピスを製造時に水で希釈調合しすぐに飲めるようにした清涼飲料水「カルピスウォーター」の生産、ミネラルウォーターの「エビアン」やワインの輸入、カクテル「カルピスサワー」などのアルコール飲料にも進出している。
Calpisが牛の尿の意味の英語: cow piss「カウ ピス」と聞こえることから、アメリカ合衆国ではCALPICO(カルピコ)という名称で販売される。なお、製造情報の欄には輸出会社として「CALPIS CO.,LTD.」と書かれている。
味の素は2007年(平成19年)6月11日に同年10月1日付で、カルピス株式会社を完全子会社化することで合意したと発表した。カルピス経営陣は他社との提携も考慮したが、今後の少子高齢化で懸念される日本市場の規模縮小と、それを補うための海外市場展開、さらには、いわゆる三角合併の解禁による海外企業の買収攻勢への対応を見据え、この統合案しかないと表明。苦渋の決断だったとしている。
2012年5月8日、味の素がアサヒグループホールディングスにカルピスの全株式を2012年10月1日付、約1200億円で売却する内容の株式譲渡契約締結が発表された[3][4]。同年10月に株式譲渡が行われ、アサヒグループホールディングスの子会社となった。同時に「業務提携:味の素株式会社」の記載も削除されている。統合後はアサヒ傘下の会社とマレーシアにてカルピス飲料を共同開発し、東南アジア向けに現地の趣向に対応させ、ハラル認証も取得している。
2016年1月1日にアサヒグループの飲料事業の再編が行われ、事業ごとにグループ会社へ継承・移管した後、アサヒ飲料と合併。カルピスで行われていた国内飲料製造事業と乳製品事業はカルピスフーズサービスへ継承され、(2代目)カルピスとしてアサヒ飲料の機能子会社となった。
沿革については下記を参照。
1908年(明治41年)、30歳の三島海雲は内モンゴル(現在の中華人民共和国・内モンゴル自治区)を訪れ[5]、そこで口にした酸乳を参考にして、1919年(大正8年)にカルピスを開発・発売し、この飲料と同名の企業の創業者となったと伝えられている。脱脂乳を乳酸菌で発酵(酸乳)しこれに加糖、さらに酵母(馬乳酒中の酵母と近似[6])による発酵がカルピス独特の風味に不可欠であることは、長く企業秘密とされていたが、1990年代半ばに公開された。
社名は、「カルシウム」とサンスクリットの「サルピス」(सर्पिस्, sarpis, 漢訳:熟酥=じゅくそ)を合わせたものである。社名を決める際、サンスクリット「サルピルマンダ」(sarpir-maṇḍa, 漢訳:醍醐)を使用し、「サルピス」・「カルピル」とする案も存在した。同社では重要なことを決める際には、その道の第一人者を訪ねる「日本一主義」があった。これにより、当時音楽の第一人者だった山田耕筰に社名について相談したところ、「カルピス」が最も響きが良いということで現行社名・商品名になったという[7]。
元々は、パナマ帽を被った黒人男性が、ストローでグラス入りのカルピスを飲んでいる図案化イラストが商標だった。これは第一次世界大戦終戦後のドイツ帝国で苦しむ画家を救うために、社長の三島が開催した「国際懸賞ポスター展」で、3位を受賞したドイツ人デザイナーのオットー・デュンケルスビューラー(ドイツ語版)による作品を使用したものである[8]。1989年(平成元年)に一部から「差別思想につながる」との指摘を受け、パッケージリニューアル時にこのマークは使用されなくなったが、マーク中の「渦巻き状のストローが入ったグラス」の意匠はややデザインを変えつつ、現在も一部のパッケージに受け継がれている。なお、カルピスはかつてのロゴの図案を白黒反転させたマークも商標登録している。
乳酸菌飲料のカルピスの原液は非常に高濃度で、そのままでの飲用は推奨されていない。水、湯または牛乳で2.5から5倍程度に希釈して飲用とする。原液はその濃さから常温保存しても腐敗しにくい性質があり、戦前は一般家庭の常備品や大日本帝国軍の補給品として、戦後は贈答用として広く使われていた。また、原液のままでかき氷にかけてシロップとしても使える。
飲料のカルピスは1919年(大正8年)7月7日に販売が開始された。当時のカルピスは現在の薬用養命酒のような下膨れのビン詰めで、ミロのヴィーナスが描かれた紙箱の包装だった。1922年に水玉模様の包装紙を巻いたものになる。カルピスのパッケージの水玉模様は、発売日の七夕に因んで天の川をイメージしたもの。最初は青色地に白い無地玉で、1949年(昭和24年)に色を逆にし、白地に青い水玉とした[9][10]。
1927年(昭和2年)には森永乳業よりコーラスが発売され、1980年代まで人気を二分した。
1941年に軍用カルピス、1943年に軍用ビタカルピスが製造され、大日本帝国陸軍の原料資材提供を受け、兵士の健康飲料とされた。ビタカルピスはオレンジ色の水玉模様の包装紙で包まれていた。軍隊調理法にも、練乳とクエン酸などを混ぜて作る代用品である「カルピス様飲料速製法」というレシピが載っている[11][12]。
1958年に「濃縮オレンジカルピス」も登場[13]。その後は希釈済みの製品として、1973年(昭和48年)に炭酸水で希釈したカルピスソーダを発売。炭酸水希釈のソーダ飲料としたのは、当時の技術では普通の水による希釈では、長期の品質維持に問題があったためである。1980年代も終盤に差し掛かると生活様式の変化により、飲用時に希釈が必要な従来の原液カルピスは、一般家庭では徐々に疎遠な存在となっていった。1991年(平成3年)には、希釈の手間を省いたカルピスウォーターが発売され、大ヒット商品となった。
原液のカルピスは、瓶詰めの商品で、瓶が重いことなどから1995年(平成7年)に紙パック入りが登場し、商品のコンパクト化が実現された。これが近年の販売の主体となっている。
2002年(平成14年)、カルピスを飲んだとき、口の中に白い塊ができるのを防止するため大豆多糖類が加えられた[14][15][16]。この白い塊はカルピスに含まれるカゼインと唾液成分のムチンとが反応してできるものである[16]。この白い塊はネット上の一部で「カルタン」と呼ばれていたが、当然ながら正式な名称ではない[14][16]。
2012年(平成24年)4月9日より、新たに開発した4層構造のプラスチックボトル「ピースボトル」を採用。レギュラー・ダイエット・ぶどうが全面リニューアルし、新規発売のオレンジとマンゴーも同じ「ピースボトル」を採用。主原料の砂糖・生乳の価格高騰が続いていることから、希望小売価格は据え置きながら、内容量は従来の紙容器から30 ml少なくなり、470 mlとなった。
このピースボトルのモチーフは、昔の水玉包装のカルピスで、懐かしさや親しみを与えようとデザインされた。風味維持のために光、空気を遮断する、プラスチック4層構造。ペットボトルよりも耐熱性に弱い素材であり、カルピス製造時の熱殺菌、充填、冷却に伴う容器の変形を防ぐための様々なノウハウが必要だという。紙パックに比べ、持ちやすいようにカーブをもたせている。また液切れのよいキャップを採用することで、薄めて飲むこと以外のかき氷に掛けるなどの用い方にも、配慮している。廃棄の際もキャップとボトルとラベルは同じ素材で分別不要である[17]。
2019年(平成31年)1月出荷分よりラベルの意匠が変更され、カルピスのブランドからアサヒのブランドへ変更となった。同年(令和元年)7月7日で、販売開始から1世紀(100年)に到達。
これらの派生製品は、アサヒ飲料との合併後も引き続き自社で製造・販売されている。いずれも乳酸菌飲料としてのカルピスの成分は含まれない。
他社と提携し、商品名に「カルピス」を冠した商品も数多い。
なお、「カルピス」や後述する「ぐんぐんグルト」を含むカルピスブランドの製品は合併に伴ってアサヒ飲料の製品となった。下記以外の製品についてはアサヒ飲料#主要ブランドを参照。
他、多数。
現在はスポットCM、またはアサヒ飲料提供番組で商品CMを流している。