1905年(明治38年)4月15日、有楽社より創刊号が刊行された(発行は東京パック社)。中心となったのは北澤楽天[1]。楽天は、自身の恩師であるオーストラリア出身の漫画家フランク・A・ナンキベル(Frank Arthur Nankivell)から諷刺漫画雑誌の創刊を勧められており、ナンキベルが編集長をしていたアメリカの漫画雑誌『パック』(Puck)にちなみ、誌名を『東京パック』とした。ただ、その前年に宮武外骨が中心となって創刊された『滑稽新聞』の成功が引き金になったと清水勲は指摘している[2]。 B4変形判と言う大ぶりな判型、全ページカラー印刷、全項に漫画という画期的なスタイルで、当時のベストセラー雑誌として名を馳せた。また、解説文を英語訳や中国語訳も付けたことで、広く英語圏および東アジア地域においても読まれ、また、類似する漫画雑誌の創刊が相次いだことや、この雑誌から下川凹天を始めとした多くの漫画家たちが輩出されたことでも、日本の漫画史に大きな足跡を残す雑誌とされる。