|
「播州」はこの項目へ転送されています。中国遵義市の区については「播州区」をご覧ください。 |
播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。
「播磨」の名称
木簡では「針間国」・「幡麻国」と表記しているものもある。
播磨国は播州(バンシュウ)とも呼ばれるが、「播」という漢字を「バン」と読むのは「播州」またはその省略形に限られており、本来の音読みは「ハ」である(「播種」・「伝播」など)。
『播磨国風土記』冒頭に国名の由来があったと見られるが、冒頭部分が欠失しており明らかではない。
領域
明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。現在の神戸市域においては、須磨区を境に東部(長田区・兵庫区・中央区・灘区・東灘区の全域および須磨区・北区のそれぞれ大部分)が摂津国、西部(垂水区・西区のそれぞれ全域と北区・須磨区のそれぞれ一部)が播磨国であった。
- 全域
兵庫県神戸市垂水区・西区・姫路市・明石市・相生市・加古川市・三木市・高砂市・小野市・加西市・宍粟市・たつの市・西脇市・加東市・多可郡・加古郡・神崎郡・揖保郡・赤穂郡
- 一部のみ
兵庫県神戸市須磨区(神の谷・北落合三丁目・北落合四丁目・菅の台・西落合・竜が台二丁目・竜が台三丁目・竜が台四丁目・竜が台五丁目・緑台・弥栄台)・北区(淡河町淡河・淡河町勝雄・淡河町北僧尾・淡河町北畑・淡河町木津・淡河町行原・淡河町神田・淡河町中山・淡河町野瀬・淡河町萩原・淡河町東畑・淡河町神影・淡河町南僧尾)・赤穂市(備前国の部分(福浦)を除く)・朝来市(生野町真弓・生野町口銀谷の一部・生野町川尻・生野町栃原)・佐用郡佐用町(美作国の部分(奥海・若州・上石井・下石井・水根・桑野・海内・東中山)を除く)
当該地域の2010年国勢調査による人口は230万4449人(男111万3494人/女119万0955人)、世帯数は86万8208世帯、面積は3649.75km2、人口密度は631.4人/km2[1]。
沿革
7世紀に成立した。針間国(播磨中・西部)・明石国(東播磨・神明・三木地域(明石郡・美嚢郡・加古郡・印南郡))・針間鴨国(北部(賀茂郡・多可郡))が大化の改新以降に播磨国(針間国)へ編入されたと推定されている。
飛鳥池遺跡や藤原宮跡などからの出土木簡の中に飾磨郡を「志加麻評」、宍粟郡を「宍粟評」、神崎郡を「神前評」、揖保郡を「粒評」と記しているものがある。郡制の前には評里制の地方行政区画が行われていたことを示すものである。
7世紀の終わり頃、播磨国の長官を「吉備大宰(きびおおみこともち)」とか「播磨国宰(みこともち)」と『播磨国風土記』に記されている。この期の地方長官は、複数国以上を統括する大宰(総領)が任命された[2]。
713年(和銅6年)に編まれた風土記の内、現在にまで文献が残る五か国の一つでもある(『播磨国風土記』を参照)。
江戸時代には、山崎藩・安志藩・三日月藩・林田藩・三草藩・龍野藩・小野藩・姫路藩・赤穂藩・明石藩・福本藩・新宮藩・姫路新田藩・平福藩が置かれた。
近世以降の沿革
- 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り(1,774村・656,227石余)。太字は当該郡内に藩庁が所在。国名のあるものは飛地領。
- 美嚢郡(156村・44,196石余) - 幕府領(谷町代官所)、旗本領、京都守護職役知、明石藩、三草藩、下野壬生藩、下総古河藩、遠江浜松藩
- 明石郡(144村・57,617石余) - 明石藩
- 加古郡(99村・50,678石余) - 姫路藩、武蔵忍藩
- 印南郡(117村・45,703石余) - 幕府領(谷町代官所)、旗本領(交代寄合池田氏)、一橋徳川家領、姫路藩
- 加東郡(150村・56,185石余) - 幕府領(谷町代官所)、旗本領、一橋徳川家領、小野藩、三草藩、姫路藩、陸奥棚倉藩、下野壬生藩、下総古河藩、遠江浜松藩
- 多可郡(125村・34,163石余) - 幕府領(谷町代官所・生野代官所)、一橋徳川家領、三草藩、下総古河藩、摂津尼崎藩
- 加西郡(125村・39,158石余) - 幕府領(谷町代官所・生野代官所)、旗本領、一橋徳川家領、田安徳川家領、京都守護職役知、姫路藩、三草藩、下総古河藩、武蔵忍藩
- 神東郡(77村・28,773石余) - 幕府領(谷町代官所)、旗本領(交代寄合池田氏・その他)、姫路藩
- 神西郡(69村・22,205石余) - 幕府領(生野代官所)、旗本領(交代寄合池田氏・その他)、姫路藩
- 飾東郡(71村・39,711石余) - 姫路藩
- 飾西郡(80村・41,258石余) - 幕府領(谷町代官所・龍野藩預地)、姫路藩、龍野藩
- 揖東郡(118村・56,174石余) - 幕府領(龍野藩預地)、旗本領、一橋徳川家領、姫路藩、龍野藩、林田藩、讃岐丸亀藩
- 揖西郡(89村・33,371石余) - 幕府領(谷町代官所)、姫路藩、龍野藩、三日月藩、讃岐丸亀藩
- 赤穂郡(125村・44,077石余) - 幕府領(龍野藩預地)、旗本領、赤穂藩、安志藩、摂津尼崎藩
- 佐用郡(87村・24,379石余) - 幕府領(龍野藩預地)、旗本領、三日月藩、龍野藩、安志藩
- 宍粟郡(142村・38,573石余) - 幕府領(谷町代官所・生野代官所)、山崎藩、安志藩、三日月藩、摂津尼崎藩
- 慶応4年
- 明治元年9月23日(1868年11月7日) - 遠江浜松藩が上総鶴舞藩に転封。
- 明治2年(1869年)
- 明治3年
- 一橋徳川家領・田安徳川家領が兵庫県の管轄となる。
- 11月 - 加西郡・多可郡の生野県の管轄地域が兵庫県、神東郡・神西郡・揖東郡・宍粟郡・佐用郡の兵庫県の管轄地域が生野県の管轄となる。
- 11月23日(1871年1月13日) - 福本藩が廃藩。管轄地域が鳥取藩の管轄となる。
- 明治4年
- 明治9年(1876年)8月21日 - 第2次府県統合により兵庫県の管轄となる。
国内の施設
国府
播磨国府は、『和名抄』によれば飾磨郡にあった。姫路市中心部にある本町遺跡(姫路市総社本町、北緯34度50分4.85秒 東経134度41分44.96秒 / 北緯34.8346806度 東経134.6958222度 / 34.8346806; 134.6958222 (播磨国府推定地:本町遺跡))を国衙跡とする説が有力視されており、1984年(昭和59年)の姫路郵便局東側(前記箇所)をはじめとして[3]周辺からは2015年(平成27年)には市内中心部の平野町で[4][5]、2019年(平成31年・令和元年)には同・大黒壱丁町で[6]も奈良時代の大量の瓦や建物の柱跡が発見されている。
国分寺・国分尼寺
神社
延喜式内社
- 『延喜式神名帳』には、大社7座5社・小社43座42社の計50座47社が記載されている(「播磨国の式内社一覧」参照)。大社は以下に示すもので、すべて名神大社である。
- 明石郡 海神社三座
- 揖保郡 粒坐天照神社
- 揖保郡 中臣印達神社
- 揖保郡 家島神社
- 宍粟郡 伊和坐大名持御魂神社
総社・一宮以下
- 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[9]。
守護所
守護所は鎌倉時代は加古川市加古川町の加古川城に、室町時代は赤松氏によって、姫路市曽左(書写)の書写坂本城に置かれ、また、播磨・備前・美作を統べるためにたつの市新宮町の越部館に守護館を置いていた。嘉吉の乱で前期赤松氏が滅亡し、応仁の乱で播磨守護に復帰後は姫路市夢前町の置塩城に居城を移した。
地域
郡
※はじめの郡名は『延喜式』による。
江戸時代の藩
- 姫路藩:池田家(52万石)→本多家(15万石)→松平(奥平)家(18万石)→松平(越前)家(15万石)→榊原(松平)家(15万石)→松平(越前)家(15万石)→本多家(15万石)→榊原家(15万石)→松平(越前)家(15万石)→酒井家(15万石)
- 姫路新田藩(姫路藩子藩):本多家(10万石→5万石と4万石→4万石と5万石)→松平(奥平)家(3万石)→酒井家(1万石)
- 明石藩:小笠原家(10万石)→松平(戸田)家(7万石)→大久保家(7万石)→松平(藤井)家(7万石→6万5千石)→本多家(6万石)→松平(越前)家(6万石→8万石:10万石格)
- 龍野藩:本多家(5万石)→小笠原家(6万石)→岡部家(5万3千石)→京極家(6万石)→脇坂家(5万3千石→5万1千石)
- 山崎藩:池田家(3万8千石→6万8千石)→松井家(5万石)→池田家(3万石)→本多家(1万石)
- 赤穂藩:池田家(3万5千石)→浅野家(5万3千石→5万石→5万3千石)→永井家(3万2千石)→森家(2万石)
- 安志藩:小笠原家(1万石)
- 小野藩:一柳家(2万8千石→1万石)
- 平福藩:池田家(2万5千石)
- 三日月藩:森家(1万5千石)
- 林田藩:建部家(1万石)
- 三草藩:丹羽家(1万石)
- 鵤藩→新宮藩:池田家(1万石)
- 福本藩:池田家(1万石→7千石→6千石→1万573石)
人物
国司
播磨守
播磨介
守護職
鎌倉幕府
室町幕府
- 1336年〜1350年 - 赤松則村
- 1350年〜1351年 - 赤松範資
- 1351年〜1371年 - 赤松則祐
- 1371年〜1427年 - 赤松義則
- 1427年 - 赤松持貞
- 1427年〜1441年 - 赤松満祐
- 1441年〜1454年 - 山名持豊
- 1454年〜1458年 - 山名教豊
- 1458年〜1467年 - 山名持豊
- 1467年〜1484年 - 赤松政則
- 1484年 - 赤松澄則
- 1484年〜1496年 - 赤松政則
- 1496年〜1521年 - 赤松義村
- 1521年〜1565年? - 赤松晴政
戦国大名
- 赤松氏
- 山名氏
- 別所氏
- 織豊政権の大名
- 豊臣秀長(姫路城):天正11年(1583年)入封。天正13年(1585年)、大和郡山城に移封。
- 木下家定(姫路城):天正13年(1585年)、11,341石で入封(後に25,000石に加増)。慶長6年(1601年)、備中足守に移封。
- 高山右近(船上城):天正13年(1585年)、6万石で入封。天正15年(1588年)、バテレン追放令による棄教を拒否して城地を返上。
武家官位としての播磨守
江戸時代以前
江戸時代
播磨国の合戦
播州人
武田信玄も好んで愛読したと言われる[要出典]『人国記』には、「播磨の風俗智恵有て義理を不知、親は子をたばかり、子は親をだしぬき、主は被官に領地を鮮く与へて好き人を堀し出し度と志し、亦被官と成る人は主に奉公を勤る事を第二に而、調儀を以所知を取らんと思ひ、悉皆盗賊の振舞也。侍は中々不好不及是非也。若き侍の風上にも可置国風にあらず、偏に是国は上古より如此の風俗終に暫くも善に定る事なし」という記述がある。
『人国記』での播州人の基準は、播州人である赤松則村(円心)や赤松満祐など実際に謀反を起こした赤松氏かと思われる。『天正記』での播州人の基準は、播州人である別所吉親(別所氏)・黒田孝高・赤穂浪士(大石良雄)かと思われる。例に赤穂浪士の事が描かれている場面もある[独自研究?]。
主な川
自治体名は流域。
現代的用法
現在でも「播磨(播州)」は、兵庫県南西部を指す地域名として用いられる。
東播(とうばん=東播磨)・西播(せいばん=西播磨)・北播(ほくばん=北播磨)・中播(ちゅうばん=中播磨)というような使い方も、日常的になされる。明確な定義はないが、区分はおおむね以下のようになる。
- 二分する場合
- 東播:加古川市・高砂市・加西市・多可郡以東
- 西播:姫路市・神崎郡以西
- 三分する場合
- 東播:明石市・加古川市・高砂市・加古郡
- 北播:三木市・小野市・加西市・西脇市・加東市・多可郡
- 西播:姫路市・相生市・赤穂市・宍粟市・たつの市・神崎郡・揖保郡・赤穂郡・佐用郡
西播磨のうち、姫路市と神崎郡を「中播磨(中播)」とすることもある。
- 四分する場合
- 東播:明石市・加古川市・高砂市・加古郡
- 北播:三木市・小野市・加西市・西脇市・加東市・多可郡
- 中播:姫路市・神崎郡
- 西播:相生市・赤穂市・宍粟市・たつの市・揖保郡・赤穂郡・佐用郡
播磨国の一部で昭和時代前・中期に神戸市に編入された地域として垂水区・西区・北区淡河町・須磨区須磨ニュータウン西部がある。
- 播磨国域がごく一部しかない北区域と須磨区域は通常は「播州」・「東播」とは呼ばない。北区淡河町は神姫バスが通っているが交通網は北摂地域である。
- 旧明石郡だった垂水区・西区は明石市とのかかわりが深く、明石市と合わせて「神明」「東播磨南部」と呼ばれることが多い。
兵庫県の出先機関である県民局は4つに分かれている。行政区分はこれを中心に行われる。
- 東播磨県民局(加古川市所在):明石市・加古川市・高砂市・加古郡
- 北播磨県民局(加東市所在):三木市・小野市・加西市・西脇市・加東市・多可郡
- 中播磨県民局(姫路市所在):姫路市・神崎郡
- 西播磨県民局(赤穂郡上郡町所在):相生市・赤穂市・宍粟市・たつの市・揖保郡・赤穂郡・佐用郡
気象予報区域
播磨地区内で以下のように細分化されている。
※神戸市垂水区・西区は播磨国に属しているが、予報区域は神戸市の他区と同じ阪神に含まれている。
地震情報では、播磨南東部・北播丹波を「兵庫県南東部」、播磨南西部・播磨北西部を「兵庫県南西部」として発表している。
名産
工芸品、工業製品
食品
米の産地として越前国や越後国と並んで知られ、「一播二越」(いちばんにえち)と称された[12][13]。
脚注
注釈
- ^ ただし、弘安5年(1282年)の文書で、第6代小山宗長が守護として在職したことが記述されている。
- ^ ここまでの出典
- ^ 毛鉤の一種、特に鮎釣りの中の「ドブ釣り」には欠かせない擬餌鉤で、釣り師たちは季節・天候・時刻に応じて多種類の毛鉤を使い分けていて、播州毛鉤の種類は魚種・水深・水質などに応じて多種あり、500種以上におよぶと言われている。[1]
出典
参考文献
- 小山市史編さん委員会 編『小山市史』小山市〈通史編Ⅰ(自然.原始・古代.中世)本編〉、1984年11月10日。NDLJP:9643282。
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
播磨国に関連するカテゴリがあります。
外部リンク
|
---|
五畿七道 |
| 畿内 東海道 東山道 北陸道 山陰道 山陽道 南海道 西海道 |
---|
五畿八道 |
|
---|
- |
|
---|
|