申(しん)は、周朝の諸侯国。爵位は伯爵あるいは侯爵。国君は姜姓[3]。申国は謝の故地に建国されたため、謝とも言う。西周を滅ぼした申侯の乱を主導した。春秋時代初期に楚の文王により呑併され、その地に楚の県が置かれた。ただし、楚の共王~郟敖の治政に、楚の小国に対する懐柔策として、申県とは別に申国が復国された[4]。
歴史
受封
周の宣王の命により、召の穆公が古謝を滅ぼした。楚や南方の諸侯の監視のために宣王の母の兄弟の申伯を古謝の跡地に封じた。これが申(または謝)の創始であった[5]。
申侯の乱
周の幽王時代、申侯の娘の申后が王后であった。しかし、幽王は褒姒を寵愛した。遂には申后と太子の宜臼を廃し、褒姒を王后、その子の伯服(中国語版)を太子とした。このことに申侯は震怒した。紀元前771年、申侯は繒(中国語版)と犬戎で反乱を起こした。幽王は驪山で殺された。申侯は魯の孝公や許の文公らと共に申国内で太子の宜臼を即位させた(平王)[6][7]。
領域
申国は陳と鄭の南にある[8]。『漢書』「地理志」によると申の都城は南陽郡宛県(現在の河南省南陽市宛城区)一帯の冥厄関(現在の湖北省随州市広水市と河南省信陽市溮河区の境界)の北、淮水(淮河)の南とある[9]。
そのほか、学説には、西周~戦国期に南陽とは別に信陽にも存在したとする説、もとは南陽にあったが楚に滅ぼされた後に信陽に遷ったという説もある。しかし、信陽に申があったとする文献資料は唐代にまで現れないと指摘されている。[4]
歴代君主
脚注
- ^ 『詩経』「大雅・嵩高」、『漢書詩経』「地理志」南陽郡、『路史』「国名紀」等載申国伯爵;『史記』「秦本紀」、『今本竹書紀年』等載申国侯爵
- ^ (中国語) 《春秋大事表列国爵姓及存滅表撰異》. 上海古籍出版社. p. 265頁
- ^ 宋衷 注,秦嘉謨等 輯,『世本八種』:「許・州・向・申、姜姓也,炎帝後」
- ^ a b 海老根, 量介 (2016). “春秋中~後期の申の復国問題について”. 史学雑誌 125 (1): 1-38. https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/125/1/125_1/_article/-char/ja/.
- ^ 『詩経』「大雅・嵩高」:「王命召伯,定申伯之宅……式是南邦,因是謝人,以作爾庸」
- ^ 『史記』「周本紀」:「(幽王)廢申后,去太子也。申侯怒,与繒・西夷犬戎攻幽王。幽王挙烽火徴兵,兵莫至。遂殺幽王驪山下,虜褒姒,尽取周賂而去」
- ^ 『竹書紀年』:「幽王八年,立褒姒之子伯服為太子」「太子与幽王倶死于戯。先是,申侯・魯侯及許文公立平王于申,以本太子故称天王。幽王既死,而虢公翰又立王子余臣于携,周二王並立」
- ^ 鄭玄『詩箋』:「平王母家申国,在陳・鄭之南,迫近彊楚」
- ^ 『漢書』「地理志」:「申在南陽宛県,申伯之国,呂太公所封……」「申之疆域,在冥厄之北,淮水之南」
- ^ a b 呉鎮鋒:《金文人名匯編》,中華書局2006年8月第1版,第89頁。