大中臣 能宣(おおなかとみ の よしのぶ)は、平安時代中期の貴族・歌人。神祇大副・大中臣頼基の子。官位は正四位下・祭主・神祇大副。三十六歌仙の一人。
経歴
村上朝中期の天徳2年(958年)讃岐掾から神祇少祐に遷る。応和3年(963年)神祇権少副、安和元年(968年)神祇少副を経て、円融朝初頭の天禄元年(970年)叙爵。
天禄3年(972年)神祇大副兼祭主になると、天延2年(974年)従五位上、貞元2年(977年)正五位下、永観2年(984年)従四位下と昇進。寛和元年(985年)花山天皇の大嘗祭で従四位上、寛和2年(986年)一条天皇の大嘗祭で正四位下と祭主の労により叙位を受けている。
正暦2年(991年)8月に卒去。享年71。
人物
天暦5年(951年)梨壺の五人の一人に選ばれて和歌所寄人となり、『万葉集』の訓読と、『後撰和歌集』の撰集にあたった。冷泉天皇・円融天皇の大嘗会和歌を詠進したほか、円融天皇・花山天皇に家集を召されている。また歌合や屏風歌の制作でも活躍し、母娘二代の伊勢斎宮となった徽子女王・規子内親王家にも出入りした。
勅撰歌人として、『拾遺和歌集』(59首)以下の勅撰和歌集に124首が入集[1]。家集に『能宣集』がある。
逸話
能宣が敦実親王(宇多帝の子)の子の日の祝いに招かれたとき、「千とせまで 限れる松も 今日よりは 君にひかれて よろづ代や経む」と歌を詠んだ。能宣はこの歌を自賛して父の頼基にこれを告げた。頼基は数度この歌を吟じたが、突然能宣に枕を投げつけて「帝に招かれたら、これ以上のどのような歌を詠むのだ」と怒鳴りつけたという[2]。
官歴
注記のないものは「中臣氏系図」(『群書類従』巻第62所収)による。
系譜
- 父:大中臣頼基
- 母:不詳
- 妻:藤原清兼の娘
- 生母不明の子女
- 男子:大中臣輔長
- 男子:大中臣輔□(名不詳)
- 男子:大中臣宣理(963-995)
- 女子:源兼澄室
脚注
- ^ 『勅撰作者部類』
- ^ 『前賢故実』一条朝 大中臣能宣の条
関連項目
日本語版ウィキソースに
大中臣能宣著の原文があります。