鎌倉郡(かまくらぐん)は、神奈川県(相模国)にあった郡。
郡に所属する町村の数には時代によって変動が見られるが、近代以前は概ね80か村程度(幕末には89町村)所属し、郡高は2万石強程度だったようである。
廃藩置県以降、次第に周辺の市・町に吸収合併されて郡域は縮小し、1948年(昭和23年)6月1日に大船町が鎌倉市に編入されたことによって所属する町村がなくなり消滅した。
地理的には、境川以東の柏尾川流域が主な郡域であった。
1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域に相当する。
上記のほか、古くは逗子市全域、葉山町北部も含まれていた。これらは後年、相模国三浦郡に編入された。
行政区画として発足した当時に隣接していた郡は以下の通り。
「古事記」によれば、倭建命(日本武尊)の子・足鏡別王は、「鎌倉之別…之祖也」とあり、現在の鎌倉市域から三浦半島付近は「鎌倉別(かまくらのわけ)」という古代豪族の拠点だったと考えられている。鎌倉周辺の丘陵では、古墳時代には横穴墓群が多く形成されている(鎌倉型横穴墓を参照)[1]。
奈良時代・平安時代の郡衙は鎌倉郷鎌倉里、現在の鎌倉市御成町一帯(鎌倉市立御成小学校・鎌倉市役所のあたり、旧鎌倉御用邸跡地)に所在する今小路西遺跡と推定されており、小学校内の発掘調査により巨大な掘立柱建物群が検出され、租税を書き付けた「天平5年(733年)」銘の木簡が出土している[2]。
源順の『和名類聚抄』によると、平安時代中期に鎌倉郡にあった郷は以下の通り。
『延喜式』神名帳に記される郡内の式内社。
後北条氏は、分国相模を西郡、中郡、東郡とし、古代以来の三浦郡と合わせて統治した。相模川以東の高座郡と鎌倉郡は東郡とよばれた。近世初頭まで用いられたようである。
江戸時代、徳川光圀が著した「新編鎌倉志」には「谷七郷」が記載されている[3]。谷七郷の郷名と相当する現在の地名は以下の通り。
『神奈川県史 別編1 人物』による[8]。
旧鎌倉郡域内で栽培・収穫された物や生産・加工等された製品は「鎌倉○○」(例:鎌倉やさい[9])と呼ばれることがある。
*印は消滅。()内は1893年に東京府へ移管。
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