共(きょう)は、殷及び周の諸侯国。殷代の共は現在の甘粛省平涼市涇川県にあり、周の文王により滅亡した。周代の共は現在の河南省新郷市輝県市の北西である。『世本』氏族篇には「共氏、国名、周有共伯和」、『漢書』古今人表の顔師古注には「共、国名也」とある。
西周後期の紀元前841年、国人の乱(中国語版)が発生した。周の厲王は彘(現在の山西省臨汾市霍州市)に逃奔した。周の人は共伯和(中国語版)を首領に推した。共和14年(紀元前828年)、厲王が彘で死んだ。政治の実権は王子静(宣王)に移り、共伯和は共に帰国した[1]。
春秋時代初期の紀元前722年、鄭で内乱が発生し、荘公の弟の共叔段は共に逃避した。紀元前660年、衛により滅亡した[2]。
歴代君主
脚注
- ^ 『史記正義』引『魯連子』:「衛州共城県本周共伯之国也。共伯名和,好行仁義,諸侯賢之。周厲王無道,国人作難,王奔于彘,諸侯奉和以行天子事,号曰『共和』元年。十四年,厲王死于彘,共伯使諸侯奉王子静為宣王,而共伯復帰国于衛也。」
- ^ 『左伝』閔公二年:「益之以共・滕之民。」杜預注:「共及滕,衛別邑。」