松波 正信(まつなみ まさのぶ、1974年11月21日 - )は、岐阜県岐阜市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード(FW)。
来歴
選手時代
帝京高等学校では、2学年上は森下仁志、1学年上には清野乙彦と清野公彦兄弟、同学年には阿部敏之、丸山良明、小峯隆幸、時岡宏昌、2学年下には熱田眞がいた。松波和幸は実弟[1]。
2年生次に出場した第70回全国高校サッカー選手権では7得点を挙げ大会得点王に輝き、同校を優勝に導いた大型ストライカーとして注目を集めた。3年時に一旦は大学進学を決めていたが、現地観戦した第1回ナビスコカップで盛り上がりを目のあたりをしてプロ入りを決断する[2]。開幕したばかりのJリーグの4クラブ(名古屋グランパスエイト、鹿島アントラーズ、ジェフユナイテッド市原[3])からオファーがあり、ガンバ大阪に加入。クラブ史上初めて入団会見が開かれた選手となった[4]。
1993年5月22日のサントリーシリーズ第3節ジェフユナイテッド市原戦で70分から途中出場し、Jリーグ公式戦に初出場[5]。6月9日、サントリーシリーズ第11節サンフレッチェ広島戦で初先発、初得点を記録[4]。このゴールはJリーグ通算100ゴールとなった。以後、ルーキーながらコンスタントに出場機会を掴み、リーグ戦29試合出場で7得点をマーク。19歳の誕生日前日の11月20日、市原臨海競技場で行われたNICOSシリーズ第14節ジェフユナイテッド市原戦でキックオフから延長までフルタイム出場しハットトリックを達成、3点目は延長前半のサドンデス(Vゴール)であった。18歳と364日でのハットトリック達成は、現在もJ1リーグの最年少記録である[6][7](J2では2012年10月21日に東京ヴェルディの中島翔哉が18歳59日でハットトリックを達成している)。
1994年Jリーグサントリーシリーズ第17節の平塚競技場で同年からJリーグ正会員となったベルマーレ平塚戦で延長含めフルタイム出場し後半同点ゴールでJリーグ マン・オブ・ザ・マッチ選出、ファルカン監督時代の同年には、A代表にも選出されたが、怪我の為に辞退。結局以後の招集は無く、国際Aマッチへの出場はなかった。
1996年のアトランタオリンピックではバックアップメンバーとして選出される。1997年にはパトリック・エムボマと2トップを組み、多くのチャンスを演出し、自身も初のリーグ戦2桁ゴールを挙げた。
以後、成績面では期待通りの活躍とまでいかなかったものの、年を追うごとに主に試合終盤に投入されるスーパーサブとしてチーム内で強烈な存在感を見せ、“ミスターガンバ”[8] としてサポーターから親しまれた。
ジェフユナイテッド千葉とのナビスコカップ決勝を翌日に控えた2005年11月4日、同シーズン限りでの現役引退を表明[9][10]。12月4日のJ1最終節川崎フロンターレ戦では、後半29分から途中出場し、クラブ初タイトルとなるリーグ優勝の瞬間をピッチ上で迎えた[11]。
指導者時代
引退後の2006年からガンバ大阪ユースチームのコーチに就任し、2008年はS級ライセンス取得講習に専念する島田貴裕に替わってユースチームの監督に昇格し、第16回JユースカップではG大阪ユースを6年ぶりの優勝に導いた。2009年はS級ライセンスを取得した島田がユース監督に復帰し、自身はコーチ職に戻った。この年、自身もS級ライセンスを取得。
2010年、G大阪トップチームのコーチに就任し、2年間西野朗の下でトップチームを指導した。
2012年3月26日、成績不振により解任されたジョゼ・カルロス・セホーンの後任として、クラブOBとしては初、クラブだけではなく日本人最年少[12] でG大阪監督に就任[13]。しかし、監督がセホーンだった時からの悪い流れを断ち切れず、中盤以降は持ち直したものの最終節の磐田戦に敗れクラブ初のJ2降格となってしまった。その後天皇杯は好成績を残し決勝に進出するも、柏に敗れて準優勝と期待された結果が出ず、今後の変化の期待も薄かった事から[14] シーズン終了後に解任が決まり、新設された初代ガンバサダーに就任[15]。
2014年、ガイナーレ鳥取の監督に就任[16]。2015年シーズン終了後、監督を退任[17]。
2016年、セレッソ大阪U-18のコーチに就任[18]
2018年よりガンバ大阪のアカデミーダイレクターに就任[19][20]。同年1月6日、ガンバ大阪選手OB会が正式に発足し、初代会長に就任[21]。同年8月、辞任した梶居勝志の後任として、アカデミーダイレクターとの兼任で強化アカデミー部長に就任した[22][23]。
2021年5月14日、G大阪トップチーム監督・宮本恒靖の解任に伴い、後任が決まるまでの当面の間監督を兼務することになった[24]。同年6月1日、トップチーム監督に専念し体制が継続されることが正式に発表された[25]。2021年11月6日の大分トリニータ戦でチームは3-2で逆転勝利をおさめ、J1残留を決めた。シーズン終了後には監督を退任し、2022シーズンよりアカデミーダイレクターに就任することが発表された[26]。
2024年、V・ファーレン長崎アカデミーダイレクターに就任[27]。
人物・エピソード
- プロ入りまで関西に縁がなかった松波がガンバ大阪を選んだ理由は、帝京高校の先輩で当時G大阪に在籍していた礒貝洋光を慕ってのことである。また当時の監督で元日本代表のストライカーだった釜本邦茂から「お前を日本一のFWに育ててやる」と口説かれた事と当時のJリーグを代表するFW永島昭浩がガンバに居た事も入団の決め手となった。
- 1997-1998年モデルのユニフォーム(スタンドカラーが特徴)になって以降、エリック・カントナよろしくユニフォームの襟を立てて着るのがトレードマークとなっていた[28]。ユニフォームの襟がなくなった2003年以降は特製の襟付きアンダーシャツを着用し、審判団に睨まれつつもそのスタイルを守り通した。
- かつて自身のホームページ上に「俳句道場」というコーナーを持っており、ファンからの秀逸な俳句、川柳を掲載していた。最終回では、全投稿分をコメントつきで掲載した。
所属クラブ
個人成績
国内大会個人成績 |
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ |
リーグ戦 |
リーグ杯 | オープン杯 |
期間通算 |
出場 | 得点 |
出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
出場 | 得点 |
日本
| リーグ戦 |
リーグ杯 | 天皇杯
|
期間通算
|
1993 |
G大阪 |
- |
J |
29 |
7 |
4 |
1 |
1 |
2 |
34 |
10
|
1994 |
21 |
4 |
0 |
0 |
4 |
0 |
25 |
4
|
1995 |
15 |
0 |
- |
4 |
0 |
19 |
0
|
1996 |
20 |
5 |
12 |
3 |
4 |
2 |
36 |
10
|
1997 |
11 |
32 |
13 |
6 |
1 |
3 |
0 |
41 |
14
|
1998 |
25 |
1 |
2 |
0 |
0 |
0 |
27 |
1
|
1999 |
24 |
J1 |
23 |
5 |
4 |
0 |
0 |
0 |
27 |
5
|
2000 |
29 |
4 |
4 |
2 |
4 |
0 |
37 |
6
|
2001 |
26 |
1 |
4 |
4 |
3 |
1 |
33 |
6
|
2002 |
11 |
23 |
5 |
6 |
0 |
1 |
0 |
30 |
5
|
2003 |
17 |
0 |
4 |
1 |
2 |
1 |
23 |
2
|
2004 |
9 |
0 |
2 |
0 |
1 |
1 |
12 |
1
|
2005 |
11 |
0 |
5 |
2 |
2 |
1 |
18 |
3
|
通算 |
日本 |
J1
|
280 |
45 |
53 |
14 |
25 |
8 |
358 |
67
|
総通算
|
280 |
45 |
53 |
14 |
25 |
8 |
358 |
67
|
代表歴
- U-14日本代表
- U-15日本代表
- U-18日本代表
- U-21日本代表
- U-22日本代表
- U-23日本代表
- 日本代表(1994年)招集歴はあるが試合の出場はない
指導歴
- 2006年 - 2013年 ガンバ大阪
- 2006年 - 2007年 ユース:コーチ
- 2008年 ユース:監督
- 2009年 ユース:コーチ
- 2010年 - 2012年 トップチーム:コーチ
- 2012年 トップチーム:監督
- 2013年 アンバサダー(ガンバサダー)
- 2014年 - 2015年 ガイナーレ鳥取:監督
- 2016年 - 2017年 セレッソ大阪U-18:コーチ
- 2018年 - ガンバ大阪
- 2018年 - アカデミーダイレクター
- 2018年8月 - 2021年6月 強化アカデミー部長
- 2021年5月 - 12月 トップチーム:監督(2021年6月までは強化アカデミー部長との兼任)
- 2022年 - 2023年 アカデミーダイレクター
- 2024年 - V・ファーレン長崎:アカデミーダイレクター
監督成績
タイトル
選手時代
- ガンバ大阪
指導者時代
- ガンバ大阪ユース
ガイナーレ鳥取
脚註
関連項目
外部リンク
|
---|
1 - 10,000 |
- 1 マイヤー 1993.5.15
- 100 松波正信 1993.6.9
- 500 水沼貴史 1993.12.1
- 1,000 メディナベージョ 1994.8.17
- 1,500 城彰二 1995.4.5
- 2,000 エジソン 1995.8.12
- 2,500 江尻篤彦 1995.11.15
- 3,000 三浦泰年 1996.8.28
- 3,500 高木琢也 1997.5.3
- 4,000 横山貴之 1997.8.23
- 4,500 レディアコフ 1998.4.25
- 5,000 バジーリオ 1998.9.23
- 5,500 佐藤一樹 1999.4.24
- 6,000 鈴木秀人 1999.11.7
- 6,500 長谷川祥之 2000.7.1
- 7,000 久保竜彦 2001.5.12
- 7,500 久保山由清 2001.11.3
- 8,000 崔龍洙 2002.9.14
- 8,500 ヴァスティッチ 2003.5.18
- 9,000 斎藤大輔 2004.3.13
- 9,500 安貞桓 2004.9.23
- 10,000 前田雅文 2005.5.8
|
---|
10,500 - 20,000 |
- 10,500 今野泰幸 2005.11.12
- 11,000 アンドレ 2006.7.23
- 11,500 田中佑昌 2006.11.18
- 12,000 ウェズレイ 2007.6.23
- 12,500 マルキーニョス 2008.3.16
- 13,000 巻誠一郎 2008.9.14
- 13,500 鄭大世 2009.5.10
- 14,000 中山博貴 2009.11.28
- 14,500 赤嶺真吾 2010.8.22
- 15,000 辻尾真二 2011.5.22
- 15,500 ラフィーニャ 2011.9.18
- 16,000 藤田直之 2012.5.25
- 16,500 永井謙佑 2012.11.17
- 17,000 鈴木大輔 2013.7.17
- 17,500 家長昭博 2014.3.15
- 18,000 興梠慎三 2014.9.23
- 18,500 塩谷司 2015.5.23
- 19,000 高山薫 2015.11.7
- 19,500 遠藤康 2016.7.17
- 20,000 金子翔太 2017.4.21
|
---|
20,500 - 30,000 |
- 20,500 エウシーニョ 2017.9.30
- 21,000 齊藤未月 2018.7.22
- 21,500 興梠慎三 2019.3.9
- 22,000 遠藤渓太 2019.8.24
- 22,500 野上結貴 2020.8.19
- 23,000 ジェイ 2020.11.21
- 23,500 レアンドロ・ダミアン 2021.5.26
- 24,000 ミラン・トゥチッチ 2021.11.27
- 24,500 森島司 2022.7.17
- 25,000 森島司 2023.4.22
- 25,500 植中朝日 2023.10.21
- 26,000 アンデルソン・ロペス 2024.5.29
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得点王(J1 - J2 - J3) - 記念ゴール(J1 - J2 - J3) |