荒木 忍(あらき しのぶ、1891年4月26日 - 1969年1月8日)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7][8][9]。本名は荒木 武雄(あらき たけお)[1][2][6]。サイレント映画初期の時代である日活向島撮影所から、戦後の大映京都撮影所まで、長期にわたる芸歴をもつベテラン俳優として知られる[1][2]。
1891年(明治24年)4月26日、新潟県刈羽郡田尻村(現在の同県柏崎市田尻地区)に生まれる[1][2][6]。『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)の荒木の項を執筆した奥田久司によれば、父は明治維新までは、長岡藩士であったという[1]。
中頸城郡立高田農学校(現在の新潟県立高田農業高等学校)に進学するが、1906年(明治39年)ころに中途退学して東京に移る[1][2]。東京瓦斯(東京ガス)の配管工を務めていたが、騙されてタコ部屋労働に押し込められるが、窮地から脱出し、地方巡業を行う劇団に参加した[1]。1914年(大正3年)、東京・浅草公園六区の常盤座に出演する[1]。
1921年(大正10年)、日活向島撮影所に入社、映画俳優に転身、記録に残るもっとも古い作品は、同年7月23日に公開された『破れ三味線』(監督大洞元吾)である[1][2][3][4][7]。当時の同撮影所は、新派から新劇への過渡期にあり、1922年(大正11年)12月、田中栄三が監督した『京屋襟店』に出演、完成後の試写後の夜に、藤野秀夫、衣笠貞之助、島田嘉七、東猛夫ら幹部俳優13名が集団退社の辞表を提出、石井常吉の計画によって国際活映(国活)に引き抜かれる事件が起きるが、荒木もこれに連座し、国活に電撃的に移籍している[1][2][10][11]。1923年(大正12年)3月、国活が製作を停止すると、同社を退社し、自らの一座を組んで東京から静岡、名古屋方面へ巡業の旅に出た[1]。
1924年(大正13年)には、東京から京都に移り、牧野省三が主宰するマキノ映画製作所に入社するが、同社は同年、東亜キネマに吸収合併され、荒木は継続的に東亜キネマに入社、同社の甲陽撮影所に異動する[1][3][4]。このとき、荒木は、マキノ映画製作所、吸収後は東亜キネマの等持院撮影所に至近の京都府京都市北区等持院西町2番地に居を構えた[1]。翌年にはマキノ・プロダクションが設立され、牧野省三は再独立するが、荒木が同社へ移籍するのは、1926年(大正15年)のことであった[1][3][4]。1929年(昭和4年)7月25日の牧野省三の死去後も同社に留まり、マキノ正博の新体制を支えた[1][3][4]。
1931年(昭和6年)3月、経営が悪化した同社を退社、新興キネマに移籍、そのまま、第二次世界大戦戦時下の統制により、1942年(昭和17年)1月10日に同社が日活の製作部門等と合併して大映を形成するまで、同社に所属した[1][3][4]。その後も、継続的に大映京都撮影所に所属、50代であった戦時中も、同撮影所の製作する映画に出演を続けた[3][4][6]。
戦後も亡くなる直前まで、同撮影所に所属し、脇役・重鎮役での出演を続けた[1][3][4]。牧野省三の三男・マキノ眞三がマキノ映画社や新光映画を設立すると、その作品にも出演した[3][4][6]。日活向島撮影所での先輩であった衣笠貞之助の監督作、同撮影所の助監督および監督であった溝口健二の監督作には、所属の垣根を越えて出演している[3][4][6]。1959年(昭和34年)までは、東映京都撮影所や松竹京都撮影所、宝塚映画製作所等の京阪神の他社に貸し出されて出演することも多かったが、1960年(昭和35年)以降は、大映京都撮影所作品にのみ出演するようになった[3][4][6]。『日本映画俳優全集・男優編』の奥田久司によれば、奥田自身が大映京都撮影所の俳優部長であったとき、賃金の遅配がたびたび起きたが、荒木は「どうかご心配なく」と言い、責められもせず逆に幾度となく慰められたという[1]。
1969年(昭和44年)1月8日、胃がんにより死去した[1][2]。満77歳没。終生、東京から京都に移住して以来の等持院の家から、転居をしなかったという[1]。亡くなる前年、1968年(昭和43年)6月15日に公開された 『牡丹燈籠』(監督山本薩夫)が遺作となった[3][4][6]。長女の荒木美代子(芸名 荒木雅子 旧芸名 忍美代子)は、『日本映画俳優全集・男優編』が発行された1979年(昭和54年)の時点では松竹芸能所属の女優であった[1]。
クレジットはすべて「出演」である[3][4]。公開日の右側には役名[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[9][12]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。
すべて製作は「日活向島撮影所」、配給は「日活」、すべてサイレント映画である[3][4][7]。
すべて製作は「国際活映巣鴨撮影所」、配給は「国際活映」、すべてサイレント映画である[3][4]。
すべて製作は「マキノ映画製作所等持院撮影所」、配給は「マキノ映画製作所」、すべてサイレント映画である[3][4]。
特筆以外すべて製作は「東亜キネマ等持院撮影所」、配給は「東亜キネマ」、すべてサイレント映画である[3][4]。
すべて製作は「東亜キネマ甲陽撮影所」、配給は「東亜キネマ」、すべてサイレント映画である[3][4]。
特筆以外すべて製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、特筆以外すべてサイレント映画である[3][4]。
特筆以外すべて製作は「新興キネマ」および「新興キネマ京都撮影所」、配給は「新興キネマ」、特筆以外すべてサイレント映画である[3][4]。
特筆以外すべてトーキーである[3][4]。
特筆以外すべて製作は「大映京都撮影所」、配給は「映画配給社」(戦時中)あるいは「大映」(戦後)、以降すべてトーキーである[3][4][6]。