ドロシーは後に妊娠中絶を経験した時に自分自身は子供が産めなくなったと思っていた。しかし、1925年の半ばに妊娠していることがわかり、元気づいた。この間、ベッテルハイムは父親になることを怖がっていた。ドロシーは数か月間、ベッテルハイムと別れてフロリダ州にいる母親のもとに滞在した。この時にドロシーはカトリックの教義について徹底的に調べていた。ドロシーがニューヨークのスタテン島に戻ってきた時、ベッテルハイムはドロシーの信仰が増していること、ミサへの出席、理解できないような宗教の読みもの、などに気が付いた。1926年3月4日にドロシーとベッテルハイムの間に娘タマル・テレサ(Tamar Teresa)が生まれた。そのすぐ後にドロシーはニューヨーク愛徳修道女会(Sisters of Charity of New York:S.C.)の修道女、シスター・ アロイシアと出会った[21]。そしてこのシスターの助けでカトリック教会の信仰を自ら勉強して学び、1927年にはまだ赤子の娘に洗礼を受けさせた。ベッテルハイムはこの洗礼式の出席を断り、彼にとってドロシーとの関係は次第に耐えられないものとなった。ドロシーは教会で結婚式を挙げたかったのだが、ベッテルハイムは組織だった宗教、とりわけカトリックに対して反感を持っていた。その年の12月遅くにドロシーとベッテルハイムは喧嘩し、その後ドロシーはベッテルハイムが彼女の元に戻ることを許さなかった。ドロシーは、その12月28日にシスター・アロイシアを代母としてカトリック教会の洗礼を受けた[22][23]。
1929年の夏、ドロシーはベッテルハイムとの関係を終わらせ、パテ映画会社で脚本を書く仕事を得て、娘のタマルと共にロスアンゼルスに移り住んだ。そのほんの数ヵ月後に1929年の株価大暴落が起き、その後ドロシーの契約は更新されなかった。ドロシーは、メキシコ州での滞在を経て、娘を連れてフロリダを訪れたりし、ニューヨークに戻った。ドロシーは生活のためにジャーナリストとなって、地方紙の「スタテン・アイランド・アドバンス」(Staten Island Advance)で園芸のコラムを書き、また、「コモンウィール」(Commonweal)のようないくつかのカトリック系出版社で特集記事やブックレビューを書いた[24][25]。
ドロシーは1932年にピーター・モーリン(Peter Maurin)に出会った。この人物は、ドロシーが間違いないと確信していた運動の創立者として、常日頃から称賛していた人物であった。モーリンはフランスからの移民で、ちょっとした放浪者でもあり、母国のフランスでラ・サール会によって建てられた学校に入っていた。移住する以前、当初にモーリンはフランスからカナダに渡り、その後にアメリカ合衆国に移民してきた。きちんとした教育を受ける機会がなかったにもかかわらず、モーリンは深い教養と深く力強い視点の持ち主だった。彼は社会的判断と貧しい人々との関係に係る洞察力を持っていた。これは部分的にアシジの聖フランシスコから示俊を受けたものであった。彼は貧しい人々自身による考えと、その後の行動を共有することを土台とした行動についての洞察力も持っていた。モーリンはキリスト教の教父によって書かれた書物、及び教皇レオ13世とその後継者たちによって出された社会問題に係る教皇文書について、深い造詣を持っていた。モーリンはドロシーにカトリック理論の基礎を伝授した。社会的行動をする上で、この理論が必要だと2人とも必要性を感じているからであった。数年後、ドロシーはモーリンが ピョートル・クロポトキンの著作の抜粋を使っていかにドロシーの知識を広げていったか、を描いている。ドロシーはこのように書いている。「特に私が注目したのは”田園・工場そして仕事場(Fields,Factories,and Workship)”だった。」「私はクロポトキンに親しみを感じていた。それは彼の著作”革命家の記憶”(Memoirs of a Revolutionist)を通じてのみだった。この作品は元々”アトランティック・マンスリー”(Atlantic Monthly)に連載されていたものだったの。」。また、「ああ、アメリカの自由の日は遠い。カール・マルクスが”トリビューン”(Tribune)を書くことができるのに、ニューヨークでは、クロポトキンを”アトランティック”に発表することすらできない。でも、ニュー・イングランドのユニテリアンの家や、シカゴにあるジェーン・アダムスのハル・ハウスにはゲストとして受け入れられるわ。」[27]。モーリンによってドロシーが興味を引いたフランスのモデルと文学はとても興味深いものである[28][29]。
カトリック労働者運動がスタートしたのは、「カトリック・ワーカー」紙(Catholic Worker)の初版が1933年5月1日に1セントの価格で刊行された時だった。同紙はそれ以来、継続的に刊行されている。「カトリック・ワーカー」紙は大恐慌のどん底で最も苦しんでいる「未来に希望がないと考えている人々」に狙いをつけ、その人々に「カトリック教会は社会的プログラムを有している。人々の中に神はおられ、人々の霊性のみならず、その福祉のためにも具体的な働きをしておられる。」と呼びかけた。宣伝をせず、スタッフに賃金を払わなかったが、同誌は人々に受け入れられた[30]。創刊号の発行費の一部には「カトリック・ワーカー・ハウス」を命名したシスター・ピーター・クレバー(Sister Peter Claver)による1ドルの寄付が含まれていた[31]。
1938年、ドロシーは、「ユニオン・スクウェアからローマへ」(From Union Square to Rome)を出版し、その中で、自分の政治的な行動主義が、宗教的に動機づけされた行動主義へ変化したことを報告する内容を書いた。ドロシーは自分の人生伝の中からいくつか選び語った。自分の若い頃、人生があまり感傷的ではなく卑劣だった時、重大な罪を犯したことについては、詳細を避けたものだった[39]。ドロシーは自分に「何でカトリックになったの?」と聞いてきた共産主義者の親戚たちと友人たちへ、その答えとして、この本を渡した[40]。
ニューヨーク大司教区にある枢機卿図書委員会(The Cardinal's Literature Committee of the New York Archdiocese)は、この本をカトリック信徒に推薦した[41]。
積極行動主義
1940年代の当初に、ドロシーはベネディクト会に世俗会員として入会し、1955年には、同会の聖プロコピウス大修道院(St. Procopius Abbey) のオブレート[42]であることを公表した。ベネディクト会のオブレートであることにより、ドロシーは、霊的な修練やその後の人生を通じて彼女を支えていく繋がりを得ることになる。ドロシーはしばらくの間、イエスのカリタス同胞会という修道会(Fraternity of Jesus Caritas)の修道女を志願してその見習い(ポストランド)だった。これは、 シャルル・ド・フーコーなどで奮起したものであった[43]。
しかし、ドロシーはその修道会で歓迎されていないことを感じ、そしてその集会に失望した。ドロシーが修道会の入会を辞退した時に友達への手紙で次のように書いている。「私が貴方に知らせたいことは、私が、この修道会をより親密であるとすら感じていることです。でも修練者であることや、正規に修道会の一員となることを認識するのは私にとって不可能なことなのです。」[44]。
1949年1月13日、カトリック教会・ニューヨーク大司教区が管理する墓地で、労働者組合がストライキを行った。数週間後、フランシス・スペルマン枢機卿は、このストライキを中止させるために、地元のメリノール宣教会神学校の在俗会員たちや、自分の管理下にある大司教区神学生たちを使い、この墓地で彼らに墓掘りをさせた。枢機卿はこの組合運動を「共産主義者に感化されたもの」と呼んだ。「カトリック・ワーカー」関係の労働者たちも、このストライキでピケを張っており、ドロシーは枢機卿が労働者たちと彼らの要求、団結により自分たちの権利・人間としての尊厳を守ることを「誤解して」いると手紙で伝えた。彼女は、賃金についての論争を、何よりもはるかに重要であると考えた。ドロシーは、論争を解決するための第一歩を踏み出してほしい、と枢機卿に乞うた。「彼らのところへ行き、彼らを宥めて下さい。偉大なるものは、貧しいものより簡単に、白旗を挙げることができます。」。枢機卿は素早く対処し、この組合の構成員たちが大司教区独自の申し出である週48時間・6日間労働を受け入れ、このストライキは3月11日に終わった。ドロシーは4月付の「カトリック・ワーカー」紙に次のように書いた。「枢機卿は、無分別に、貧しい労働者の組合に対し、圧倒的な力の誇示を行った。全ての争いの中で最も恐ろしい悪魔の誘惑、聖職者と一般人の間の戦いがここにある。」。数年後、ドロシーは枢機卿と相対する立場を取ったことを次のように説明している。「枢機卿は私たちの司祭や聴罪司祭の長です。ニューヨークに住む私たち全ての霊的指導者です。しかし、主権者ではありません。」。1951年3月3日、ニューヨーク大司教区はドロシーに出版をやめるか、またはドロシーの出版するものから「カトリック」の語を取り去るように勧告した。ドロシーは丁重な手紙を書き、その中で「カトリック退役軍人会」(the Catholic War Veterans)が、ニューヨーク大司教区から独立したその名前とその会独自の主張意見を持っているのと同様に、自分も「カトリック・ワーカー」紙を発行する権利を主張した。これに対し、大司教区はアクションを起こさず、後にドロシーはたぶん、司教区当局はカトリック・ワーカーの構成員たちが枢機卿側が折れるよう、徹夜で祈りを挙げる動きに出ることを望まなかったのだろうと推測し、次のように言った。「我々は大司教のいるセント・パトリック大聖堂に行き、そこを埋め尽くし、その外側で祈りと瞑想をする準備ができていた。私たちは、私たちが考えていることを話すことができ、正当な行為だと信ずることを行うという、アメリカにおいて与えられている自由の権利を使う準備ができていた。」[48]。
1960年、ドロシーはフィデル・カストロによる「社会主義的判断の約束」(promise of social justice)を称賛し、次のように語った。「激しい反乱を起こすことは、貧困に喘いでいる者たちに対して何もしないよりもずっと良い。」[55]。数ヵ月後、ドロシーはキューバまで旅行し、カトリック・ワーカー紙において4シリーズに渡って旅行記を載せた。その最初の記事では次のように書いている。「私は最も興味を持ったのは、人々の宗教生活、そしてそこが宗教を根絶させるような体制には決していないことだ。その一方で、この体制が人々の良い生活のために努力する方向に向いていないなら、(神の慈悲に基づくことで築くことができる)良い生活を求めるものたちは、自然と、その摂られる処置に賛成しない訳にはいかない。」[56]。
ドロシーは第2バチカン公会議が「現代世界憲章」(1965年)の「現代における教会」の中での声明で、核戦争がカトリック教会の伝統的な正戦論とは相入れないとしたことに喜びの声を寄せた。「あらゆる都市、または広大な範囲の居住地域を無差別に破壊する方向へ向かう戦争の動きはそれぞれ、神と人間に対する犯罪である。そして、これは明確に非難に値する。」[59]。ドロシーがカトリック労働者運動を評価した書籍「パンと魚(現代的利得)」(Loaves and Fishes)が1963年に出版された。ドロシーは60年代反体制文化について、その反体制という点では共鳴していたものの、それとは微妙に異なる考え方をしていた。
^Forest, Jim (2011). All is Grace: A Biography of Dorothy Day. Maryknoll, NY: Orbis Books. pp. 44–7
^Forest, Jim (2011). All is Grace: A Biography of Dorothy Day. Maryknoll, NY: Orbis Books. pp. 56–7 Tobey later founded the Literary Guild
^Forest, Jim (2011). All is Grace: A Biography of Dorothy Day. Maryknoll, NY: Orbis Books. p. 65
^Forest, Jim (2011). All is Grace: A Biography of Dorothy Day. Maryknoll, NY: Orbis Books. pp. 65–6
^Forest, Jim (2011). All is Grace: A Biography of Dorothy Day. Maryknoll, NY: Orbis Books. p. 67ff.
^Day, Dorothy (May 1978). “On Pilgrimage”. The Catholic Worker: 2.
^Forest, Jim (2011). All is Grace: A Biography of Dorothy Day. Maryknoll, NY: Orbis Books. pp. 74–86 Her baptism was conditional, because she had already been baptized in the Episcopal Church.
^A Russian neighbor's sister had named her daughter Tamar, and Day was impressed by St.Teresa of Avila, whose biography she had recently read. Miller, William D. (1982). Dorothy Day: A Biography. NY: Harper & Row. p. 184
^Forest, Jim (2011). All is Grace: A Biography of Dorothy Day. Maryknoll, NY: Orbis Books. pp. 90–95
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^Sheila Webb, "Dorothy Day and the Early Years of the Catholic Worker: Social Action through the Pages of the Press", in U.S. Catholic Historian, Vol. 21, No. 3, Summer, 2003, 84-8, JSTOR, accessed January 30, 2014
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^Merriman, Bridget O'Shea (1994). Searching for Christ: The Spirituality of Dorothy Day. Notre Dame, IN: University of Notre Dame Press. pp. 100–107, 124–127
^All the Way to Heaven: The Selected Letters of Dorothy Day, Robert Ellsberg, ed., Milwaukee: Marquette University Press, p. 301
^December 8, 1941 speech to the Liberal-Socialist Alliance, New York City, quoted in Sandra J. Sarkela, Susan Mallon Ross, Margaret A. Lowe, From Megaphones to Microphones: Speeches of American Women, 1920-1960, 2003, pp. 191-192