佐藤 守良(さとう もりよし、1922年3月28日 ‐ 1996年3月7日)は、日本の政治家。衆議院議員・元参議院議員の佐藤公治の父親[1]。
衆議院議員(9期)、農林水産大臣(第8代)[2]、国土庁長官(第20代)[3]、北海道開発庁長官(第60代)[4]、沖縄開発庁長官(第29代)[4]を歴任。
来歴
広島県御調郡向島町(現尾道市)出身。尾道商業学校、1947年中央大学法学部英法科卒業[5]。
運輸大臣を務めた永野護の秘書を長く務め[6]、1960年の第29回衆議院議員総選挙に無所属で立候補するが落選[7]。1969年の第32回衆議院議員総選挙で自由民主党公認を得て、再び広島3区から立候補し初当選(当選同期に小沢一郎・羽田孜・梶山静六・奥田敬和・渡部恒三・綿貫民輔・塩崎潤・森喜朗・村田敬次郎・松永光・江藤隆美・中山正暉・浜田幸一など)。
自民党内では佐藤派→田中派→竹下派に所属し、運輸政務次官、国土政務次官、衆議院逓信常任委員長、第2次中曽根内閣第1次改造内閣の農林水産大臣、第2次海部内閣の国土庁長官などを歴任。また、同期当選の小沢一郎の盟友として知られ、「小沢総理」実現を生涯の目標とした。
1992年の竹下派分裂に伴い、羽田・小沢派に参加。翌年、自民党を離党し新生党結成に参画、新生党常任幹事に就任した。羽田内閣では北海道開発庁長官兼沖縄開発庁長官を務めた。
1995年、勲一等旭日大綬章受章[8]。
議員在職中の1996年3月7日未明、体調不良を訴えて搬送されたが、同日、気管支動脈瘻による出血のため、死去した。73歳没。死没日付をもって正三位に叙された。追悼演説は同年4月12日の衆議院本会議で、宮澤喜一により行われた[9]。
人物
愛称は「ごもっとも守良」。何を聞いても「ごもっとも」と受け答えをすることから名づけられたという。
佐藤が1年生議員の時、田中角栄に依頼して永野重雄(当時・日本商工会議所会頭)と会食することになったが、その会食の席に佐藤自身が時間ギリギリに駆けつけ、親分である田中角栄を待たせてしまったことがあった。その際に佐藤は田中から『若いお前が先に来て、(招いた)お客さんを待つのが当然だろう』と大目玉を食らった。佐藤は後に「(永野さんとの会食の一件で)世の中の筋というものを思い知らされた。その後、時間に対する厳しさを持つことは自分の人生哲学になったのだ」と述懐している[10]。
脚注
関連項目
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統合前 |
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統合後 | |
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2001年、運輸大臣、建設大臣、国務大臣国土庁長官は国土交通大臣に統合された。長官は国務大臣としての長官を表記。 |
衆議院逓信委員長 (1980年-1981年) |
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定数5 |
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↓:途中辞職、失職など、↑:補欠選挙で当選。 |