ローマックスはシーガーのフォーク歌手としての活動を後押しし、シーガーはローマックスがニコラス・レイと毎週放送していたCBSのラジオ番組『Back Where I Come From』(1940年 - 1941年)に、ジョシュ・ホワイト(英語版)、バール・アイヴス、レッドベリー、ウディ・ガスリーらとともにレギュラー出演するようになった。ちなみに、シーガーがガスリーと最初に会ったのは、1940年3月にウィル・ギアが主催した、移住を余儀なくされた労働者のための慈善コンサート「怒りの葡萄」においてであった。
『Back Where I Come From』は、人種を超えて出演者が出ていたという点で当時としてはユニークな番組であり、1941年3月に大統領夫人エレノア・ルーズベルトの主催でホワイトハウスにおいて行われた「アメリア兵士のための夕べ」で、彼らが陸軍長官、財務長官、海軍長官などの高官を前に演奏したことは、ニュースになった[5]。戦時中、シーガーはノーマン・コーウィン(英語版)の全国ラジオ放送でも演奏していた。
ウィーバーズの一連のヒットは、「オールド・スモーキー (On top of Old Smokey)」と、レッドベリーの代表的なワルツ「おやすみアイリーン (Goodnight, Irene)」で始まった。「おやすみアイリーン」は1950年に13週間チャートの首位に立ち[7]、数多くのポップ歌手にカバーされた。「おやすみアイリーン」のB面にはイスラエルの歌「ツェーナ・ツェーナ (Tzena, Tzena)」が収められていた。このほかウィーバーズのヒット曲には、「So Long It's Been Good to Know You」(ウディ・ガスリーの作)、「ワインよりも甘いキス (Kisses Sweeter Than Wine)」(ヘイズ、シーガー、レッドベリーの共作)、南アフリカのズールーの歌「ライオンは寝ている (Wimoweh)」(「ライオン」と称されたズールーの王シャカのことを歌っている)などがある。
グリニッジ・ヴィレッジを中心とした1960年代のフォーク・リバイバルの動きの中で、シーガーは既に長老格の存在になっていた。もともとシーガーが発行していた『People's Songs Bulletin』を継承した『Sing Out!』誌のコラムニストとして、シーガーのキャリアは誰よりも長かった。さらに、シーガーは、時事問題にも重点を置いた『Broadside Magazine』の創刊にも関わっていた。新たに登場した、政治への参加意識をもったフォーク歌手たちのことを、シーガーは、かつて同僚として旅回りをした仲間であり、既に伝説的人物となっていたウディ・ガスリーに結びつけて「ウディの子どもたち(Woody's children)」と呼び、この表現を定着させた。この都市部におけるフォーク・リバイバルは、1930年代〜1940年代の政治活動の伝統を受け継ぐものであり、伝統的な曲や詞を下敷きにして、社会変革に影響を与えようとしたPeople's Songsの取り組みを受け継ぐものであった。このような実践は、さらに遡れば、スウェーデン生まれの組合活動家ジョー・ヒル(英語版)が編纂した、世界産業労働組合(the Industrial Workers of the World:その組合員は「Wobbly」と通称される)の『Little Red Songbook』にまで行き当たる。ウディ・ガスリーは『Little Red Songbook』がお気に入りで、常に持ち歩いていた。
シーガーは1948年に、今日では古典的な著作となったバンジョーの教則本『How to Play the Five-String Banjo』の最初の版を執筆した。この本でバンジョーを学び始めたと語るバンジョー奏者は数多い。シーガーはさらに進んで、「ロング・ネック」とか「シーガー」と呼ばれる特殊なバンジョーも生み出した[11]。
2007年3月16日、シーガーは妹のペギー、弟のマイクとジョン、妻トシや他の家族たちとともに、ワシントンD.C.のアメリカ議会図書館で開催された、シーガー家を讃えるシンポジウムとコンサートに参加して、発言し、演奏した。議会図書館は、その67年前に彼が民衆(フォーク)文化アーカイブ (Archive of Folk Culture) に雇われていた場所である。
長く商業的なテレビ放送からは排除されてきたが、2008年9月29日には89歳になった歌手/活動家として全国放送のテレビ番組『Late Show with David Letterman』に出演し、「Don't say it can't be done, the battle's just begun... take it from Dr. King you too can learn to sing so drop the gun.(そんなの無理だと言わないことだ、戦いは始まったばかり...キング博士を見習えば、君も歌えるようになるんだから、銃を置きなさい)」と「Take it from Dr. King」を歌った(Dr. King とはキング牧師のこと)。
90歳を祝う催しは5月4日にニューヨーク市立大学のカレッジ・オブ・スターテン・アイランドでも行われた[註 5]。オーストラリアでも90歳を祝うイベントは数多く行われ、シーガーの生涯を描いたミュージカル『ONE WORD WE!』の上演、1963年のメルボルン・タウン・ホール公演のDVDの発売、フォーククラブやフォークフェスティバルでの関連行事などが展開された。
2009年4月18日、シーガーはニューヨーク市のティーチャーズ・カレッジで開催された、小規模なアースデイの集まりで演奏し、「我が祖国」、「Take it From Dr. King」、「She'll Be Coming 'Round the Mountain」などを披露した。
1941年春、21歳のシーガーはアルマナック・シンガーズの一員として活動していた。おもにミラード・ランペルが曲を書いたアルバム『Songs for John Doe』は、ランベル、シーガー、ヘイズに、ジョシュ・ホワイト(英語版)とサム・ゲイリー(英語版)が加わって演奏されている。収録された歌の歌詞には「デュポンのためにブラジルで死ぬなんてぞっとしないぜ(It wouldn't be much thrill to die for Du Pont in Brazil)」(“Billy Boy”[35])といった、フランクリン・ルーズベルトによる平時としては前例のない規模の徴兵(1940年9月実施)を厳しく批判した歌詞が含まれている。この反戦・反徴兵的な調子は、1939年の独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)後の共産党の方針を反映していた。
1941年6月16日、当時のオーナー、ヘンリー・ルースが編集に介入することが多かった時期の『タイム』誌の論評が、アルマナックスの『Songs for John Doe』を取り上げて、「モスクワからの偽りの調べ」をそのまま忠実に反響させて「フランクリン・ルーズベルトは嫌がる人々をJ・P・モルガン のための戦争に導こうとしている」と説いている、と糾弾した。ルーズベルトはこのアルバムを見せられた時、これを聴く人はごく少数だろうと正しく見抜いていたが、フォーク音楽のファンであった大統領夫人エレノア・ルーズベルトは、このアルバムを「趣味が悪い」と評したと伝えられた。
ドイツ生まれの高名なハーバード大学政治学教授で、米国陸軍の国内宣伝のアドバイザーを務めていたカール・フリードリッヒはより激烈に反応し、『アトランティック』 (The Atlantic) 誌に「我が陣営の内なる害毒(The Poison in Our System)」と題した論評を寄せ、一人で裁判官と陪審員を務めるように『Songs for John Doe』は「破壊的で、違法に相違なく」「共産主義者かナチが資金を提供しており」、「検事総長の扱うべき一件」で、合法的な「抑圧」「だけ」ではこうした民衆に浸透するような害毒に対抗するには不十分であると論じた[36]。この害毒とはフォーク音楽のことで、これに甘く当たっていては広がってしまう恐れがあるというのである。
A・フィリップ・ランドルフ(英語版)やベイヤード・ラスティン(英語版)ら黒人の労働運動指導者や、A・J・ムスト(英語版)たちは、軍需産業における人種差別に抗議し、軍隊における人種隔離を止めさせるために、大規模なデモ行進をワシントンに向かわせる計画を立てた。今では公民権運動の最初の一歩となったと考える者が多いこの行進計画は、フランクリン・ルーズベルトが大統領令第8802号 (適正雇用法、Executive Order 8802) を1941年6月25日に出し、軍需部門で連邦政府と契約関係にある企業による差別的雇用を禁じたことで、行進が実行されることはなかった。
ルーズベルトの大統領令は、ヒトラーが不可侵条約を破ってソ連に侵入し始めた1941年6月22日の3日後に出された。今やアメリカ共産党は、党員に対して徴兵に応じることを指示し、戦争が続く間はストライキに参加することを禁じた(この方針は左派の一部から怒りを買った)。『Songs for John Doe』は発売禁止となり、在庫分は破壊され、少数のレコードが私的コレクターの手に残るだけになった[註 6]。
戦争支持
翌年、アルマナックスはフランクリン・ルーズベルトの戦争への取り組みを支持するアルバム『Dear Mr. President』(Keynote、1942年)を発表した。タイトル曲「Dear Mr. President」はピート・シーガーのソロによるもので、シーガーの生涯を貫く信条を歌ったものである。
しかし、シーガーの批判精神は『Songs for John Doe』をめぐるアルマナックスの評判を呼び起こし続けた。1942年、前年の『John Doe』アルバムの短い発売(と発売禁止)から一年後、FBIは、既に戦争支持を表明していたアルマナックスを、動員を妨害するおそれがあり、依然として戦争への取り組みを脅かすものだと判断した。
『ニューヨーク・ワールド・テレグラフ』 (New York World-Telegram) 紙(1942年2月14日)によると、カール・フリードリッヒの1941年の記事「我が陣営の内なる害毒」が小冊子になって、民主主義委員会(フリードリッヒが創設し、代表していた組織)によって配布され、アルマナックスの雇い主たちにもつきつけられた[38]。これと同時に、アルマナックスが公の場で演奏するたびに、ニューヨークの新聞には誹謗中傷する記事が書かれるようになり、遂にアルマナックスは解散に追い込まれた。
シーガーは長い間、軍備拡張競争とベトナム戦争に反対し続けてきたが、1966年のアルバム『Dangerous Songs!?』に収めたレン・チャンドラー (Len Chandler) 作の子どもの歌「Beans in My Ears」では、当時の米国大統領リンドン・ジョンソンを風刺によって攻撃した。チャンドラーの歌詞に加え、シーガーは「ジェイおばさんの小さな息子エイルビー」は「耳の中に熊がいる」などと歌っているが、これは、何を言われても耳に入らないことを意味している[46]。ベトナム戦争の継続に反対していた者たちにとって、「エイルビー・ジェイ」という名は、ジョンソンの愛称だった「LBJ」に通じるものであり、彼の戦争政策に抗議する者たちに大統領が何の応答もしなかった理由を、皮肉たっぷりに説明するものであった。
シーガーは1967年以降、第二次世界大戦中にルイジアナ州で小隊を率いての訓練中に溺れ死んだ陸軍大尉 (歌詞の中では「大馬鹿野郎〈the big fool〉」と呼ばれている) のことを歌った「腰まで泥まみれ (Waist Deep in the Big Muddy)」でも注目されるようになった。この歌はCBSテレビの気楽な娯楽番組『Smothers Brothers』用に収録されたが、歌詞の最後で「新聞を読むたびに/昔の感覚がよみがえってくる/僕らは腰まで泥沼につかっているのに大馬鹿野郎は進めと言う」という部分が、ジョンソン大統領を「大馬鹿野郎」と見立て、ベトナム戦争を明白な危険だと述べているように解釈できるとして、当時のCBSの経営陣から横槍が入った。このため、1967年のこの番組では収録されたこの曲はカットされてしまったが[47]、こうした経緯が知れ渡った後で翌1968年1月に収録された『Smothers Brothers』にシーガーは出演し、この歌を放送に乗せた[48]。
環境問題
シーガーは、1966年に環境保護団体“Hudson River Sloop Clearwater”の創設に参加して以来、この組織に長く関わっている。この組織は当時からハドソン川の水質汚染を取り上げて、その改善に取り組んできた。その取り組みの一環として、帆船(スループ)「クリアウォーター(Clearwater)」が1969年に建造され、処女航海ではメイン州からニューヨーク市のサウス・ストリート・シーポート博物館へと回航し、そこからハドソン川を遡上した[49]。この処女航海の乗組員の一人だったドン・マクリーンは、トマス・B・アレン(英語版)のスケッチを収録した「Songs and Sketches of the First Clearwater Crew」という本を仲間と編集したが、シーガーはこの本に序文を寄せている[50]。シーガーとマクリーンは、1974年のアルバム『Clearwater』の「Shenandoah」で共演している。帆船「クリアウォーター」は、ボランティアやプロフェッショナルな船員が乗り込んで、ハドソン川を定期的に航行し、主に学校を対象とした環境教育プログラムを実施している。
1982年に、シーガーは、ポーランドの自主管理労組「連帯」の抵抗運動を支援する資金集めのコンサートに出演した。シーガーの伝記を書いたデヴィッド・ダナウェイによれば、これはシーガーが何十年間も密かに感じていたソビエト共産主義への個人的な嫌悪を、公の場で表明したものである[52]。1980年代後半には、「暴力革命」にも賛成しないと表明するようになり、インタビューに応えて漸進主義の支持を表明し、「もっとも永続する革命は、一定以上の時間をかけて実現されるものだ」と述べた[52]。 1997年の自伝『Where Have All the Flowers Gone』でシーガーは、「今となっては、スターリンの失策に目を向けず、スターリンが非常に残忍な誤った指導者であったことを理解しなかったことを、謝罪したいと思う」と記した上で、キリスト教徒は十字軍、宗教戦争、宗教裁判について、謝罪すべきであるし、「白人はアメリカ先住民から土地を奪ったこと、黒人を奴隷化したこと、日系アメリカ人を強制収容したことについても、謝罪することを考えるべきである。前を向こうではないか」と続けている。[53]
晩年には、年齢のこともあり、シーガーが、いろいろな賞や顕彰を長年の政治的活動に対して受けるようになってきたが、同時に、1930年代や1940年代の彼の見解や活動が改めて攻撃されるようにもなった。2006年1月14日、VOA や NPRのコメンテーターで、リバタリアニズム系のシンクタンクケイトー研究所の代表でもあるデヴィッド・ボアズ(英語版)は、英国の新聞『ガーディアン』に、「スターリンの鳴鳥」と題した論説を寄稿し、シーガーを「長年の党の方針に忠実であり続けながら」、「結局は」米国共産党を離れた人物だとした上で、そんなシーガーを賛美する雑誌『ニューヨーカー』と、新聞『ニューヨーク・タイムズ』をこき下ろした。自説の根拠としてボアズは、アルマナック・シンガーズの1941年の作品「Songs for John Doe」を引き、これと、翌1942年に米国が第二次世界大戦に参戦した際に参戦を支持した「Dear Mr. President」からの引用とを並べてみせた[54][55]。
2007年にシーガーは、かつてのバンジョーの教え子であり、元トロツキー主義者で今では保守系の雑誌『ナショナル・レビュー』(National Review) などに寄稿している歴史家ロナルド・ラドシュ Ron Radoshからの批判に応える形で、スターリンを断罪する「ビッグ・ジョー・ブルース」("Big Joe Blues") という歌を作り「彼は鉄の手で支配し/夢を終わらせた/../口を閉じていないと早死にするぞ/../仕事しろ、質問するな」などと歌っている[56][57]。この歌は、ラドシュ宛の手紙に添えられたもので、手紙には「君は正しいと思う。(1965年に)ソ連に行った時に、グラグ(強制労働収容所)を見せてほしいと言うべきだった」と書かれていた[58]。
^グロスマンがマネジメントをしていた(白人の)ポール・バターフィールド率いるThe Butterfield Blues band は、メンフィス・スリム(英語版)ら黒人の大物たちが出演したブルース・ワークショップのトリを務めたが、ローマックスはこのバンドが、彼らが模倣している(黒人の)偉大なブルース・アーティストたちと同じように本当にブルースが演奏できるものなのか、と疑問を呈したという。グロスマンは、これに腹を立て、ローマックスを腕ずくで襲ったという。当時、バタフィールド・ブルース・バンドのギタリストだったマイケル・ブルームフィールドは、次のように述べている。「偉大な民俗学者、音楽学者のアラン・ローマックスが、何かの説明をはじめたが、僕には聞こえてもいなかった。だが、アルバートはそれを侮辱だと受け取り、頭に来た。次に気づいたら、ショーの真っ最中に何千人もの観客が見てるニューポート・フォーク・フェスティバルのど真ん中で、ローマックスとグロスマンが床の上で取っ組み合ってた。二人とも服はボロボロになってた。僕らは二人を引き離さなきゃならなかった。そして「アラン、何てこった、マネージャーじゃないか!」と気づいた始末だった。 Jan Mark Wolkin, Bill Keenom, and Carlos Santana's, Michael Bloomfield: If You Love These Blues (San Francisco: Miller Freeman Books), p. 102。Alan Lomax: Selected Writings Ronald D. Cohen, ed. (London: Routledege), p. 192.に収められた、Ronald D. Cohen による "Part III, The Folk Revival (1960s)" の introduction も参照のこと。バタフィールド・ブルース・バンドは、問題となったディランの演奏の際にもバックを務めていた。
^このアルバムは、1960年に『Songs of the Lincoln and International Brigades』と題したLPの片面として再発売された。このときのもう一面には、1938年に空襲下のバルセロナで録音された、エルンスト・ブッシュと、ナチス・ドイツからの亡命者から成るテールマン大隊 (Thälmann Battalion) 員のコーラスによる伝説的アルバム『Six Songs for Democracy』が収められていた。その「民主主義のための6曲」とは、「Moorsoldaten(Peat Bog Soldiers)」 (ドイツの強制収容所の政治囚の作)、「Die Thaelmann-Kolonne」、「Hans Beimler」、「Das Lied Von Der Einheitsfront (Song Of The United Front)」 (ハンス・アイスラーとベルトルト・ブレヒトの作)、 「Der Internationalen Brigaden (Song Of The International Brigades)」、「Los cuatro generales (The Four Insurgent Generals)」であった。
Forbes, Linda C. "Pete Seeger on Environmental Advocacy, Organizing, and Education in the Hudson River Valley: An Interview with the Folk Music Legend, Author and Storyteller, Political and Environmental Activist, and Grassroots Organizer." Organization & Environment, 17, No. 4, 2004: pp. 513-522.
Seeger, Pete. How to Play the Five-String Banjo, 3rd edition. New York: Music Sales Corporation, 1969. ISBN 0-8256-0024-3.