1954年の洋松ロビンス(1954ねんのようしょうロビンス)では、1954年の洋松ロビンスの動向をまとめる。
この年の洋松ロビンスは、永沢武夫が1年だけ監督を務めたシーズンである。
概要
このシーズンから愛称となっていた「洋松ロビンス」が正式名称となったが、このシーズン限りで映画・演劇会社の松竹が球団経営から撤退したため、「洋松ロビンス」と名乗った最初で最後のシーズンとなった。開幕の対阪神6連戦は3勝3敗で五分だったものの、4月10日から11連敗。連敗脱出後も12連敗を喫すると最下位から脱出できず、投打ともにいいところなく最下位を独走。後半戦以降の巻き返しを狙ったものの、8月に9連敗と5連敗を喫して5勝20敗1分の借金15で最下位が確定的になり、この年初優勝の中日に55ゲーム差、5位の国鉄に23ゲーム差も離される惨敗で球団初の最下位に転落。投手陣は前年新人王の権藤正利が11勝で2年目のジンクスを克服するも、打線の援護なく負け越しほかの投手も振るわずチーム防御率は4.14でリーグ唯一の4点台(4位の広島でも3.81を記録)。打撃陣は青田昇が本塁打王と気を吐いたが、それ以外の選手は不調でチーム打率もリーグ最下位に転落。永沢監督はこの責任を取り1年で辞任し、後任にはプロ野球黎明期から活躍していた藤井勇が選手兼任監督となった。
チーム成績
レギュラーシーズン
1954年セントラル・リーグ順位変動
順位
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4月終了時
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5月終了時
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6月終了時
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7月終了時
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8月終了時
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9月終了時
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最終成績
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1位
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巨人 |
--
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中日 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
中日 |
--
|
中日 |
--
|
中日 |
--
|
2位
|
中日 |
1.5
|
巨人 |
0.0
|
中日 |
3.0
|
中日 |
4.0
|
巨人 |
1.5
|
巨人 |
6.0
|
巨人 |
5.5
|
3位
|
大阪 |
2.5
|
大阪 |
2.0
|
大阪 |
6.5
|
大阪 |
8.0
|
大阪 |
10.0
|
大阪 |
15.0
|
大阪 |
16.0
|
4位
|
国鉄 |
5.0
|
国鉄 |
4.0
|
国鉄 |
7.5
|
国鉄 |
13.0
|
国鉄 |
22.0
|
広島 |
26.0
|
広島 |
29.5
|
5位
|
広島 |
10.0
|
広島 |
7.5
|
広島 |
13.5
|
広島 |
15.5
|
広島 |
22.0
|
国鉄 |
27.0
|
国鉄 |
32.0
|
6位
|
洋松 |
11.0
|
洋松 |
19.0
|
洋松 |
26.5
|
洋松 |
31.5
|
洋松 |
43.5
|
洋松 |
51.0
|
洋松 |
55.0
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[1]
オールスターゲーム
できごと
選手・スタッフ
表彰選手
リーグ・リーダー
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選手名 |
タイトル |
成績 |
回数
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青田昇
|
本塁打王 |
31本 |
3年ぶり3度目
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脚注
注釈
出典
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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1953年開幕直前に松竹ロビンスと球団合併 |