ファビオ・カペッロ (Fabio Capello , 1946年 6月18日 - )は、イタリア ・フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州 サン・カンツィアン・ディゾンツォ 出身の元サッカー選手 、元サッカー指導者、現サッカー解説者。現役時代のポジションは、ミッドフィールダー 。
現役時にはASローマ 、ユヴェントス 、ACミラン に在籍し、イタリア代表 としても活躍した。
引退後は古巣のミラン、ローマ、ユヴェントスで監督を務め、それぞれをリーグ優勝に導いた。また、2度にわたってスペインのレアル・マドリード の指揮官に就任し、在任2シーズンで2度のリーグ制覇を達成した。その後、イングランド代表 、ロシア代表 監督を歴任。
経歴
選手経歴
選手時代のカペッロ
父親は小学校の教師で、サッカー選手でもあった家に生まれた[ 2] 。叔父のマリオ・トルトゥールもサンプドリア などでプレーしたサッカー選手であった[ 2] 。ピエリスというクラブのユースでサッカーを始め、注目される存在となっていった[ 2] 。以前のイタリア代表監督で、当時ACミラン のスカウトであったジュゼッペ・ヴィアーニ からもスカウトを受けたが、SPAL 1907 へ入団することとなった[ 2] 。
1964年にSPAL 1907 で選手キャリアをスタート。1967年にASローマ へ移籍すると、1969年のコッパ・イタリア 制覇に貢献し、自身初となるタイトルを獲得をした。ローマでは84試合で18得点を挙げるなど、チームの中心であった[ 2] 。この活躍により強豪ユヴェントス へ移籍、ここでは若いチームの中にあって、リーダー的役割を担い[ 2] 3度のリーグ優勝を果たした。1976年まで7シーズン在籍、10番でプレーした[ 3] 。カップウィナーズカップ 決勝のリーズ 戦では、ホームの第1戦で1得点を決め2-2、アウェイでは1-1、合計スコアは3-3ながら、ホームでの失点が1多く、タイトルを獲得出来なかった[ 2] 。1971-72シーズン、リーグ戦では自己最多の9得点を挙げ、リーグ優勝を果たした[ 2] 。1972-73シーズン、リーグ優勝を果たしたが、UEFAチャンピオンズリーグ 決勝に進出したが、アヤックス に敗れて準優勝に終わった[ 2] 。1973-74シーズン、アヤックスの代理で出場したインターコンチネンタルカップではCAインデペンディエンテ に敗れ、リーグも2位に終わった[ 2] 。1974-75シーズンのリーグ優勝を最後にユヴェントスを離れ、1976-77シーズンからACミラン へ移籍した。ミランでの最後の2シーズンは怪我の影響で、控え選手となったが、1978-79シーズンに自身4度目となるスクデットを獲得[ 2] 。1979-80シーズンを最後に、34歳で現役を引退した[ 2] 。
イタリア代表 として1972年5月13日にベルギー 戦で代表デビュー。1974 FIFAワールドカップ 西ドイツ大会を始め32試合出場8得点を記録した。彼の選手生活におけるハイライトの一つは、1973年11月14日にウェンブリー・スタジアム で行われたイングランド との試合である。カペッロのゴールでイタリアはイングランドを1-0で下し、イングランドからウエンブリーでの初勝利を記録した[ 2] 。
指導経歴
クラブ監督として
ACミラン 監督時代のカペッロ
引退後はイタリアのテレビ局でサッカー解説者 を務めていた。1986-1987シーズンにはACミラン のユースを指導していたが、終盤にシーズン終了までの5試合で臨時監督を務め、UEFAカップ 出場権をかけたプレーオフでUCサンプドリア を破って、出場権獲得に成功した[ 4] 。翌シーズンからアリゴ・サッキ にバトンをつないだ。それから4年後の1991年、サッキの後任として再びACミランの監督に就任する。
数多くのスーパースターを抱え「グランデ・ミラン」(偉大なミラン)や「リ・インヴィンチービリ」(無敵)と呼ばれた当時のミランをまとめ上げ、セリエA では1991-92シーズンの無敗優勝、1992-93、1993-94とリーグ3連覇を果たし、1995-96年度にも優勝、5年間で4度のスクデット を獲得した、またUEFAチャンピオンズリーグ では1992-93シーズンから1994-95シーズンまで3季連続で決勝に進出させ、特に1993-94シーズンにはヨハン・クライフ 率いるバルセロナ を決勝で4-0という大差で下し優勝するなど、監督としての地位と評価を確立した。1995-96シーズンにリーグ優勝を最後に勇退した。
1996-97シーズンからパルマ の監督に就任することで合意していたが、翻意してレアル・マドリード の監督に就任[ 5] 。就任初年度でチームにリーグ優勝をもたらすも、わずか1年で解任された。成績不振に喘いでいたACミランの監督に再度就任するもチームを立て直すことが出来ず、1シーズンで退任した。
1999年にASローマ の監督に就任。2000-01シーズンにローマに18年ぶりのリーグ優勝をもたらし、2度の2位という実績を残す。2004-05シーズンからはユヴェントス へ電撃移籍。ここでも手腕を発揮し、就任初年度にリーグ優勝を達成した。その後、2年連続でセリエA優勝を達成するも、2005-06シーズンのカルチョ・スキャンダル によるチームのセリエB降格と同時に監督の座を退いた。
2006年からレアル・マドリード の監督に復帰。序盤はもたついたものの、終盤にはチームを立て直し、奇跡の逆転劇の末、銀河系軍団と呼ばれながらも迷走していたレアル・マドリードに4シーズンぶりのリーガタイトルをもたす。このシーズン中、一度は辞任を決断したが、カルデロン会長に留意され、プレドラグ・ミヤトヴィッチ スポーツディレクターにチームのことについて干渉させないことを条件に残留した[ 6] 。シーズン終了後、選手たちは監督続投を希望したが、 [要出典 ] 勝利することを第一とするカペッロのサッカーは、見て楽しくないという、ファンたちの求めているスペクタクルな内容ではないとし、カルデロン会長は一度目の解任時と同様の理由で解任した[ 7] [ 8] 。レアル・マドリードを就任初年度に優勝させ、直後にクラブを去るのはこれで2度目となった。カペッロ自身はインタビューの中でもう一度レアルから監督就任の話が来ても行くことはないだろうと語っている [要出典 ] 。
イングランド代表
イングランド代表監督時代のカペッロ
2007年、UEFA EURO 2008 の予選から敗退した責任で前任のスティーブ・マクラーレン が解雇された後、イングランド代表 監督の座に興味を示し自ら進んでアピール。[要出典 ] 12月15日に正式に監督就任が決定した。2008年1月7日からの4年半の契約となった。カペッロはイングランド代表監督という仕事は「私のサッカー人生の集大成」と語っている。 [要出典 ]
迎えた2010 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選 では圧倒的な強さで予選を突破し本大会出場を決めた。しかし2010 FIFAワールドカップ 本大会では初戦から低調なパフォーマンスに始まり、グループリーグをかろうじて突破したものの決勝トーナメント1回戦のドイツ 戦では、フランク・ランパード のゴールが認められない誤審もあり4-1で大敗した。大会後は解任の噂もあったがUEFA EURO 2012 出場を目指して続投が決まった。
2012年2月8日、イングランドサッカー協会 は、ジョン・テリー のアントン・ファーディナンド への人種差別発言疑惑への影響で、自分に相談せずに、テリーをキャプテンから外したことに異を唱え、EURO2012 を前にして代表監督を辞任した[ 9] 。
ロシア代表
2012年7月26日、ロシア代表 監督に就任。2015年7月14日に退任した。
江蘇蘇寧足球倶楽部
2017年6月11日、中国サッカー・スーパーリーグ ・江蘇蘇寧足球倶楽部 の監督就任が発表された。2018年3月28日に退任、同時に監督業からの引退を発表、その後はサッカー解説者として活動している[ 10] 。
監督としての特徴
守備的な布陣を敷き、堅実な戦術で試合を運ぶスタイルを好む。カテナチオ の第一人者であるネレオ・ロッコ から影響を受けており[ 11] 、現代においてその精神を受け継ぐ監督である。
純粋かつ激しい競争の下での選手の質の向上を謳っており、年齢や実績の差を基準とするヒエラルキー を自身のチーム内に置かないことで知られる。いわく「私のチームで先発を勝ち取る条件とは唯一つ。それは好敵手を圧倒するモチベーション、それ以外にない」と語っている[ 14] 。 チームに絶対欲しい選手のタイプを問われた際は、「自らを常に犠牲に出来る者、試合は勿論、普段の練習から全力を尽くす者。何よりもタフな精神力を持つ者。真っ先に浮かぶのはエメルソン 」と答えている[ 11] 。しかし、サヴィチェビッチは、自身が好む、練習から100パーセントの力を出し、試合でもチームの為に攻守に労を惜しまず動くタイプの選手ではなかったが、違いを生み出せる特別な選手であるとし、ミラン加入後しばらくの後からは起用していた[ 15] 。
規律に厳しく、選手を完全な支配下に置いた上で采配を振る。過去には不甲斐ないプレーをしているとして「過去の栄光でプレーしている連中」とミランの選手を批判し、一目置いていたマルセル・デサイー に「私は君だけを残し、他の全員を放出する」と言ったというエピソードがある[ 16] 。
語録
「ひらめきや創造性とは、言葉を変えれば単なる『意外性』に過ぎない」[ 18]
「カルチョとは極めて単純な競技に過ぎない。とすれば、単純にプレーすれば誤ちは回避できる」[ 18]
「モダンフットボールにファンタジスタ の居場所はない」[ 19]
代表歴
出場大会
試合数
国際Aマッチ 31試合 7得点(1972年-1976年)[ 20]
イタリア代表 国際Aマッチ
年 出場 得点
1972
6
1
1973
8
3
1974
6
1
1975
4
1
1976
7
1
通算
31
7
監督成績
シーズン
指揮クラブ
リーグ戦成績
ヨーロッパカップ戦成績
1986-87
ACミラン
セリエA 5位
不出場
1991-92
セリエA 優勝
1992-93
UEFAチャンピオンズリーグ 準優勝
1993-94
UEFAチャンピオンズリーグ 優勝
1994-95
セリエA 4位
UEFAチャンピオンズリーグ 準優勝
1995-96
セリエA 優勝
UEFAカップ ベスト8
1996-97
レアル・マドリード
リーガ・エスパニョーラ 優勝
不出場
1997-98
ACミラン
セリエA 9位
1999-00
ASローマ
セリエA 5位
UEFAカップ ベスト16
2000-01
セリエA 優勝
2001-02
セリエA 2位
UEFAチャンピオンズリーグ ベスト16
2002-03
セリエA 8位
2003-04
セリエA 2位
UEFAカップ ベスト16
2004-05
ユヴェントス
セリエA 優勝(のちに剥奪)
UEFAチャンピオンズリーグ ベスト8
2005-06
2006-07
レアル・マドリード
リーガ・エスパニョーラ優勝
UEFAチャンピオンズリーグ ベスト16
タイトル
選手時代
ASローマ
ユヴェントスFC
セリエA :3回(1971-72、1972-73、1974-75)
ACミラン
セリエA:1回(1978-79)
コッパ・イタリア:1回(1976-77)
監督時代
ACミラン
レアル・マドリード
ASローマ
セリエA:1回(2000-01 )
スーペルコッパ・イタリアーナ:1回(2001)
個人
パンチーナ・ドーロ(ゴールデンベンチ):4回(1991-92、1993-94、1996-97、2000-01)
セリエA年間最優秀監督:1回(2005)
BBC・スポーツ・パーソナリティ・オブ・ザ・イヤー・コーチ賞 :1回(2009)
マルカ・レジェンダ (2011)
グラン・ガラ・デル・カルチョ批評家賞(2011)
UEPS欧州年間最優秀監督(1994)
UEPS欧州シーズン最優秀監督(1993-94)
イタリアサッカー殿堂(2013)
AIACフットボールリーダーキャリアアワード(2016)
ACミラン殿堂
脚注
外部リンク
タイトル・受賞歴 最優秀選手賞 イタリア人選手賞 外国人選手賞 若手選手賞 ゴールキーパー賞 ディフェンダー賞 監督賞 審判賞