アストリア (USS Astoria , CL-90) は、アメリカ海軍 の軽巡洋艦 。クリーブランド級軽巡洋艦 の19番艦。艦名はオレゴン州 アストリア に因む。その名を持つ艦としては3隻目。
艦歴
「アストリア」は1941年9月6日にペンシルベニア州 フィラデルフィア のウィリアム・クランプ・アンド・サンズ で起工。当初は「ウィルクスバリ 」と命名される予定だったが、建造中に「アストリア」へ変更された。1943年3月6日にペギー・ルーカスによって進水、1944年5月17日にフィラデルフィア海軍工廠 でジョージ・C・ダイアー艦長の指揮下就役する。
6月6日~7月23日までバミューダ諸島 まで慣熟航海を行った後、フィラデルフィアに戻ってオーバーホールを受け、9月19日に太平洋艦隊 に合流するため出港した。パナマ運河 を通過し、10月3日にカリフォルニア州サンディエゴ に寄港し、10月25日に真珠湾 へ出港する前にメア・アイランド海軍造船所 で整備を受け、10月30日に真珠湾に到着した。
第二次世界大戦
11月16日、「アストリア」は当時カロリン諸島 ウルシー環礁 を根拠地にしていた空母機動部隊・第38任務部隊 (TF38) に合流するため真珠湾を出港した。途中マーシャル諸島 エニウェトク環礁 に立ち寄り、11月25日にウルシーに到着した。到着後、TF38を構成する空母群の一つ第38.2任務群 (TG38.2) に配属された。当時、同任務群には空母 「ホーネット (USS Hornet , CV-12) 」「レキシントン (USS Lexington , CV-16) 」「ハンコック (USS Hancock , CV-19) 」「インディペンデンス (USS Independence , CVL-22) 」、戦艦 「アイオワ (USS Iowa , BB-61) 」「ニュージャージー (USS New Jersey , BB-62) 」「ウィスコンシン (USS Wisconsin , BB-64) 」、軽巡「サンフアン (USS San Juan , CL-54) 」「ヴィンセンス (USS Vincennes , CL-64) 」「パサデナ (USS Pasadena , CL-65) 」「マイアミ (USS Miami , CL-89) 」、駆逐艦20隻で構成されていた。「アストリア」には空母の護衛任務が割り当てられた。12月11日、アメリカ艦隊はミンドロ島攻略 を支援するために出撃し、空母群は11月14日~16日まで空襲を行ったが、17日は悪天候のため航空機の出撃を見合わせた。その夜、艦隊はコブラ台風 に遭遇し、多くの艦船が損傷し、駆逐艦3隻が沈没したが、「アストリア」には大きな被害はなかった。艦隊は沈没した艦の生存者の捜索を2日間行った後、ウルシーに帰還した。
TF38はルソン島攻略 に参加するため12月30日にウルシーを出撃し、1945年1月6日~9日にかけて島の日本軍拠点を攻撃した。この頃にはTG38.2は縮小され、「ホーネット」「レキシントン」「ハンコック」を戦艦「ニュージャージー」「ウィスコンシン」、軽巡「アストリア」「サンフアン」「パサデナ」「ウィルクスバリ (USS Wilkes-Barre , CL-103) 」、駆逐艦15隻が護衛していた。1月9日深夜、アメリカ艦隊は東南アジア の日本占領地域を攻撃するグラティテュード作戦 を開始した。「アストリア」はその後2週間にわたり香港 、広州 、海南島 、台湾 を含む日本の占領地域とカムラン湾 の海軍拠点を含む仏領インドシナ を攻撃する空母群を護衛した。艦隊は1月25日にウルシーへ戻った。
2月初旬までに空母機動部隊は第5艦隊 麾下に移り、第58任務部隊 (TF58) に再編された。このとき「アストリア」「ウィルクスバリ」「パサデナ」は、空母「エセックス (USS Essex , CV-9) 」「バンカー・ヒル (USS Bunker Hill , CV-17) 」「カボット (USS Cabot , CVL-28) 」、戦艦「サウスダコタ (USS South Dakota , BB-57) 」「ニュージャージー」、大型巡洋艦「アラスカ (USS Alaska , CB-1) 」、駆逐艦14隻と第58.3任務群 (TG58.3) を構成した。「アストリア」以下の任務群は2月18日に始まる日本本土への空襲 のため出撃した。その日のうちに任務群は硫黄島攻略 を支援するため南方へ転進し、「アストリア」は2月21日に硫黄島への砲撃任務のため任務群から切り離された。その後、東京 への空襲に参加するため任務群に復帰し、3月3日にウルシーへ戻った。TF58は3月14日に再出撃し、来るべき沖縄上陸 に備えて空爆を開始した。この作戦中、「アストリア」はTG58.3の空母群の対空防御に従事した。その後の3か月間の戦闘において「アストリア」の砲手は日本軍機11機の撃墜とその他撃墜に関係したと報告している。「アストリア」は6月1日にレイテ島 に戻り、1か月に及ぶ定期整備を受けた。
7月1日、「アストリア」は本土空襲を行う空母任務部隊に復帰するために出港した。その頃、空母機動部隊は再び第3艦隊 麾下に戻っており、TG58.3の呼称もTG38.3に戻っていた。この間、「アストリア」は第13巡洋艦隊に所属し、7月17日~18日と7月24日~25日の2回、本州 沖の日本艦の哨戒を行った。1回目の哨戒では軽巡「ウィルクスバリ」「パサデナ」「スプリングフィールド (USS Springfield , CL-66) 」、駆逐艦6隻と第35.1任務群を構成し、本州北部沖と紀伊水道 を哨戒したが、日本艦とは遭遇しなかった。2回目は、「ウィルクスバリ」「パサデナ」「スプリングフィールド」と第35.3任務群を組み、7月24日夜、串本 の水上飛行場 と潮岬 を砲撃した。
戦後
1945年8月15日に日本は降伏し、「アストリア」はTF38と共に本州沖の哨戒を継続した。任務は9月3日まで続けられ、その後帰国の命を受ける。9月15日にカリフォルニア州 サンペドロ に到着し、11月24日まで同地に留まった。その後ハワイ に向かう。11月30日に真珠湾 に到着し、数日間訓練を行った。12月10日にサンペドロに向けて出航し、12月15日に帰還した。続く10ヶ月間に渡って、北米の太平洋沿岸を南はサンディエゴ から北はブリティッシュコロンビア州 のバンクーバー までの範囲で活動した。
1946年10月15日、「アストリア」はサンペドロを出航し中部太平洋に向かう。真珠湾を経由し11月2日にグアム に到着した。
「アストリア」は1948年2月半ばまでマリアナ諸島 、特にグアムとサイパン で活動した。2月19日にグアムを出航し、クェゼリン環礁 と真珠湾に立ち寄った後、3月24日にサンディエゴに到着した。その後太平洋 沿岸での任務を1948年10月まで継続した。
10月1日に「アストリア」は再び極東に向かう。真珠湾に3日停泊した後、中国 の青島 に向かい10月29日に到着した。ほぼ4ヶ月間をアジア水域で過ごし、韓国 の仁川 、釜山 、日本 の佐世保 、横須賀 、中国の上海 、青島などを訪問した。1949年2月16日に横須賀を出航し帰国の途に就く。真珠湾に寄港後、3月8日にサンフランシスコ に帰還した。
1949年7月1日、「アストリア」は退役し太平洋予備役艦隊サンフランシスコ・グループで保管される。1958年5月20日にサンディエゴ・グループに移管され、10年以上保管された後1969年11月1日に除籍される。1971年1月12日にビバリーヒルズ のニコラ・ジョフィ社にスクラップとして売却された。
「アストリア」は第二次世界大戦 の戦功で5個の従軍星章を受章した。
脚注
参考文献
Friedman, Norman (1980). “United States of America”. In Gardiner, Robert & Chesneau, Roger. Conway's All the World's Fighting Ships 1922–1946 . Annapolis: Naval Institute Press. pp. 86–166. ISBN 978-0-87021-913-9
Rohwer, Jürgen『Chronology of the War at Sea, 1939–1945: The Naval History of World War Two』Naval Institute Press、Annapolis、2005年。ISBN 978-1-59114-119-8 。
関連項目
外部リンク