ウルビーノ (伊 : Urbino ( 音声ファイル ) )は、イタリア共和国 マルケ州 北西部にある都市で、その周辺地域を含む人口約14,000人の基礎自治体 (コムーネ )。ペーザロ・エ・ウルビーノ県 の県都 のひとつである。
山間部の小都市であるが、多くの文化遺産を擁する芸術の街として知られる。街は2つの丘にまたがって広がっており、起伏のある道を歩きながらルネサンス期の建物をみることができる。中世にはウルビーノ公国 の首府であり、ルネサンス期にモンテフェルトロ家の下で最盛期を迎えた。ラファエロ はこの都市の出身である。「ウルビーノ歴史地区」は1998年にユネスコの世界遺産 (文化遺産)に登録されている。
地理
位置・広がり
ペーザロ・エ・ウルビーノ県北西部の内陸に位置するコムーネで、ペーザロ とともに県都とされている。ウルビーノの市街は、サンマリノ市 の南南東28km、ペーザロ の南西31km、ペルージャ の北北東約71km、州都アンコーナ の西72km、フィレンツェ の東111kmにある[ 4] 。
隣接コムーネ
隣接するコムーネは以下の通り。RNはリミニ県所属を示す。
気候分類・地震分類
ウルビーノにおけるイタリアの気候分類 (it ) および度日は、zona E, 2545 GGである[ 5] 。
また、イタリアの地震リスク階級 (it ) では、zona 2 (sismicità media) に分類される[ 6] 。
歴史
ローマ の目立たない都市 ウルウィヌム・マタウレンセ (マタウルス川沿いの小都市、の意)が重要な戦略上の要地となったのは6世紀のゴート との戦争 においてであった。538年に街はゴートから東ローマ帝国 の将軍 ベリサリウス に取り戻された。このことはしばしばビザンチンの歴史家プロコピウス によって述べられる。ピピン [要曖昧さ回避 ] がウルビーノを教皇領 として献呈したにもかかわらず、1200年頃までコムーネ は独立自治の伝統を表明していた。1200年頃、街はモンテフェルトロ近くの貴族 の所有に帰した。これらの貴族は直接ウルビーノを支配しようとはしなかったが、市民 が彼らを podestà (potestas , 権力の意味)に推挙するように圧力を掛けられた。その例は1213年のボンコンテ・ディ・モンテフェルトロに窺える。その結果、ウルビーノ市民は反乱を起こし、他の自治都市 と同盟し、1234年には再び市の支配権を回復した。ゲルフ(教皇 派)とギベリン(皇帝 派)の争いにおいては、ホーエンシュタウフェン家 の皇帝や教皇と同盟するよりは、個々の家族 や都市と同盟することが多かった。13世紀から14世紀にかけては、ウルビーノのモンテフェルトロ家 の領主 たちは、マルケとロマーニャ におけるギベリン党の指導者であった。
フェデリーコの肖像(ピエロ・デッラ・フランチェスカ 作)
モンテフェルトロ家でもっとも有名なのは、1444年から1482年に在位したフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ である。傑出した傭兵 隊長であったフェデリーコは、外交に長け、また熱烈な芸術と文芸の保護者であった。フェデリーコの宮廷ではピエロ・デラ・フランチェスカ が遠近法の技法について書き、フランチェスコ・マルティーニ が『建築論』(Trattato d'architettura )を著した。またラファエロ・サンティ の父ジョヴァンニ・サンティが文人として活躍した。フェデリーコの死後は息子 のグイドバルド・ダ・モンテフェルトロ が跡を継ぐ。
チェーザレ・ボルジャ は教皇領を回復するためウルビーノを攻撃し、グイドバルドと妃のエリザベッタ・ゴンザーガは亡命するが、チェーザレの失脚後、ユリウス2世 の支援を受けてグイドバルドが復帰する。再びウルビーノの宮廷文化が栄える。この時期のウルビーノの宮廷はカスティリオーネ (1478-1529年)『宮廷人』に描写され、宮廷人の理想像として伝えられた。この書はイギリス などで紳士 の理想像とも解釈され、第1次世界大戦 のころまでヨーロッパ に影響を及ぼした。
グイドバルドの死後は養子のフランチェスコ・マリーア (ユリウス2世の一族デッラ・ローヴェレ家 出身)が跡を継ぐ。メディチ家 出身の教皇レオ10世 はウルビーノを攻撃し、教皇の甥・ロレンツォ(ロレンツォ2世・デ・メディチ )をウルビーノ公にする。1519年にロレンツォが早世し、レオ10世も1521年に急逝したため、フランチェスコが復帰し、ウルビーノは教皇領 の中のデッラ・ローヴェレ家 の所領として残ることになった。
1626年ウルバヌス8世 はウルビーノ公爵 領を教皇領に組み入れた。後継ぎを暗殺されたデッラ・ローヴェレは隠棲するに当り領地を教皇への贈り物としたのである。ウルビーノはウルビーノ大司教の統治するところとなった。1657年、ウルビーノの図書館 の蔵書はローマへ移され、バチカン図書館 に加えられた。以後のウルビーノの歴史 は教皇領の歴史の一部となったが、1860年にサルデーニャ王国 に併合され、1861年以後は、イタリア王国 を経てイタリア共和国 の歴史の一部となる。
行政
分離集落
ウルビーノには、以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。
Urbino, Canavaccio, Ca' Mazzasette, Cavallino, Pieve di Cagna, La Torre, Trasanni, Schieti, Forcuini, La Marcella, Pozzuolo, Paganico, Coldelce, Repuglie, Scotaneto
観光
英名
Historic Centre of Urbino 仏名
Centre historique d’Urbino 面積
29 ha (緩衝地域 3,609 ha) 登録区分
文化遺産 登録基準
(2), (4) 登録年
1998年 公式サイト
世界遺産センター (英語) 使用方法 ・表示
旧市街は山間にあり、城壁 で囲まれた小さな街である。ボローニャとアンコーナを結ぶ幹線上の街ペーザロからバスに乗り約1時間で着く。
ドゥカーレ宮殿
1444年フェデリーコ公が建て始めた宮殿。現在は国立マルケ美術館 として一般公開されており、この街が生んだラファエロの「黙っている女」、ピエロ・デラ・フランチェスカの「セニガリアの聖母 」「キリスト の鞭刑」など、ルネッサンス 絵画 の傑作を鑑賞することができる。地下には昔の台所 や公爵の風呂 跡もある。目を見張るほど美しい中庭もある。
ラファエロの生家 (it:Casa Santi )
ラファエロが14歳まで過ごした。フレスコ 画の代表作「聖母子像」がある。位置:北緯43度43分37.9秒 東経12度38分7.1秒 / 北緯43.727194度 東経12.635306度 / 43.727194; 12.635306
サン・ジョヴァンニ礼拝堂
「十字架磔刑図」や「聖ジョヴァンニの生涯」などサリンベーニ兄弟 の後期ゴシック 様式のフレスコ画で有名。
登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準 のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター 公表の登録基準 からの翻訳、引用である)。
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
人物
著名な出身者
姉妹都市
脚注
参考文献
外部リンク
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