株式会社東京ストアー(とうきょうストアー)は、石川県金沢市初のスーパーマーケットで[9]、北陸地方初のセルフサービス方式を導入した食品スーパーである[10]。 また、石川県内の地場資本のスーパーでは上位のスーパーチェーンでもあった[10]。
2013年(平成25年)1月18日、金沢地方裁判所に民事再生法の適用を申請した[7][8]。 2013年(平成25年)12月25日時点では5店舗の営業は継続していた[11]。
2014年(平成26年)2月28日に田上・西南部・小松幸町・畝田の4店がアルビスの店舗として開業することになり、東京ストアーの店名で営業する店舗は消滅することになった[12]。
箕田正平が[13] 石川県七尾市の御祓川沿いの闇市に約5m2の簡素な建物で[14]「みのた商店」として[13]食料品小売店を創業したのが始まりである[14]。 仕入に注力して新鮮さを売り物として、露天商ながら、通常の食料品店と同じレベルと買い物客から見做されるようになり、1948年(昭和23年)頃には七尾駅前の銀座商店街で共同店舗の一角に約20m2の店舗を構えるようになった[14]。 1951年(昭和26年)には塩干物を中心とした食料品の卸となって、店舗も約4倍に拡張した[14]。
1959年(昭和34年)5月に「(初代)株式会社東京ストアー」を設立して[3]同年6月24日に金沢市堅町55に[15]金沢で初めてのスーパーマーケットを開業した[9]。 北陸地方初のセルフサービス方式を導入した食品スーパーであったことから[10]、当初は消費者も慣れずにおっかなびっくりで買い物をする状況であったが[14]、品質の良い食料品が豊富に揃っていて価格も安定していることを知るようになり[14]、売上が一気に伸びて開業2年目で経営が軌道に乗ることになった[14]。
1960年(昭和35年)に「有限会社みのた商店」を設立して七尾の店舗を法人化し、1961年(昭和36年)に同社で飲料水の製造と塩干物の加工を開始した[16]。
金沢市の食品スーパーの草分け的存在[8]として地域密着型の小型店を次々と出店し[7]、新店舗の開店毎に生鮮食品の品揃えの拡充を進めた[14]。
そして、1965年(昭和40年)9月に「(2代目)株式会社東京ストアー」を設立し[4]、1966年(昭和41年)には「富士センター」を吸収合併した[17]。
1967年(昭和42年)に[13]豆腐・油揚げ[18]「株式会社にのみや」を設立したのを皮切りに[13]、パン・和菓子の「あずま」[18]など自社で扱う食品の製造会社を設立した[7]。 また、高級和牛肉コーナーを開設するなど[18]生鮮品の品質に定評があったほか[8]、人気の地場レストランとドレッシングの独自商品を開発した[19]ほか、残留硝酸態窒素量の平均値など人体に有害とされる物質の含有量も含めた野菜の安全性のデータ表示を他社に先駆けて始める[20]など「価格は少々高めだが、品物がいい」との評価を得ていた[8]。
その結果、人口約45万人の金沢市を中心とする商圏は周辺を合わせると60万人以上の人口を抱える北陸随一の市場を当社やマルエーなどの地場スーパーが独占し[8]、石川県内大手の老舗スーパーとして[6]最盛期の2001年(平成13年)3月期には石川県内17店舗で約182億円の売上高を上げた[7]。
また、1972年(昭和47年)8月に美術品販売の「株式会社正観堂」を設立したほか[21]、「東京ハートフェルト株式会社」や「東京上海友誼商店株式会社」などの輸入商社の設立に参画して[18]バブル期の1990年前後に中国との貿易事業を手掛ける[8]など多角的な経営を進められた。
2000年(平成12年)1月には日本のスーパーとしてはいち早くネットスーパーに進出し、生鮮品を中心に販売を行っている[22]。
多角化の一環として進められた中国事業の失敗により約10億円の赤字を抱えて[7]財務面が悪化したため[1]、創業者の箕田能昌から経営を引き継いだ娘婿の箕田秀夫はその建て直しに取り組む[8]など経営の足かせとなった[7]。
また、店舗展開においても1994年以降に大型店化を進めるなど食品スーパーの郊外化・大型化への対応が競合他社よりやや遅れ[1]、北陸随一の豊かな商圏に慣れすぎて価格競争力に劣るとされる金沢を地盤とする地場スーパーとの競争しか経験がなかった[8]。
そこへ、不況の長期化や人口が伸び悩む中で富山県で激しい競争を繰り広げてきたアルビスや大阪屋ショップが進出してきたほか、石川県七尾市を地盤とする山成商事(店舗名どんたく)、岐阜県に本拠を置くバローといった圏外からの食品スーパーの進出が相次いだため競争が激化し[8]、2006年(平成18年)にはアルビスと大阪屋、バローの3社だけでも北陸で50店舗近くの出店構想を持つ全国有数の食品スーパー激戦地となった[23]。
そうした競争激化を受けて小松市の既存店隣接地に[23]2006年(平成18年)11月23日に業務用スーパーを全国展開しているトーホーのフランチャイズ第1号店としてA‐プライス東京ストアー小松幸町店を開店して[24]新業態で独自性を打ち出すなどの対応策を採った[23]。
約100メートルしか離れていない場所へアルビス寺井店が進出したマリータウン体養店や直線距離で約1キロの場所に大阪屋ショップ近岡店が進出した三ツ屋店のように競合他社の打ち出す低価格戦術に敗れる状況が生じる[25]などこうした競争の激化を受けて売上高が減少し[6]、2011年3月期には売上高約151.72億円で1億円を超える損失となった[1]。
業績の悪化を受け、2009年(平成21年)4月に横山町店[26]、2011年(平成23年)8月にはマリータウン体養店(20日)と三ツ屋店(30日)と不採算店となっていた店舗を閉鎖し[25]、同年9月から中小企業金融円滑化法を利用して金融機関から借入金の返済条件変更を受けるといった対応策を採ったものの2012年(平成24年)3月期は売上高約136億円で約2.5億円の損失となって経営再建はなかなか進まなかった[6]。
また、主力金融機関(メインバンク)である金沢信用金庫も2010年(平成22年)3月期に信金中央金庫から135億円の支援を受けるほど経営が悪化しており、強力な支援は困難な状態にあった[8]。
そのため、2012年(平成24年)2月に金沢の1店舗を閉鎖し[27]、同年9月には資金繰りのために[8]複数の企業との交渉の結果最も条件が良かったバローに3店舗(野々市市のフレッシュアリーナ押越店とフレッシュアリーナ新庄店、小松市の串店)を事業譲渡し[28]、同時に主要役員が退任したほか[2]早期退職者の募集を行って[8]正社員だけでも約120名が退職して[2]正社員を30人弱に減らすといった大規模な事業再編を行った[8]。
だが、この事業再編の際に多人数の退職に伴って多額の退職金が発生して分割支払を余儀なくされたほか[2]、好立地で好採算の店舗を競合他社に譲渡したことは「自ら危機にあることを如実に示してしまった」形となって経営危機が言われ始める結果を招き[8]、この信用不安の拡大が決済条件の変更や数量制限を打ち出すなど債権保全に向けた動きが加速させ[2]、一部店舗では陳列棚の品薄感が顕著となって客足減につながるという悪循環を招く結果となった[7]。
そして2013年(平成25年)1月11日前後に当社幹部が北陸の有力スーパー数社を訪問して金沢市にある西南部店など2店舗を「18日までに1店につき1億円以上の手付金を払ってほしい」との条件で売却を持ちかけたものの不調に終わった[8]。
先述の店舗売却策が不調となったため、2013年(平成25年)1月18日に負債総額約55億円を抱えて金沢地方裁判所に民事再生法の適用を申請して保全命令を受けることになった[6]。
この民事再生法適用申請時点では、経営陣が引き続き経営を行い[7]、パートや契約社員を含む従業員約500人の雇用を維持すると共に全11店舗は営業を続け[7]、「裁判所の監督下で最もいい再建方法を探る」として自力再建とスポンサー確保の両にらみで再建の可能性を探るとしている[8]。
しかし、事業再編の過程でバローへ好立地で好採算の店舗を売却してしまっているため「一部の優良店だけならともかく、会社まるごと引き受けるのは難しい」とされ[8]、民事再生法適用申請時点では再建支援を申し出ているスポンサー企業はない状況となっていた[7]。
その後2013年(平成25年)2月6日に[5]、代表取締役社長の箕田秀夫が責任を取って同年2月20日付で辞任し[29][30]、新たな経営陣として同日付で同社生え抜きの赤倉一郎が新社長に就任し[5]、箕田啓子が専務取締役に[31]、岩城馨と山本武範が常務取締役に就任することになった[31]。
また、11店舗中6店舗を閉鎖して第三者へ譲渡して、5店舗へ縮小して営業を継続する方針も合せて発表された。
その方針に沿って片町店、野町店、金石店の3店は2月末に、内灘店と御経塚店は3月20日に、千代野店は3月末に閉店することになった[32]。
これらの閉鎖店舗利用者のサービスの維持[32]と売上の維持や収益の増加を図ることを目指して[29]、宅配事業を強化する方針も打ち出している[29][32]。
なお、閉鎖予定の店舗の譲渡については石川県内外の企業数社から問い合わせがあり[5]各店の譲渡先の選定を順次始めているものの[31]、2月中旬時点では具体的な承継先や承継時期は決まっていない状況となっている[31]。
また、民事再生法適用後の2013年(平成25年)1月19日以降は従来210円毎に付与されていた買い物客向けのポイントカード「ふれあいカード」へのポイント付与を停止し、同日以降はレシートに押印して新たなポイント制度に移行する準備に入った[33]。
この移行に伴ってその時点で残っていたポイントは同年2月1〜11日にポイント相当の「お買い物券」に交換され、発行済みのポイント券や商品券も2月11日まで利用可能とし、以降は無効となることが発表された[33]。
しかし、当初から一転、ポイント制度は民事再生手続き開始以前の内容のまま再開することが発表された。中止期間中のポイントも判子が押されたレシートを提示すれば付与が受けられる。また、閉鎖となる店舗を利用していて今後他の東京ストアーの店舗を利用しない会員は、カード内のポイントをお買い物券と交換することができる。[広報 1]
2013年(平成25年)12月25日に新会社を設立して店舗や事業を承継し、アルビスが2014年(平成26年)2月末にその新会社の全株式を取得し完全子会社化することが発表された[11][34]。
2014年(平成26年)1月17日、100%子会社である株式会社ATSとの間で、「平成26年2月27日をもってATS社にスーパーマーケット事業を承継させること」を内容とする吸収分割契約を締結するとともに、アルビスとの間で、「同日付でアルビスに対してATS社株式の全部を譲渡すること」を内容とする株式譲渡契約を締結[35][広報 2]。
傘下入りに伴ってアルビスへ店舗名を変更し[11][34]、従業員約300人の雇用を維持する方向で調整が進められ[34]、2014年(平成26年)2月28日に田上・西南部・小松幸町・畝田の4店がアルビスの店舗として営業を開始し[36]、東京ストアーの店名で営業する店舗は消滅することになった[12]。
ただし、JR金沢駅構内で営業する「スプーンステーション」については、「金沢百番街」を運営する金沢ターミナル開発から立ち退きを求めて金沢地方裁判所に提訴されていたが、2014年(平成26年)2月18日までに和解が成立し、スプーンステーションの営業は20日までで営業を終了した[37]。 当社による営業の終了翌日の21日から金沢百番街を運営する金沢ターミナル開発が従業員やテナントも引き継いで、「100banマート」としてほぼそのまま営業を続けることになった[38]。
東京ストアーの法人自体はアルビスへの事業譲渡後も存続していたが、2017年(平成29年)3月23日に法人格が消滅した[39]。
1970年代末には、下記の5社合計で年商約5億円を上げていた[14]。
ダイイチ | 紅屋商事 | キクコウストア | 丸江 | マルニ | 中央市場 |テラタ (秋田県) | マルダイ | たかき | ヤマザワ
セイミヤ | かましん | とりせん | 千葉薬品 | サミット | スーパーアルプス | 全日本食品 | 文化堂 | マルマンストア | よしや
アルビス | ママーストアー | いちやまマート | デリシア | 未来堂高山 | 田子重 | ナガヤ | ビッグ富士 | ヤマナカ
パリヤ | フクヤ | マツモト | マツヤスーパー | 京阪ザ・ストア | サンプラザ | 大近 | スーパーナショナル | 近商ストア | 関西スーパーマーケット
丸合 | JAしまねラピタ | 天満屋ストア | モリヤマ | 丸久 | キョーエイ | マルヨシセンター | セブンスター | ナンコクスーパー
ふくや | サンリブ | マルキョウ | エレナ | ジョイフルサンアルファ | トキハインダストリー | フレイン | マルミヤストア | マルイチ | ハルタ
全聯實業有限公司 (台湾) | FUJIMART VIETNAM (ベトナム)
あけぼの | アルテマルカン | エービーシー | オオサワストア | オータニ | オレンジマート | 片浜屋 | カドヤ | キシショッピングセンター | 江南 | コノミヤ | サカモト | 三幸 | 三心 | 塩原屋 | シュフレ | スピナ | 高浜ママーストアー | ツチダ | 鶴屋 | 東海マート | 東京ストアー | ナルス | 西原食品 | 西山寛商事| ニッショー | ファミリー丸広 | 藤越 | 富士屋 | フレックス | 松坂屋ストア | 丸善 | 三谷屋 | 三原スーパー | モリー | ユース | よねや商事 | リベラルスーパーチェーン
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