野球害毒論(やきゅうがいどくろん)は、1911年(明治44年)に『朝日新聞』(当時の『東京朝日新聞』)が紙面で展開した野球に対するネガティブ・キャンペーンである。「野球有害論」とも呼ばれる。
1911年(明治44年)8月29日から9月22日までの間に、『東京朝日新聞』は「野球と其害毒」と題した記事を22回にわたって掲載した。この記事は著名人の野球を批判する談話、全国の中学校校長を対象に実施されたアンケートの結果などで構成されている。
連載は最終日の全国中学の調査を含め、8月29日~9月19日の連日で、日付前の数字で掲載の回を示す。紙上での論争という性質上、時系列に従い、煩雑にはなるが、出典は細かく示す。『 』で題目を示す。
新渡戸稲造 第一高等学校校長[1][2]1.8月29日 『野球は賤技なり剛勇の氣なし 日本選手は運動の作法に暗し 本場の米国既に弊害嘆ず 父兄の野球を厭へる實例』[1]
川田正澂 府立一中校長[1][2]2.8月30日[1][4]『野球選手希望者は入學拒絶 野球の爲め品格堕落の實例』[1]
福原燎二郎 文部省専門学務局長[1][2]3.8月31日『疑問又疑問』[1]
田所美治 文部省普通学務局長[1][2]3.8月31日『野球は有害日本の學制と適せず』[1]
永井道明 東京高師教授[1][2]7.9月4日『運動の本旨を没却せる日本の野球』[1]
松見文平 順天中学校校長[1][2]9.9月6日『根本的に野球を排す』[1]
加納久宜 日本体育会会長10.9月7日[4]『運動の旨意に離る』[1]または嘉納治五郎[2]
田中道光 曹洞宗第一中學校長 [8] 『選手悉く不良少年』11.9月8日[1]
菊池謙二郎 水戸中学校長事務取扱[1]または 水戸中学校長[2]12.9月9日『野球の弊害と改善』[1]
デービッド・ジョルダン スタンフォード大学総長[2]14.9月11日『職業的たらしむる勿れ』 [1]
磯部検三 日本医学校幹事15.9月12日『百弊あって一利なし』[1]
乃木希典 学習院長18.9月15日『必要ならざる運動』[1]
服部他助 学習院野球部長18.9月15日『全滅して損なし』[1]
三好愛吉 二高校長[1][2]19.9月16日『青年の特色を破壊す』[1]
押川春浪[11]『學生界の爲に辯ず』
「(一)大虚言家新渡戸博士(上)」9月1日
「(二)神吉英三君に対する中傷記事」
「(六)恥辱を知れ」
「(七)嘆又嘆」
野球否定論者への反論と攻撃が主で、安部と異なり、選手制度擁護は行っていない。全文を通し、菊池謙二郎の名は挙げていない。関連は不明であるが、菊池は押川の恩師、奥太一郎の恩人である[14]。 翌年10月には、「押川某」が校長の卑劣な個人攻撃を雑誌に掲げたため、一高生が訪れ謝罪文を書かせた[15]。
安部磯雄[11] 『野球と学生』[16]
「競技としての野球」9月9日
「入場料に就いて」9月12日
「選手制度」9月13日
「選手の学業」9月15日
『東京朝日新聞』が「野球と其害毒」を連載したのには、下記2つの理由が考えられている。
この連載当時、学生野球の人気はすさまじいものがあった。1906年(明治39年)秋の早慶戦は第1戦が10月28日に早大戸塚グラウンドで慶應義塾が2 - 1で勝利。続く第2戦は11月3日に慶應綱町グラウンドで早稲田大学が3 - 0で雪辱。第3戦は11月13日に決まったが、あまりに盛り上がりすぎて早慶のみならず審判を務める予定だった学習院にまで脅迫状が届く事態となり、無期延期となった。
その後、対戦相手を失った早慶両校は渡米したり、逆にアメリカ合衆国からチームを招聘したりするようになる。選手はちやほやされるようになり、味を占めた選手の中には野球を続けるためわざと留年したあげく新任教師より年上という者まで現れた。
さらに他の学校でも野球は大人気だったが、行き過ぎた応援が徐々に問題視されるようになり、野球禁止を掲げる学校が増えていった。あまりにも野球人気が高くなりすぎたために賛否両論が巻き起こったのである。
もう1つの理由としてあげられるのは、ライバル紙『大阪毎日新聞』(現『毎日新聞』)の東京進出である。「野球と其害毒」が連載された明治44年、大阪毎日新聞社は『東京日日新聞』を買収し、東京進出を果たしている。
そこで、東京朝日新聞が自らの存在をアピールするために、当時国民的人気を誇っていた野球を利用したのではないか、というわけである。
『東京朝日新聞』がキャンペーンを行ったにもかかわらず、野球人気が衰えることはなかった。『東京日日新聞』などの他紙は、野球害毒論に反対する論陣を真っ向から張った。たとえば『読売新聞』は、1911年(明治44年)9月に「野球問題演説会」を開催し、安部磯雄や押川春浪らが野球擁護の熱弁をふるった[17]。そしてこの擁護の25年後に、読売新聞は東京巨人軍というプロチームを所有するにまで至った。大学の野球が害悪ならば、職業野球であれば何ら問題ないということである。
『大阪朝日新聞』は、このキャンペーンに関して擁護記事は掲載せず(東京朝日にて連載中という案内は掲載)、キャンペーン終了直後には野球に好意的な特集記事を組んだ。さらに「野球と其害毒」連載から4年後の1915年(大正4年)、『大阪朝日新聞』は社会部長長谷川如是閑主導の下、全国中等学校野球大会(現全国高等学校野球選手権大会)を実施することになった。当時の社説には「攻防の備え整然として、一糸乱れず、腕力脚力の全運動に加うるに、作戦計画に知能を絞り、間一髪の機知を要するとともに、最も慎重なる警戒を要し、而も加うるに協力的努力を養わしむるは、吾人ベースボール競技をもってその最たるものと為す」と書かれている。こちらは、大学ではなく中等教育における野球の教育的優位を確立した。中等教育であるならば留年や海外転戦などはほぼ起こりえず、統制も比較的効くからである。
また、「野球問題演説会」の中で『東京朝日新聞』の不買や広告不掲載が決議されたことで、『東京朝日新聞』は大きな痛手を負うこととなった。『大阪毎日新聞』の紙面でもこのキャンペーンの擁護が行われていたら、全国中等学校野球大会の実施は困難であったという説も挙げられている[18]。
1991年、『朝日新聞』記者本多勝一が「野球と其害毒」の記事に倣って、『新版「野球とその害毒」』を著した。ただし、『朝日新聞』本紙ではなく、朝日の週刊誌『朝日ジャーナル』連載だった(単行本は『貧困なる精神〈第21集〉』所収)。
※基幹局のみ記載
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