財部 羌(たからべ すすむ、弘化2年1月28日〈1845年3月6日〉[1] – 1909年〈明治42年〉4月8日[2])は、鹿児島藩の陸軍指南役、御親兵、警察官、函館区長(第7代)。位階および勲等は従五位・勲六等。幼名は、八十郎、郁之助、高朗羌。旧姓・鮫島[3]。
経歴
薩摩国鹿児島郡下伊敷村玉里(現在の鹿児島市玉里町)の生まれ。父は鮫島八郎、母は貞子(秩父太郎の長女)である。若くしてイギリス式兵術を学び、薩長同盟の倒幕では隊長(3個中隊を率いた。)を任された。鳥羽・伏見の戦い後の慶応4年(1868年)1月7日に八幡にて仁和寺宮嘉彰親王の護衛兵を拝命する。戊辰戦争時には「会津飯寺の戦い」において長岡藩上席家老・軍事総督の山本帯刀を捕えて斬首した功績により、後日、凱旋を命ぜられて有栖川宮熾仁親王より恩賞を賜り、皇太后より恩状を賜った。維新後は鹿児島藩陸軍指南役となるも明治3年(1870年)に辞職し、翌年の御親兵募集に応じて御親兵となる。明治5年(1872年)の解隊後は各地を漫遊し悠々自適に過ごした。やがて西南戦争がおきると陸軍征討別働隊第一旅団本隊雇となり、南九州各地を転戦するも明治10年(1877年)7月10日に敵兵の銃弾にて負傷し東京へ戻ることとなった。同年9月に銃弾の傷はすでに癒えていたが軍の命令で東京陸軍本病院に入院した。明治11年(1878年)、三等少警部として採用され進級して4年ほどで山形県警部長となった。以後、京都、広島の警部長を務め、明治25年(1892年)には、第6代函館区長曽我部道夫の退任に伴い区長代理となっていた井川武策の後任として、第7代函館区長に任じられる。同職を4年ほど勤めたのち、台北県書記官を経て沖縄県書記官となったが、明治30年(1897年)6月21日に依願退職した。
年表
栄典
- 位階
- 勲章
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 『北海道人物誌. 第2編』財部羌君伝
- ^ 『明治過去帳』新訂初版、1111頁。
- ^ 『鳥羽伏見の戦い: 幕府の命運を決した四日間』野口武彦、中央公論新社, 2010, p193
- ^ 『官報』第739号「賞勲叙任」1885年12月16日。
- ^ 『官報』第937号「叙任」1886年8月14日。
- ^ 『官報』第2188号「叙任及辞令」1890年10月13日。
- ^ 『官報』第2829号「叙任及辞令」1892年12月1日。
- ^ 『官報』第2969号「叙任及辞令」1893年5月25日。
- ^ 『官報』第3296号「彙報-函館港検疫委員」1894年6月26日。
- ^ 『官報』第3923号「叙任及辞令」1896年7月27日。
- ^ 『官報』第4142号、明治30年4月27日。
- ^ 『官報』第4190号「叙任及辞令」1897年6月22日。
- ^ 『官報』第908号「叙任及辞令」1886年7月12日。
- ^ 『官報』第2639号「叙任及辞令」1892年4月19日。
- ^ 『官報』第3737号「叙任及辞令」1895年12月11日。
- ^ 『官報』第4326号「叙任及辞令」1897年12月1日。
- ^ 『官報』第3003号「叙任及辞令」1893年7月4日。
- ^ 『官報』第4195号「彙報-官庁事項-褒賞」1897年6月28日。
参考文献
- 岡崎官次郎編『北海道人物誌 第2編』北海道人物誌編纂所、1894年。
- 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。