領事館警察(りょうじかんけいさつ、英語: Consular Police)は、第二次世界大戦以前の日本の外務省(後に大東亜省)に置かれた警察機関[1]。外務省警察とも呼ばれた。領事裁判権が認められている相手国には、日本の領事館警察署や派出所が多数置かれた。
1880年(明治13年)3月に、朝鮮(後の大韓帝国)の釜山に置かれたのを皮切りに、清国(後に中華民国)、シャム(後にタイ)、満洲国などにも設置された。
第二次世界大戦敗戦と同時に廃止され、当時3,400名いた領事警察官は在留邦人を護衛しつつ日本へと撤退した。
外務省警察は、日朝修好条規・日清通商航海条約などにもとづく領事裁判権を根拠に設置された。日本は強引に「領事警察権」があると主張し、在留民の保護取締や権益擁護を名目に警察官を常駐させて、領事警察権を既成事実化させていった。1945年(昭和20年)の解体時には、中国各地に置かれた日本の領事館警察署に最大3500人ほどが勤務していた[2]。当初は、いわゆる「一旗組」などの「不良日本人」の取締から始まったが、1910年代半ばからは、満洲での「不逞鮮人」の取締が強化されていった[3]。
外務省警察は軽機関銃などで武装しているとはいえ、関東軍や支那駐屯軍に代表される圧倒的な軍事力の補完的存在にすぎないのが実情であり、その存在意義を回復するために「本然の特性」に立ち返ろうとする動きが出てくる。「昭和十年関東軍秋季治安粛清計画ニ基ク在満外務省警察行動要綱」では、「過激対策計画ノ実施」を重視すべきだとし、「外務省警察本然ノ特性ニ鑑ミ特ニ共産匪賊及反満抗日分子(特に鮮人)ノ根本的芟除ヲ目的トスル諜報及捜索検挙ニ万全ヲ期スルヲ要ス」とあるが、これは特高警察機能の発揮を意味していた。1920年代の段階では、特高警察運用に必要な経験や人材を内務省からの借り物で間に合わせていたが、自前の人材養成と経験の蓄積を行い、1935年(昭和10年)2月、在満洲外務省警察では「高等警察服務内規」を制定するに至っていた。これは、国内の「特別高等警察執務心得」に先行するものであった[4]。
日中戦争以後は、「特高警察」機能の比重が高まり、在華日本人反戦同盟や、在中国朝鮮人の民族独立運動、在中国の外国人への視察が行われていた。1940年(昭和15年)3月、北支警察部主催の高等主任会議二日目において、「特高警察」を担当する三村哲雄第二課長は、武力戦から経済戦や思想戦に移行するのにともない、外務省警察の任務も「逐次警備警察から、高等警察に転移しつつある」と訓示している。北支警察部は、1938年(昭和13年)6月に「居留民取締り、特高警察、防共事務の完璧」を期すために設置された[5]。
外務省警察は敗戦により消滅するが、引揚となった警察官は、特高的機能を有していたにもかかわらず、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による「人権指令」の影響を受けずに済み、その経験とノウハウを生かして、各府県警察部や特別審査局(後の公安調査庁)、入国管理局に再就職していった[6]。
1944年(昭和19年)時点
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