1982年の阪急ブレーブスでは、1982年の阪急ブレーブスにおける動向をまとめる。
この年の阪急ブレーブスは、第2次上田利治監督体制の2年目(通算7年目)のシーズンである。
上田監督1年目を2位で終えたチームは専修大学の山沖之彦をドラフト1位で獲得してベテランに頼る投手陣の強化を図ったが、打撃陣は前年と不変だった。こうしてスタートした1982年のシーズンだったが、前期は西武や近鉄と首位を争い惜しくも2位で終了。後期は西武の出遅れもあり8月には日本ハムに次ぐ2位につけるが島谷金二、加藤英司、ボビー・マルカーノなどの打撃陣が息切れ。9月以降は近鉄や前期最下位のロッテに抜かれて5位に転落したのが響いてシーズン勝ち越しながらも通算成績は4位で終了した。投手陣では山田久志と今井雄太郎などがローテを守ったが、ルーキーの山沖は打線の援護に恵まれず7勝15敗と負け越した。打撃陣は若手の台頭があったが、前述のベテラン選手が息切れしたのが響いて2年連続のAクラスはならなかった。4年連続優勝を逃した成績不振の取らされる形で打撃コーチは長池徳士は解任された[2]。シーズン終了後加藤は水谷実雄との交換トレードで広島へ移籍し、かつてのリリーフエース・山口高志をはじめ代打の切り札・高井保弘や大橋穣、2番手捕手の河村健一郎、1977年に中日から移籍し中心打者として活躍した島谷などベテラン選手が引退し、マルカーノがヤクルトへ移籍するなどチームは転換期を迎えることになる。
8月1日はダブルヘッダー第1試合。[3]
*優勝はプレーオフで決定。2位以下はプレーオフの結果に関係なく勝率順で決定 [1]
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1936年から1946年までは「阪急軍」(1945年は戦況悪化のため、公式戦を休止。合同チームによる非公式戦のみ開催。)1947年から1988年までは「阪急ブレーブス」1989年から1990年までは「オリックス・ブレーブス」1991年から2004年までは「オリックス・ブルーウェーブ」(2004年オフに大阪近鉄バファローズと球団合併)2005年から「オリックス・バファローズ」
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