林 佳龍(りん かりゅう、リン ジアーロン、1964年〈民国53年〉2月13日 - )は中華民国(台湾)の政治家(民主進歩党所属)。党職員、立法委員、台中市長、交通部長を歴任した[2]。台北市万華区出身(本籍は雲林県麦寮郷)。
父親は雲林県麦寮郷出身の裁縫師だったが職を求めて台北市艋舺に住むようになった。母親は彰化県鹿港鎮出身。
妻の廖婉如は上場企業奇美電子元董座廖錦祥の娘で、奇美実業創設者許文龍の姪にあたる[3]。
自由主義学者の胡佛(中国語版)に師事、三月学運などで活躍したほか、「大陸問題研究社」のサークル長を務めた。大陸社を率いた理由は国民党以外に異論を発せるグループの発展を願ってのことだとしている。
公民監督国会聯盟(中国語版)の議員評価では第八期任期中の教育・文化委員会で第一会期、第二会期のトップ、第三会期、第四会期では最優秀立法委員に選ばれた[9]。また本会議出席は第4会期まででトップの出席率、第5会期までは無欠席だった[10][11]。
「大台中一二三」計画(山手線=x1、台中空港と台中港整備=x2、烏日・豊原・台中港の3副都心構想=x3)[34]、「Mr.B&B交通網」(Metro+Rail+Bike+Bus)[35] による複合公共交通網の整備実現を掲げている。
自らの政策遂行のため、日本・欧州の視察や企業誘致を精力的に行っている[58][59][60]。
台中駅から静宜大学間にあったBRT専用レーンをバス専用レーンに変更した優先区間を設定し、区間内の運行本数を426便から855便とほぼ倍増。乗客数を30%増加させた[86][87]。反対派からは浪費を指摘されたが、BRT時代は乗り場と改札こそあったものの、専用レーンが全く無い区間や運行開始時点で未完成だったりと、不完全なまま始動したことで失敗に終わったと反論[88][89][90][91][92]。
2015年1月20日、予算が80億元からほぼ倍増の150億元に達した直轄市昇格記念事業台湾タワーを中止、前市長時代の設計・見積が過少だったとして調査を遂行し、前市長派から反発を受けている[93][94][95][96]。
2015年4月10日,北屯区で発生した遠揚建設[要曖昧さ回避]による「捷運橋桁落下事故」で 国民党の立法委員だった邱毅は就任間もない林を嘲る「(林を選んだ)台中市民のミスだ」というFacebookの投稿が論議を呼んだ[97]。 同じく台中選出の民進党立法委員王定宇は「建設に関わる監督官庁は行政院傘下の交通部と委託先の台北市政府およびその傘下の捷運工程局でありそれぞれ国民党出身の毛治国、郝龍斌、胡志強がその責任者だ。」と反論した[98]。 台中市政府には建設事業での監督権限が無かったため、林は台北市長に就任して間もない柯文哲の協力を得て、工事を中断しての捜査と台中市側への監督権限強化を図り[99]、8月に工事は再開した[100](ただし、その後も事故・労働災害は発生している)。
2015年12月25日、民進党は市議会では単独過半数に至っていない首長と議会のねじれ現象下で、市の隔年度予算1,771億元が可決されないまま会期末を迎えた。 前市長の13年間では二次、三次審議もなく通過させていただけでなく、1億元程度の削減で済ませており、議会のチェック機能欠如を市長が逆批判する展開となった。 これに対し議会も翌年1月26日までに三度の審議を経て補正予算総額1,263億元を通過させた[101][102][103][104]。
独特の造形により最も施工難易度が高いと言われた[105]、歌劇院は本来2014年11月23日開館予定で、プレオープンこそしたものの[106]、多数の施工不良が見つかり、選挙期間と重なったため一旦閉鎖して再施工を呼びかけたが、建築デザインを手掛け落成式典にも招かれていた日本の建築士伊東豊雄の前で過度な政争を見せつける形となり、伊東は不機嫌だったという[107][108]。その後行政院公共工程委員会主催の「公共工程金質獎」受賞で再視察に訪れた伊東も満足げなコメントを残し、騒動は収束した[109]。歌劇院は2016年9月末に再オープンしている[110][111][112][113][114][115]。
2015年3月6日、地元台中で開催された2015年ランタンフェスティバルで、開幕直前に春節の縁起物である山羊の巨大ランタンの首が落下してしまい、前途多難さを予感させたが、市職員総出で修復を急ぎ、予定通りの開催に漕ぎ着け、来場者数も1000万人を超える過去最高の動員となった[116]。 なお、ネット上では開幕前日の完成式典に馬英九が参列していたことから[117]、「デス握手(死亡之握)[118]」で知られる馬との関連が想起されることとなった[119][120][121]。
[128]
研究員時代に大陸側人材との交流はあったが、日台関係への介入には否定的である[152]
ドナルド・トランプの大統領就任式典に民進党代表団の一員として出席している[153]。
2005年当時の民進党は陳水扁政権2期目での汚職や権力闘争で党勢が失速しており、有力な候補者を立てられずに林を擁立。敗色濃厚で大敗だったが、半ば敗戦処理とも言える役割を引き受けた林はその後も翌年から約1年半、党中央本部の秘書長に就任しつつも、台中を去らずに地盤としていった[154]
第8代立法委員選挙で台中市第6選挙区(東区、南区、中区、西区)の公認候補として国民党の黄義交(中国語版)を退けた。
2010年県市合併に伴う合併後の初代市長選挙は旧台中県県長(2005年選出)の任期を1年延長する形で行われた。前回県長選挙で敗れていた林は捲土重来を期して立候補予定だったが[156]、党中央本部は林では勝算の見込みが薄いとして、蘇嘉全を候補にした。林は2015年1月の遠見雑誌で「公認候補を譲ることになったのは生涯最大の決断だった。」と語っており、投票1か月前の時点でも夫人とともに「蘇が当選すれば、一生立候補することはない。」と語っていた。結局蘇が敗れたため胡志強の市長任期は13年間に及ぶことになり、林は2012年の立法委員選挙で公認候補として当選した。
2013年4月、林はいち早く翌年市長選挙の参戦を表明[157] 2014年2月、民進党は林を正式に市長選公認候補とし、選挙期間中は立法委員の職務を離脱した[158]
11月29日、林は現職の胡志強を21万票の大差で破り第2代台中市長に当選。2005年の敗北から10年で雪辱を果たした[159][160][161][162][163]。
中国国民党の胡志強陣営からは林が市内住居物件を購入していないことについて「選挙に負ければ台中を去る気だ」と猛烈な批判を展開されただけでなく、「新北市の豪邸に住みながら、故人の父を僅かばかりの納骨堂に押し込めている」などと度を越した人格攻撃を行い[165]、あまりにも非人道だと却って胡陣営が批判されることになった。
胡は任期中に建造した高級住宅街「七期豪宅区」が投資物件として扱われ、庶民層の住宅政策が手薄だったことから逆効果しか生まない結果となった[162][166][167][168]。
胡が任期中に市建設局局長に任命していた呉世瑋が林を「現代版陳世美(中国語版)(註:中国戯曲に登場する、皇帝の娘婿であり、恩を忘れて妻子を捨てた人物[169])」と罵る文章を拡散した。 台中地方法院はこれが林を落選させるために投票8日前に行われたネガティブキャンペーンであり、林の名誉を棄損しているだけでなく、有権者への冒涜であるとして選罷法に基づき呉に4カ月の実刑と1年間の公民権剥奪を課した[170][171]。
現職として立候補するも中央政府の政策不支持が響き再選はならなかった[172]。
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