三条西 実枝(さんじょうにし さねき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての公卿・歌人・古典学者。右大臣・三条西公条の子。官位は正二位・内大臣。
天文13年(1544年)に長男・公世と妻を相次いで失っている。『甲信紀行の歌』によれば、天文16年(1547年)に甲斐国へ下向し、武田信繁や大井信常らと歌会を行っている。天文21年(1552年)以降京都を離れ、駿河国へ移った。
駿河国滞在時に武田信玄による駿河侵攻が発生、その最中の永禄12年(1569年)に駿河国一宮の富士山本宮浅間大社に和歌を奉納している[1]。その際の祝詞では武田氏の戦勝を祈願する体裁をとっている[2][3]。同年に帰洛した後は、精力的に古典の講釈を行い、三条西家に伝わる『源氏物語』の学を集大成した『山下水』を著した。
正親町天皇に対しても視野の狭さから軽率な判断を下していると度々厳しい諫言を行っている。なお、長年にわたって正親町天皇が織田信長の蘭奢待切り取りに不満を抱いていた根拠とされてきた「蘭奢待香開封内奏状案」(東山御文庫勅封三十五函乙-11-15)について、金子拓は書状の形式と内容から天皇宛に出された書状であるとし、勅封された東大寺正倉院の開封に興福寺(藤原氏の氏寺)の関与を許したことに対する実枝の不満が述べられているものとしている[4][5]。
天正7年(1577年)に織田信長の推挙により大納言に任じられた(当時、権大納言のみが任じられ正官の大納言は空席とされる慣習であったが、実枝は23年ぶりに任命された)。三条西家に代々伝わる古今伝授は一子相伝の秘事であったが、息子・公国は幼かったため、やむなく弟子の細川藤孝に初学一葉を与え、「たとえ細川家の嫡男の一人といえども、絶対に他人には伝授しないこと、三条西家に相伝が断絶するようなことがあれば、責任をもって伝え返すこと」等を誓わせ、古今伝授を行った。後にこれは現実のものとなり、公国が早世すると、幽斎は実枝の孫の実条に古今伝授を伝えた。
家集に『三光院集』がある。
※ 日付は旧暦
この他に東大寺に入った千世保丸という幼名を持つ息子がいた(織田信長による東大寺の蘭奢待切り取りに当たり、東大寺に別当が不在であることが問題視されて童形ながら東大寺別当に任じられている)[6]。
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