獲得メダル
男子 レスリング
全国高校生グレコローマン選手権
銅
1987
68kg級
東日本学生春季新人戦 フリースタイルの部
金
1989
68kg級
桜庭和志 YouTube チャンネル
活動期間
2020年 - ジャンル
エンターテイメント 登録者数
1.33万人 総再生回数
1,171,800回 チャンネル登録者数・総再生回数は000000002024-01-06-0000 2024年1月6日 時点。 テンプレートを表示
桜庭和志と美木航の39ちゃんね YouTube チャンネル
活動期間
2015年 - ジャンル
エンターテイメント 登録者数
1.08万人 総再生回数
772,999回 チャンネル登録者数・総再生回数は000000002024-01-06-0000 2024年1月6日 時点。 テンプレートを表示
桜庭 和志 (さくらば かずし、1969年 7月14日 - )は、日本 の男性 プロレスラー 、総合格闘家 、日本ブラジリアン柔術連盟 スペシャルアドバイザー[ 1] 。ハイタイド 所属。秋田県 南秋田郡 昭和町 (のちの潟上市 )出身。
1997年にUFC Japan のヘビー級トーナメントで優勝。1998年以降、PRIDE などで総合格闘家として活躍し、2012年にプロレスラーに転向。2017年に日本人 として初のUFC殿堂 入り。2018年に寝技格闘技イベントQUINTET を創設し、同イベントの運営会社「ラバーランド」の代表 を務めている。
来歴
小学生のころにタイガーマスク に憧れ、レスリングの名門秋田市立秋田商業高等学校 のレスリング部に入部、1987年の学校対抗戦 では5番手の70kg級で活躍し全国高校選抜 3位、高校総体 準優勝 [ 2] 、個人では全国高校生グレコ選手権 で3位入賞の実績を残す[ 3] 。中央大学 レスリング部では主将を務めた。卒業後はスポーツクラブのインストラクター に就職が内定していたが、留年したため内定を辞退。留年した二度目の4年生のときにUWFインターナショナルに入門し大学を中退した。
UWFインターナショナル
1992年 7月にUWFインターナショナル へ入門した。当初桜庭はプロフェッショナルレスリング藤原組 の入団試験を受けるつもりだったという。UWFインターではレスリング技術に加えて、打撃と関節技を習得する。1993年 8月13日の日本武道館大会でスティーブ・ネルソン を相手にプロデビューする[ 4] 、Uインター在籍中はキックボクサーのレネ・ローゼ 、UFCファイターのキモ らとも対戦した[ 5] 。95年には新日本プロレスとの対抗戦に度々出場。金原弘光 と組んで永田裕志 、石澤常光 とのタッグマッチも経験している。この試合は、4人が卓越したレスリングの技術を駆使したことで完成度は高く、以降「伝説の第一試合」と呼ばれている。またこの時期はサソリ固め を得意技にしており、さらに技を掛ける時は大声を出して気合を入れるなど、総合格闘技時代の冷静な試合運びとは対照的な戦い方をしていた。一夜限りのプロレス復帰を果たした2000年 12月31日のINOKI BOM-BA-YE 2000 でも技をかける際に大声を出している。K-1 のリングで行われたパトリック・スミス 戦から半年ぶりにUWFインターのリング復帰となった田村潔司 の刺客として前座で3連戦を行った[ 6] 。Uインターは1996年 12月に解散している。
キングダム
Uインター所属選手のほとんどが参加した新団体キングダム へ移籍。キングダムはオープンフィンガーグローブ を着用した顔面殴打ありのルールを採用した団体で、桜庭にとってはUWFルールからPRIDEルールへの橋渡しとなった。所属選手の他、UFC に出場経験があるキックボクサーの強豪、オーランド・ウィット[ 7] 、モティ・ホレンスタイン[ 8] らと試合を行っている。1997年 12月21日、怪我で欠場した先輩の金原弘光 の代役として急遽、UFC Japan ヘビー級トーナメントに出場。カーウソン・グレイシー 柔術黒帯の強豪、マーカス・コナンに腕ひしぎ十字固めで一本勝ちし、UFC-J王者となった。このとき「プロレスラーは本当は強いんです」と発言し、認知度が上がる切っ掛けとなった。なお、このトーナメントは日本大会限定で行われたため、UFC の正式な王者となったわけではない。
PRIDE
グレイシー一族撃破
1998年 に高田延彦 主宰の髙田道場 へ移籍。PRIDE.2 のヴァーノン・"タイガー"・ホワイト 戦でPRIDEデビューした。
1999年 4月29日のPRIDE.5 では前年にヴァンダレイ・シウバ をKOしたばかりのビクトー・ベウフォート に判定勝利。PRIDE参戦後はアラン・ゴエス 戦(PRIDE.4 )での引き分けを挟んで、ヴァーノン・ホワイト(PRIDE.2)、カーロス・ニュートン (PRIDE.3 )、ビクトー・ベウフォート(PRIDE.5 )、エベンゼール・フォンテス・ブラガ (PRIDE.6 )、アンソニー・マシアス(PRIDE.7 )に5連勝を飾り、ミドル級のトップコンテンダーに登りつめた。11月21日のPRIDE.8 ではメインイベントに登場し、当時不敗神話を誇っていたグレイシー一族 の一人、ホイラー・グレイシー との対戦。1Rから15 kgの体重差を生かしてホイラーのタックルを切り続け上になった桜庭は猪木アリ状態 からのローキック でダメージを与えていく。2Rも優勢は変わらず、引き込んだホイラーにハーフガード からチキンウィングアームロック を極めた。ホイラーはタップせず、セコンドのヒクソン・グレイシー もタオルを投げなかったため、島田裕二 が試合をストップした。ホイラー陣営は猛抗議するものの裁定は覆らず、桜庭はマイクアピールで「あそこからどうやって逃げたのか知りたいです。次はお兄さん僕と勝負してください」とヒクソンに対戦を要求した。
2000年 1月、「PRIDE GP 2000」に出場。ガイ・メッツァー の試合放棄という幕切れで1回戦 を突破すると、5月の決勝大会 ではホイス・グレイシー との対戦が決定した。ホイラー戦での裁定に不満を持つホイスはルール変更を要求[ 9] 、桜庭も受諾し、15分無制限ラウンド・レフェリーストップおよび判定無しで行われることになった。試合は1時間を超す長丁場となったが、桜庭はホイスの道衣を脱がせようとするなどして翻弄。桜庭がホイスの左足にローキックを蹴り続けたダメージで7R開始直前にホリオン・グレイシー がタオルを投入し、桜庭の勝利で実に90分に及ぶ死闘に終止符が打たれた。その後準決勝に進出するものの消耗が激しく、イゴール・ボブチャンチン 戦では中盤から劣勢を強いられた。1R終了後の判定ではドローとなったものの、桜庭陣営がレフェリーにタオルを投入し、TKO負けとなった。8月27日、PRIDE.10 でヘンゾ・グレイシー と対戦、バックを捕られるもアームロックでヘンゾの左腕を脱臼させTKO勝ち。12月23日のハイアン・グレイシー 戦ではハイアンが直前に怪我した為、試合時間が10分1Rに変更された。試合は桜庭が終始優位に立って判定勝ちを収めた。ホイラー、ホイス、ヘンゾ、ハイアンらグレイシー一族相手に4連勝を果たした。また、ただ勝利するだけでなくファンを喜ばせるために戦うというファイトスタイルが高く評価された。桜庭の活躍と共にPRIDEは大きく成長を遂げ、2000年の桜庭はPRIDEのエースとして全盛期を迎えていたといえる。同年はプロレス大賞・敢闘賞を受賞した。
ヴァンダレイ・シウバとの闘い - PRIDE離脱
2001年 3月25日、PRIDE.13 でヴァンダレイ・シウバ と初対戦し、この大会から解禁されたサッカーボールキック でTKO負け。再起戦となったPRIDE.15 では初参戦のクイントン・"ランペイジ"・ジャクソン と対戦、ジャクソンのパワーに苦戦するも、最後はスリーパーホールド で一本勝ちを収めた。11月3日、PRIDE.17 でPRIDEミドル級王座が新設され、同時にPRIDEミドル級の設定が93 kgとルールに追加された[ 10] 。当時の桜庭の通常体重は85 kg前後で、桜庭が希望していたミドル級は90 kg以下だったが、以後のPRIDEで、桜庭はこの条件で戦っていくことになった[ 11] 。PRIDE.17ではミドル級王座を賭けてヴァンダレイ・シウバと再戦するが、シウバの投げでマットに叩きつけられた際に左肩を脱臼しTKO負けで王座獲得に失敗した。
2002年 8月28日にはDynamite! のメインイベントでミルコ・クロコップ と対戦、下からの蹴り上げで眼窩底骨折に追い込まれ、ドクターストップによるTKO負けを喫した。総合格闘技でのキャリア初の連敗となった。その後も膝と肩に慢性的な故障を抱え、出場が不安定な時期が続く。ホイスを破った2000年からこの時期にかけては、後述のローカルのミニ番組ながら冠番組の『39 LOVER'S』を持ち、『情熱大陸 』[ 12] や『トップランナー』[ 13] 、CMにも出演し、国税庁 発表の高額納税者公示制度 では2001年度に納税額2638万円、推定年収7755万円に。2002年度にも納税額1014万円で、推定年収3336万円でランクインした[ 14] 。11月24日、PRIDE.23 で左足腱断裂、右目眼窩 底骨折が完治しないまま強行出場。ジル・アーセンに勝利した。
2003年 3月16日、肩と膝の負傷を乗り越え完全復帰。PRIDE.25 で、ニーノ・シェンブリ と対戦。激しい打撃でシェンブリの顔面に裂傷を起こしたが、1R膝蹴りでTKO負けを喫した。8月10日、ミドル級グランプリ に出場、シウバと3度目の対戦が行われた。この試合は桜庭が大幅に体重を増量させて挑んだ一戦であった。試合はスタンドで打ち合う展開が続くが、1R5分、桜庭のローキックにシウバのカウンターの右フックを打ち込まれて失神KO負け、対シウバ戦3連敗となった。12月31日、PRIDE SPECIAL 男祭り 2003 のメインイベントでアントニオ・ホジェリオ・ノゲイラ と対戦した。負傷中の身ながら時間切れまで追い込んだが、判定負けを喫した。開催前には、UWFインターナショナル時代の先輩である田村潔司との対戦オファーがあるも、田村が準備期間の短さを理由に拒否したため実現しなかった。
2004年 6月20日、PRIDE GRANDPRIX 2004 2nd ROUND におけるワンマッチに2004年唯一の出場。ニーノ・シェンブリ と再戦し3-0で判定勝ち。12月31日のPRIDE 男祭り 2004 ではヴァンダレイ・シウバとの4回目の試合が予定されていたが、膝と肩の状態が悪く欠場した。
2005年 2月20日のPRIDE.29 で、アリエフ・マックモドと対戦し、精彩を欠いた勝利に終わった田村潔司に対し、リングサイドから「こんな試合じゃつまらないでしょう。田村さん、僕と勝負してください」とマイクアピールをしたこともあったが、田村は無言でうつむいたままリングから去っていくなど、対戦を何度か申し込むもなかなか実現には至らず[ 15] 。ミドル級グランプリに出場し、1回戦 ではユン・ドンシク を1R26秒で破り、2回戦 ではヒカルド・アローナ と対戦。パワーと体重差の影響もあり劣勢に追い込まれ、アローナの膝蹴りの連打により流血、2R終了時には顔面が大きく変形する程のダメージを負った。自力で起き上がることもできず、タオルが投入された[ 16] 。試合後病院に搬送された。この試合を契機に主戦場としていた「ミドル級(-93 kg)」は桜庭の適正体重に比べて重すぎるので「ウェルター級(-83 kg)」に転向すればいいのではないのか、というファンや関係者からの声があがった[ 17] 。だが桜庭は「ミドル級より軽い階級には興味はない」と語っていた。8月、ブラジルに渡航しシュートボクセアカデミー で40日間に渡り出稽古を行う[ 18] 。PRIDE.30 においてケン・シャムロック をシュートボクセ仕込みの打撃でTKOした際は、CBA会長のフジマール・フェデリコ と抱きあって共に勝利を喜んでいる。12月31日、PRIDE 男祭り 2005 で美濃輪育久 と対戦し、アームロックでTKO勝ち。この試合が最後のPRIDE 出場となった。
2006年 、株式会社39を設立[ 19] 。3月31日、8年2か月所属した髙田道場 を契約満了により退団。フリーランスとなり、高田道場時代の後輩の豊永稔 、高橋渉、佐藤豪則 と行動を共にする。
HERO'S
5月3日のHERO'S において、前田日明 の呼び込みからタイガーマスク を被りリングに登場。翌日に会見し、正式にHERO'Sへの参戦を表明した。なお、HERO'Sへの移籍表明の後、高田延彦から「彼とはもう酒も食事もすることは無い」と絶縁された。高田は絶縁の理由として、移籍そのものが原因ではなく、前もってではなく、移籍表明の後に挨拶に現れた桜庭について「筋が通っていない」とし[ 20] 、同時にPRIDEとK-1が敵対していた関係上、PRIDE統括本部長の役職を務めていた自らがHERO'Sの選手と親しくすることは立場上出来ないこと[ 21] を説明した。HERO'Sではそれまで各ラウンドを5分で行っていたが、桜庭の要求に伴い、桜庭の階級である85 kg級のライトヘビー級だけがPRIDEと同じく1R目を10分という変則的な形のルール変更が行われた[ 22] 。8月5日に行われたケスタティス・スミルノヴァス 戦において顎を打ち抜かれ半失神状態にまで追い込まれたが、ケスタティスに執念の打撃を浴びせた後、腕ひしぎ十字固めで勝利した。試合中に桜庭は殴り倒されて意識が朦朧となるが、レフェリーはこの状態をダウンと取らず、ドントムーブから試合再開。この判断が物議を醸した。10月9日の準決勝で秋山成勲 との対戦が決定するも、9月25日の練習中に嘔吐し、検査の結果、脳には異常が無かったが、椎骨脳底動脈血流不全 と診断され欠場となった[ 23] 。12月31日、K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!! のメインイベントで改めて秋山成勲と対戦。秋山の打撃のラッシュを浴び、上からパウンド をもらい続け、1R5分37秒TKO負けとなった。しかし、桜庭は試合序盤タックルに行った際に秋山の足が滑ると感じ、レフェリー梅木良則 にタイムを要求したが受け入れられず、その後は秋山の打撃を一方的に浴び続けた。パウンドを浴び続けている間も桜庭はレフェリーに「滑る!」「反則だよ!」とアピールしたが受け入れられなかった。結局秋山のパウンドを受け続けている状態が危険と判断され、ゴングが鳴らされTKO負け(レフェリーのストップが先ではなく審判長によるストップ)となるも、桜庭は試合が止められた後も秋山を指さし、「すごい滑るよ!」などと怒りを露にした。数日後、秋山が試合前に全身にスキンクリーム(アメリカ製)を塗っていた事実が明らかにされ、この試合は秋山の反則行為によりノーコンテストとなった(詳細とその後は秋山成勲 の頁を参照)。
2007年 3月12日、HERO'S 2007 開幕戦 でユーリー・"PLAY BOY"・キセリオから一本勝ちをとった試合後のMCで大晦日の試合内容には一切触れず、ファンに対しての謝罪にとどまった。4月8日、PRIDE.34 のリング上にタイガーマスクの覆面姿で登場し、同時に田村もスーツ姿で登場した。この日がDSE代表として最後の興行となった榊原信行 の夢のカードであったという田村との対戦を示唆した。6月3日、Dynamite!! USA でホイス・グレイシー と再戦したものの、0-3の判定負けを喫しリベンジを許した。しかしホイスは薬物検査で陽性反応が出ている。8月28日のHERO'S記者会見において、7月16日の大会で現役復帰を表明していた船木誠勝 に「桜庭選手と試合をしてみたい」と対戦要求を受けた。9月頃に高橋渉、佐藤豪則らと自らのチーム「チーム桜畑」を結成。9月17日のHERO'Sで、「チーム桜畑」vs田村潔司のジム「U-FILE CAMP 」の対抗戦も行われ、自らは柴田勝頼 と対戦しテイクダウン を奪うとパウンドを連打、最後は腕ひしぎ十字固めで一本勝ちした。試合後、リング上で「次、船木さん試合お願いします」と船木の対戦要求に応え、更にリングサイドで観戦していたヒクソン・グレイシー に「お兄さん、そろそろ僕らも年なんで試合お願いします」と対戦を呼びかけた。12月31日、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!! のメインイベントで7年ぶりに復帰した船木誠勝 と対戦し、チキンウィングアームロックで一本勝ちを収める。
2008年 4月1日、東京都 品川区 に自身の総合格闘技ジム「Laughter7 」をオープン[ 24] (「桜畑道場」としての仮オープンは2007年12月3日)。
DREAM
4月29日、DREAM.2 のミドル級グランプリ1回戦でアンドリュース・ナカハラ と対戦し、フェイスロック で一本勝ち。6月15日、DREAM.4 の2回戦でメルヴィン・マヌーフ と対戦し、TKO負け。序盤のマヌーフのハイキックを受けた際に左腕尺骨 を骨折した。12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜 のメインイベントで田村と12年半ぶりに対戦し、判定負けを喫した。ちなみに桜庭はこの時の入場では、仮面ライダーをモチーフとした演出がされた。
2009年 10月6日、DREAM.11 で現役プロボクサーのルビン"Mr.ハリウッド"ウィリアムズと対戦し、アームロック で一本勝ち。大会3日前の10月3日に出場が発表されるという緊急出場となった[ 25] 。10月25日、DREAM初のケージ開催となったDREAM.12 に連続参戦、ゼルグ・"弁慶"・ガレシック と対戦し膝十字固め で一本勝ちを収めた。12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜 の開会式に桜庭はエヴァンゲリオン初号機 仕様のマスクを被って登場し、開会宣言を行った[ 26] 。この日に向けて三崎和雄 戦も検討されていたが「試合ができるコンディションではない」として欠場した[ 27] 。2008年まで4年連続で大晦日興行のメインイベンターを務めていたが、試合への出場はなかった。
2010年 5月29日、オクタゴンケージでの開催となったDREAM.14 でハレック・グレイシー と対戦し、0-3の判定負け。9月25日、DREAM.16 でジェイソン・"メイヘム"・ミラー と対戦し、1R序盤にパウンドからの肩固めで一本負け。生涯初の一本負けとなった[ 28] 。12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜 でDREAMウェルター級王者マリウス・ザロムスキー に挑戦し、右耳の裂傷によりドクターストップ負けとなり王座獲得に失敗した。試合後、桜庭は応急処置を受けたのちにリング上で「すいません、耳がとれちゃいました」とコメントした[ 29] 。なお、階級をウェルター級に落としたためプロ初の大幅減量となった[ 30] 。
2011年 9月24日、DREAM.17 でヤン・カブラルと対戦し敗れる。12月31日、元気ですか!! 大晦日!! 2011 に参戦、柴田とタッグ を組んでIGF ルールで澤田敦士 、鈴川真一 組と対戦し、11年ぶりにプロレス復帰。
経営危機が伝えられていたK-1とDREAMを主催していたFEGが2012年 5月に破産[ 31] 。FEGは選手に総額約2億円のファイトマネー未払いを抱え[ 32] 、選手代理人のシュウ・ヒラタによれば、2011年10月時点でFEGと選手契約していた桜庭のファイトマネーは2年以上未払いだった[ 33] 。それにも関わらず桜庭は支払いを要求することがなかったといい[ 34] 、そればかりか同年にFEG社長だった谷川貞治 がスタートした「Tany's Labo」のロゴデザインを手掛けている[ 35] 。
新日本プロレス
2013年
8月12日、桜庭は新日本プロレス 主催の真夏の祭典「G1 CLIMAX 」最終戦となる両国国技館 大会に柴田と共に登場し、新日本に参戦することを表明した。9月23日、DESTRUCTION において、桜庭は柴田をパートナーに井上亘 & 高橋広夢 組と対戦。以降、柴田と共に新日本のビッグマッチにのみスポット参戦している。11月11日、POWER STRUGGLE の第8試合に行われたIWGPインターコンチネンタル選手権試合 、中邑真輔 vs カール・アンダーソン の試合後、勝利を収めた中邑が次の挑戦者として桜庭を指名し、桜庭もこれを受諾した。総合格闘技ジム「Laughter7」を11月末にオープンから4年半で閉鎖[ 36] 。FEGの倒産がなければ続けられたと桜庭は語っている[ 37] 。
2013年 1月4日、レッスルキングダム7 ~EVOLUTION~ IN 東京ドーム のダブルメインイベントに登場、中邑の保持するIWGPインターコンチネンタル王座 に挑戦したが敗北を喫した。3月17日、柴田とのタッグで永田裕志 & 中西学 組と対戦し、久々に永田と相対する。試合は桜庭が中西を三角締めでギブアップ勝ちを収めた。4月7日、INVASION ATTACK にて、再び永田とタッグマッチで対戦したが、レフェリーストップ負け。さらに試合中に永田の放ったバックドロップ の受け身に失敗し、「右肘関節脱臼」と診断され欠場となった。7月20日、桜庭の地元である秋田市立体育館 で復帰戦を行い、永田と初のシングルマッチで対戦、腕ひしぎ逆十字固めで永田からギブアップを奪った。10月14日、KING OF PRO-WRESTLING で再び永田とシングルで対戦したが、永田のバックドロップホールドで敗北を喫した。試合後永田は翌年東京ドーム 大会に参戦するグレイシー一族 のダニエル・グレイシー & ホーレス・グレイシー の挑戦を受けることを宣言し、桜庭もこの永田のアピールに乗っかりタッグを結成した。11月9日、POWER STRUGGLE にて、CHAOS の矢野通 & 飯塚高史 組を相手に快勝を収めた。
2014年 1月4日、桜庭はレッスルキングダム8 IN 東京ドーム において、永田とのタッグでダニエル & ホーレス組と対戦したが、ダニエルが反則負けを喫し不透明決着となった。2月11日、THE NEW BEGINNING in OSAKA にて、再びグレイシー一族と相対するも道着を使用してのチョーク攻撃をホーレスに極められギブアップ負けを喫した。4月6日 両国大会でダニエル・グレイシー が中邑の保持するインターコンチネンタル王座に挑戦表明した際、桜庭もリングに上がり「僕もこいつらに借りがあるので」という理由で中邑とタッグを組むことを表明、中邑もこれを受諾した。5月3日 レスリングどんたくにおいて中邑とタッグを組みホーレス、ダニエル組と対戦したものの、ホーレスの胴着によるチョーク攻撃により2度目のタップ負けを喫した。5月25日 BACK TO THE YOKOHAMA ARENAにてホーレスグレイシーとシングルで対戦、試合中盤に桜庭は胴着を脱ぎ捨てさらにはジャーマンスープレックスなどのプロレス技を出し、サクラバロックでホーレスを捕獲、ホーレスはタップせずレフリーストップにより桜庭が勝利した。6月8日、矢野・邪道組 vs 鈴木みのる ・飯塚組の試合後に、乱入し敗れた矢野・邪道組を救出しタッグを結成した(この時、矢野は桜庭に新作のDVDの出演を条件に出して、桜庭が考えとくという答えだったため組んだ)。それ以降、桜庭はCHAOSと共闘している。6月21日、矢野とのタッグで鈴木・飯塚組と対戦したが、矢野が鈴木のゴッチ式パイルドライバーに沈み敗北した。なお、試合後は桜庭も鈴木のゴッチ式パイルドライバーを食らった。11月8日、キドクラッチ で鈴木から勝利したが試合後、鈴木が桜庭に「おい、これがオマエのやりたかったプロレスなのか、これがオマエのUWFかって聞いてんだよ!オマエのUWFにはカウント3があんのかよ!?おい!!どうなんだよ!!テメー、よえぇクセによ、コノヤロー!」と丸め込みによる勝利に喜ぶ桜庭に怒り、シングルマッチで3カウントなしの試合を要求した。さらに鈴木は、「そろそろよ、オマエ、オレと決着つけろ!パートナーなんかいらねぇんだよ!3カウントもいらねぇんだよ!オマエ、オレと勝負しろよ。やれんのか!ムリなのか、どっちだ!!テメーのプロレス出してみろオラ!!」などとまくしたて、桜庭に対し完全決着戦を突きつけた。
2015年 1月4日、桜庭はレッスルキングダム9 IN 東京ドーム において3カウント・リングアウト勝ちなし、ギブアップ・レフェリーストップのみで勝負を決める完全決着ルールで鈴木と対決するも、レフェリーストップで鈴木に敗れ試合後に握手を求め、鈴木はこれに応じて2人で何か話したがその内容は不明である。4月5日、矢野通 と組み棚橋弘至 &柴田組と対決し、サクラバロックで柴田からギブアップを奪った。7月5日大阪城ホール 大会で柴田との師弟対決を行うも敗れた。
2016年 7月3日の岩手産業文化センターアピオ大会に出場後、新日本プロレスから離れている。
RIZIN
2015年12月29日、RIZIN FIGHTING WORLD GRAND-PRIX 2015 さいたま3DAYS で青木真也 と対戦し、タオル投入によりTKO負け。
2016年4月17日、RIZIN.1 で所英男 とタッグを組みヴァンダレイ・シウバ &田村潔司 組と「グラップリングダブルバウト」で対戦し、15分時間切れによるドロー。11月13日、韓国にて旗揚げする総合格闘技イベント「Apec FC」に、グラップリング及び柔術部門のアドバイザーに就任した。対戦経験のあるユン・ドンシクの依頼を受け、参加した。
2017年 6月、UFC 212 の大会中にアジア人として初のUFC 殿堂入りがUFCより発表された。パイオニア部門の受賞[ 38] [ 39] 。7月6日にラスベガスで開催された殿堂入り式典には紋付き袴で登場、プレゼンターはドン・フライ が務めた[ 40] [ 41] 。
QUINTET
2018年 2月1日、桜庭は記者発表を行い、寝技の魅力と団体勝ち抜き戦 の面白さ、「小さい者が大きい者を倒す」という格闘技の醍醐味を観客と選手に楽しんでもらうコンセプトのグラップリング 大会を立ち上げる。日本ブラジリアン柔術連盟 の協力も得て、2018年4月11日、両国国技館 でプロデューサー兼選手としてQUINTET.1を開催し出場した。大会はラスベガス でも開催され、世界中の寝技の強豪やMMAファイターがグラップリングマッチを行い、見事なテクニックを披露している。
プロレスリング・ノア
2023.01.22 Noah横浜アリーナ 桜庭和志選手
2019年 9月16日、プロレスリング・ノア に、杉浦貴 率いる杉浦軍のメンバーとして初参戦。NOSAWA論外 、大原はじめ と組み小川良成 、鈴木鼓太郎 、クリス・リッジウェイ と対戦し、サクラバロックでクリスからタップを奪った。その後もビッグマッチ中心に参戦。12月27日の杉浦軍興行では杉浦と組み、藤田和之 、鈴木秀樹 と対戦するも試合途中で拳王 率いる反体制ユニット金剛の乱入に会い、ノーコンテストとなった。その後、杉浦、藤田、鈴木組と拳王、マサ北宮 、稲村愛輝 組による試合が急遽組まれ、杉浦組が勝利した。
2020年 8月30日には杉浦とのタッグでGHCタッグ王座 を戴冠[ 42] 。プロレスキャリア初のタイトル戴冠となった。
2021年 6月6日に開催されたCyberFight Festival 2021 において、杉浦とタッグを組み、男色ディーノ 、スーパー・ササダンゴ・マシン との異色の対戦が実現している。同年にはN-1 VICTORY に参戦。1勝1敗1分で決勝トーナメント進出とはならなかった[ 43] 。
その他
2024年6月22日「ブラッドスポーツ 武士道 」に参戦、サンティーノ・マレラ と対戦した。桜庭がマレラにコブラを繰り出すもスルーされてしまった、結果アキレス腱固めを極め勝利[ 44] 。7月28日に超RIZIN.3 に息子の大世 と共に登場し、大世のRIZIN参戦を発表した[ 45] [ 46] 。
人物・エピソード
イメージカラーはオレンジ。UWFインターナショナルとキングダムで先輩だった垣原賢人 からたまたま借りたオレンジ色のコスチュームが似合っていたため、以後はスパッツ などでオレンジ色を愛用している[ 47] 。自身のジムのLaughter7のリングもオレンジ色のマットを使用している[ 24] 。
入場の際は観客席にマスクを投げ入れる。
親友であるプロ野球選手 (2013年引退)の下柳剛 とは、プロ野球のオフシーズンには自主トレーニングに桜庭が同行するなど多方面で交流があった[ 48] 。下柳が桜庭のセコンドに付くことも多かった[ 49] 。
喫煙者 でもある[ 50] 。
天田ヒロミ は中央大学の後輩にあたる。
故郷に里帰りした際、母親が自分の試合を観た経験が無いことが判明した。桜庭は「自分の息子の仕事くらい憶えといてよ」と苦笑交じりに駄目出ししていた。
あるアーティストの音楽に嵌るとそればかり聴き続けるという傾向がある。しかし何か特定の音楽ジャンルが好きというわけではなく、BOØWY 、その前は石原裕次郎 、さらにその前はデッド・オア・アライヴ (バンド) と多岐にわたっている。
海外遠征の際にDVDに録画して持って行くほど、タモリ倶楽部 「空耳アワー 」の愛好者。
生前のジャンボ鶴田 とは所属団体こそ違ったものの中央大学 レスリング部の先輩として、またアマレス界の大物からのプロレス入りした先駆者として、親交があったと著書に記している。
総合格闘技での入場の際、試合のコンセプトに合わせたコスプレをしたり、プロレス関連の小ネタを仕込むのが定番。
2019年11月30日、秋田県スポーツ大使に任命された。任命式はクインテットの大会に先立って行われ、秋田県知事から任命証と大使名刺を受取った。[ 51] [ 52] [ 映像 1]
戦績
プロ総合格闘技
総合格闘技 戦績
46 試合
(T)KO
一本
判定
その他
引き分け
無効試合
26 勝
4
19
3
0
1
2
17 敗
10
3
4
0
グラップリング
勝敗
対戦相手
試合結果
大会名
開催年月日
△
ギルバート・バーンズ
8分終了 時間切れ
QUINTET ULTRA 【1回戦】 TEAM UFC vs TEAM PRIDE
2019年12月12日
○
五味隆典
5分終了 判定 2-1
QUINTET FIGHT NIGHT4 in AKITA 秋田ねわざ祭 2019
2019年11月30日
△
ユライア・フェイバー
8分終了 時間切れ
QUINTET.3 【1回戦】 TEAM Alpha Male vs TEAM SAKURABA
2018年10月5日
×
リッチー・マルティネス
5:24 ギロチンチョーク
QUINTET.2 【決勝戦】 TEAM Reebok vs TEAM 10th Planet
2018年7月16日
△
ダン・ストラウス
8分終了 時間切れ
QUINTET.1 【決勝戦】 HALEO DREAM TEAM vs POLARIS DREAM TEAM
2018年4月11日
△
出花崇太郎
8分終了 時間切れ
QUINTET.1 【1回戦】 HALEO DREAM TEAM vs JUDO DREAM TEAM
2018年4月11日
△
フランク・シャムロック
10分終了 時間切れ
RIZINバンタム級トーナメント&女子スーパーアトム級トーナメント 1st ROUND -秋の陣-
2017年10月15日
△
ヘンゾ・グレイシー
20分終了 時間切れ
Metamoris 5
2014年11月23日
グラップリングタッグマッチ
キングダム
勝敗
対戦相手
試合結果
大会名
開催年月日
○
ポール・ヘレラ
1:18 足首固め
AMBITION
1997年12月14日
×
金原弘光
7:18 KO
BARTH TOUR'97
1997年12月8日
○
金原弘光
11:41 腕ひしぎ逆十字固め
BARTH TOUR'97
1997年12月2日
○
山本健一
5:52 アームロック
BARTH TOUR'97
1997年11月19日
×
安生洋二
8:55 足首固め
BARTH TOUR'97
1997年11月15日
○
グレッグ・ダグラス
1:18 足首固め
新世界 NEW WORLD
1997年11月3日
○
山本健一
7:18 腕ひしぎ逆十字固め
BARTH TOUR'97 ワンナイト・トーナメント 決勝戦
1997年9月20日
○
金原弘光
4:15 TKO勝ち
BARTH TOUR'97 ワンナイト・トーナメント 2回戦
1997年9月20日
○
松井駿介
2:14 チョークスリーパー
BARTH TOUR'97 ワンナイト・トーナメント 1回戦
1997年9月20日
○
モティ・ホレンスタイン
11:18 腕ひしぎ逆十字固め
PRELUDE FOR THE WORLD
1997年9月3日
×
佐野友飛
5:27 足首固め
BARTH TOUR'97 ワンナイト・トーナメント 2回戦
1997年8月22日
○
安生洋二
2:11 腕ひしぎ逆十字固め
BARTH TOUR'97 ワンナイト・トーナメント 1回戦
1997年8月22日
○
オーランド・ウィット
6:01 スリーパーホールド
BARTH Step3
1997年7月29日
×
安生洋二
11:17 ヒザ十字固め
BARTH Step2
1997年6月20日
○
佐野友飛
7:53 アンクルホールド
BARTH Step1
1997年5月4日
タイトル歴
表彰
秋山成勲のオイル塗布問題
2006年12月31日 に行われた秋山成勲戦にて、タックルで足を取った際に異常を感じ、秋山への金的攻撃で試合が止まった際にレフェリーへ「滑るんですけど」とのアピールや、格闘技では異例の「タイム」要求をするも試合は止まらず、パウンドの雨を浴びる中も「滑るって!!」「ふざけんなよ!!」など、猛抗議。しかし再三に渡る抗議も虚しく試合はTKO負け(試合を止めたのは主審 の梅木良則 ではなく平直行 審判長と前田日明 の判断によるゴングでのストップ)試合が終わったあとにようやくチェックが行われるものの、肝心の足へのチェックではなく、肩を少し撫でる程度で終えており、また、秋山自身はチェックの前にTシャツを着ているセコンド に擦り付けるように抱き合っており、裁定は覆らなかった。試合後も桜庭は怒りは収まらず、舞台裏では「思いっきり抗議しますよ僕は!!」「信じられんわ!!」などと怒りをあらわにした。この試合について秋山は翌日の記者会見で「自分はひどい多汗症 で、ウォームアップをすると握った手から汗が滴り落ちるほど汗が出る」と弁明。桜庭のタイム要求についても「試合中に対戦相手からタイムを要求されて「よしわかった」と攻撃を止める選手はいない」とコメント。また、試合出場時にはリングへの入場前に必ずボディチェックがされるが、この時はスタッフがイベントの流れをスムーズにさせるよう指示していたり、本人が道着 を着て走って入場していたため、殆どチェックしていないことがのちに明らかとなった。
桜庭本人が自著『ぼく…』にて試合後の経緯を語っており、「グローブ から常夏の甘い匂いがする」とサブレフェリーやスタッフへ嗅いでもらうよう促したが一人を除いた全員が「鼻が悪い」「タバコ のにおいしかしない」と発言し、ただ一人の例外の人間も「誰にも言わないでください」と前置きしたうえで「甘い香りがする」と発言したため、桜庭は「味方は誰一人としていないんだと実感した」と語った。この試合についてはホイス・グレイシーも怒りを露わにし、セコンドにいた阪神タイガース 投手の下柳剛 も桜庭へ賛同する。そのあと、秋山が試合前にスキンクリーム (ワセリン やグリセリン が含まれている)を塗っている様子を撮影していたテープ があり、これが証拠となって2007年1月11日、都内ホテルにて主催者による会見が行われた。秋山はクリームについては「乾燥肌 だったから塗っていた。反則だという認識はなかった」と発言しており、FEGも「カメラの前で堂々と塗っているので悪意はなく過失である」と判断。
しかし、HERO'Sルールでは試合前にはいかなるものも体に塗布してはならないと定めているため、試合は無効試合とされ、秋山のファイトマネー は全額没収となり、FEGが主催する大会への無期限出場停止処分が下される。この試合のレフェリーである梅木良則と、ほかの審判団も処分を受けることとなった。
秋山は桜庭に対して「桜庭さんの目を見て謝りたい。そして機会があったらもう一度笑って試合をしたい」と発言したが[ 54] 、桜庭は後に「彼は万引き おばちゃんと一緒でしょ? その場だけ謝って終わり。だから謝らなくていい。二度と会いたくない」と語っている。
得意技
基本的にはU系の関節技がメインだが、近年では従来のプロレス技やタッグでの連携技が主となっている。
腕ひしぎ十字固め
キムラロック(サクラバロック)
グラウンド状態で相手前方から片腕をチキンウィングアームロックに取り、首に足をかけて支点を作り絞り上げる関節技。
ゆりかもめ
グラウンド状態で掛ける複合関節技。かけた後、自ら身体をゆりかごのように揺らすことで更なるダメージを与えることから命名。
はずかし固め
正式名称は「レッグスプレッド(股裂き)」。相手は股を大きく開いて非常に恥ずかしい体勢になる。実はオリジナルはヴォルク・ハン で単なるパフォーマンスでなく、股裂きとして立派に効果がある。女子プロレスの同名技とは別もの。
モンゴリアンチョップ
幸せチョップ
ダブルチョップ。両手のシワとシワを合わせて幸せ。
炎のコマ
相手の片足を掴んでグルグル回ることによって相手の背中に摩擦によるダメージを与える。
サクラバードキック
猪木アリ状態 で寝ている相手を飛び越え両足でのストンピング。
サソリ固め
合体技
ダブルインパクト
杉浦との合体技であるが、初公開は武藤とのタッグである。
決めポーズ
NOAHでは、同じ大学の先輩である、ジャンボ鶴田 のオー‼を乱用している。
メディア出演
コマーシャル
映画
吹き替え
テレビ
「39 LOVER'S 」(さくらばーず)(東海テレビ )
格闘技の選手としては異例の、レギュラーの冠番組 。2001年1月9日 - 3月27日(全12回)、毎週火曜21:54 - 22:00。提供はスクウェア 。団体ではなく、格闘技の選手個人のみにスポットを当てた中京広域圏 ローカルのミニ番組 。
プロフィール、得意技、人柄など「桜庭和志とは一体何者なのか?」という、云わば「桜庭和志徹底解剖」といった趣の内容であった。
テレビドラマ
パチスロ
著書
ビデオ
『PRIDE GP2000桜庭和志☓ホイス・グレイシー死闘1時間47分完全収録』 (2000年6月30日メディアファクトリー・フジテレビ映像企画部ZMVZ-1108
脚注
映像資料
関連項目
外部リンク
1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
初代-10代 11代-20代 21代-30代 31代-40代 41代-50代 51代-60代 61代-70代