1964年の西鉄ライオンズでは、1964年の西鉄ライオンズの動向をまとめる。
この年の西鉄ライオンズは、中西太選手兼任監督の3年目のシーズンである。
概要
1963年の日本シリーズでは巨人に敗退したが、中西監督3年目のチームは2年連続の優勝&日本一奪回が期待された。この年は前年と違って南海が出遅れると、西鉄が開幕ダッシュに成功し5月時点では首位に立っていた。しかし、大黒柱の稲尾和久が右肩痛に襲われ、また主力選手の不振も目立つなどチームは6月を境に成績が下降。最終的に阪急・南海・東映・東京(この年大毎から改称)といった四強の草刈り場となり、辛うじて最下位は免れたものの1959年以来、5年ぶりのBクラスの5位でシーズンを終えた。投手陣は稲尾の離脱があったものの、田中勉や井上善夫、清俊彦などが稲尾をカバーした。打撃陣は前年入団のトニー・ロイ、ジム・バーマ、ジョージ・ウィルソンの「西鉄三銃士」がそれなりの成績を残した。シーズン終了後、体調不良を理由に若林忠志ヘッドコーチが退団するが「中西監督が若林ヘッドに成績不振の責任をかぶせた」として地元以外のマスコミが反発するハプニングもあった。この年の監督だった中西は後年、「若林さんは(1964年の途中から)すでに体調不良だった。私はもう一度若手を育ててくださいといったが若林さんは体調もすぐれないし、もう無理だと言ってきた」と後年回想している。
チーム成績
レギュラーシーズン
1964年パシフィック・リーグ順位変動
順位
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3月終了時
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4月終了時
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5月終了時
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6月終了時
|
7月終了時
|
8月終了時
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最終成績
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1位
|
西鉄 |
--
|
阪急 |
--
|
西鉄 |
--
|
阪急 |
--
|
南海 |
--
|
南海 |
--
|
南海 |
--
|
2位
|
南海 |
1.5
|
西鉄 |
1.0
|
阪急 |
0.0
|
南海 |
2.0
|
阪急 |
0.5
|
阪急 |
6.0
|
阪急 |
3.5
|
3位
|
阪急 |
2.5
|
南海 |
2.5
|
南海 |
2.0
|
東京 |
3.5
|
東京 |
8.5
|
東京 |
9.5
|
東映 |
5.5
|
4位
|
東京
|
東京
|
東京 |
3.0
|
西鉄 |
7.5
|
西鉄 |
10.5
|
東映 |
11.5
|
東京 |
6.0
|
5位
|
東映 |
4.0
|
東映 |
3.0
|
東映 |
6.0
|
東映 |
10.0
|
東映 |
11.5
|
西鉄 |
17.5
|
西鉄 |
19.5
|
6位
|
近鉄 |
4.5
|
近鉄 |
9.0
|
近鉄 |
10.0
|
近鉄 |
19.0
|
近鉄 |
23.0
|
近鉄 |
30.5
|
近鉄 |
28.5
|
[1]
オールスターゲーム1964
できごと
選手・スタッフ
[2][3]
表彰選手
出典
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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1950年オフに西日本パイレーツと球団合併 |