行尊(ぎょうそん、天喜3年(1055年)- 長承4年2月5日(1135年3月21日))は、平安時代後期の天台宗の僧侶・歌人。平等院大僧正とも呼ばれる。
生涯と業績
父は参議源基平。園城寺(三井寺)の明尊の下で出家、頼豪から密教を学び、覚円から灌頂を受けた。延久2年(1070年)頃より[1]大峰山・葛城山・熊野などで修行[2]し、修験者として知られた。
永久4年(1116年)、2代熊野三山検校に補任[3]。熊野と大峰を結ぶ峰入りの作法としての順峰(熊野本宮から大峰・吉野へ抜ける行程)選定をおこなったという。嘉承2年(1107年)5月、法眼に叙せられる[4]。また、同年12月鳥羽天皇即位に伴いその護持僧となり、加持祈祷によりしばしば霊験を現し[5]、公家の崇敬も篤かった。のちに、園城寺の長吏に任じられ、保安4年(1123年)には天台座主となったが、延暦寺と園城寺との対立により6日で辞任している。天治2年(1125年)、大僧正。崇福寺・円勝寺・天王寺(四天王寺)など諸寺の別当を歴任[6]する一方、衰退した園城寺を復興した。
なお、鎌倉時代に編纂されたと推定される『寺門高僧記』に収められた行尊の「観音霊所三十三所巡礼記」は西国三十三所巡礼の確かな初見史料として高く評価されている。
歌人としても有名で、作品が小倉百人一首にも収録されている。また、『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に48首入首。歌集に『行尊大僧正集』がある。
- 小倉百人一首
- 66番 もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし (『金葉和歌集』雑521[7])
また、能筆であったという話も伝わっている[8]。
脚注
- ^ 『行尊大僧正集』
- ^ 『古今著聞集』『元亨釈書』『寺門伝記補録』
- ^ 「熊野三山検校次第」による。
- ^ 「寺門直叙法眼是為初」『寺門伝記補録』
- ^ 藤原璋子が鳥羽天皇に入内する際に取り憑いた物の怪を調伏(『今鏡』307段)、鳥羽天皇の皇子君仁親王が生後まもなく呼吸停止した所を蘇生(『今鏡』261段)。
- ^ 典拠は、順番に「僧綱補任」、『中右記』『長秋記』、「僧綱補任」「彰考館本僧綱補任裏書」「天王寺別当次第」『一代要記』などによる。
- ^ この作品は『古来風体抄』『八代集秀逸』にも採録されている。
- ^ 『今鏡』307段、『寺門高僧伝』行尊伝
参考文献
川崎剛志「行尊年譜」(『就実語文』26号所収、2005年)
関連項目