ティム・ダンカン Tim Duncan
引退 愛称
Timmy Big Fundamental[ a] Basic Duncan[ b] 国籍
アメリカ合衆国 アメリカ領ヴァージン諸島 生年月日
(1976-04-25 ) 1976年 4月25日 (48歳) 出身地
アメリカ領ヴァージン諸島 セント・クロイ島 身長(現役時)
211 cm (6 ft 11 in) 体重(現役時)
113.5 kg (250 lb)[ c] ウィングスパン(現役時)
224cm (7 ft 4 in) キャリア情報 高校
セントダンスタンズ・エピスコパル (英語版 ) 大学
ウェイク・フォレスト大学 NBAドラフト
1997年 / 1巡目 / 全体1位 [1]
プロ選手期間
1997年–2016年 ポジション
PF / C 背番号歴
21 永久欠番
スパーズ 21 指導者期間
2019年–2020年 経歴 選手時代: 1997 –2016 SAS サンアントニオ・スパーズ コーチ時代: 2019–2020 サンアントニオ・スパーズ (AC) 受賞歴
5× NBAチャンピオン (1999, 2003, 2005, 2007, 2014)
3× NBAファイナルMVP (1999, 2003, 2005)
2× NBAシーズンMVP (2002–2003)
15× NBAオールスター (1998, 2000–2011, 2013, 2015)
NBAオールスターゲームMVP (2000[ d] )
10× オールNBAファーストチーム (1998–2005, 2007, 2013)
3× オールNBAセカンドチーム (2006, 2008–2009)
2× オールNBAサードチーム (2010, 2015)
8× NBAオールディフェンシブ・ファーストチーム (1999–2003, 2005, 2007–2008)
7× NBAオールディフェンシブ・セカンドチーム (1998, 2004, 2006, 2009–2010, 2013, 2015)
NBAルーキー・オブ・ザ・イヤー (1998)
NBAオールルーキー・ファーストチーム (1998)
NBAチームメイト・オブ・ザ・イヤー賞 (2015)
NBAオールスター シューティング・スター 優勝 (2008)
NBA75周年記念チーム
No. 21 サンアントニオ・スパーズ永久欠番
USAバスケットボール 男子年間最優秀選手 (2003)
スポーツ・イラストレイテッド スポーツマン賞 (2003)
コンセンサス・全米カレッジ年間最優秀選手賞 (1997)
2× オールアメリカン ・コンセンサスファーストチーム (1996,1997)
3× NABC年間最優秀守備選手賞 (1995–1997)
2× ACC 年間最優秀選手賞 (1996–1997)
No. 21 ウェイクフォレスト・デーモンディーコンズ 永久欠番 NBA通算成績 得点
26,496 (19.0 ppg) リバウンド
15,091 (10.8 rpg) アシスト
4,225 (3.0 apg) ブロック
3,020 (2.2 bpg)
Stats Basketball-Reference.com
バスケットボール殿堂入り選手 (詳細 )
カレッジバスケットボール殿堂入り (2017年) 代表歴 キャップ
アメリカ合衆国 1995-2004
ティモシー・セオドア・ダンカン (Timothy Theodore Duncan、1976年 4月25日 - )はアメリカ領ヴァージン諸島 ・セント・クロイ島 クリスチャンステッド出身の元プロバスケットボール 選手。身長211cm、体重114kg[ 1] 。ポジションはパワーフォワード [ 2] 、センター 。NBA のサンアントニオ・スパーズ 一筋で19年にわたり活躍し、スパーズに5度のNBAチャンピオン をもたらした。また2019–20 シーズンはサンアントニオ・スパーズ のアシスタントコーチを務めた。
ウェイク・フォレスト大学 時代にカレッジバスケの個人賞を総舐めにした後、1997年のNBAドラフト にてサンアントニオ・スパーズから全体1位指名を受けてNBA入り。以後スパーズの黄金期を築き上げ、NBAファイナル を5回制覇。個人としてもNBAルーキー・オブ・ザ・イヤー 、シーズンMVP 受賞2回、ファイナルMVP 受賞3回、デビューしてから2010年まで13シーズン連続で、オールNBAチーム 、NBAオールディフェンシブチーム 、オールスター (ロックアウトの影響で開催されなかった1999年 を除く)に選ばれ続けた[ 3] [ 4] 。オールディフェンシブチーム選出15回は史上最多。プレイに華やかさはなく、効率的かつ基本に忠実なプレーをするため「地味」というイメージが付き纏うことが多いが、同時にその圧倒的な実績から多くの場面で史上最高のパワーフォワード と称されている[ 5] [ 6] [ 7] 。どんな試合状況であっても常に冷静な判断を失わず[ 8] 、基本に忠実なプレースタイルからThe Big Fundamental (大いなる基礎)の愛称で知られる。
生い立ち
ティモシー・セオドア・ダンカンはメキシコ湾 と大西洋 の境に浮かぶアメリカ領ヴァージン諸島 (アメリカ合衆国 の保護領)のセント・クロイ島 で、石工職人の父ウィリアムと助産婦の母イオンの間で生まれた[ 9] 。姉が2人おり(シェリルとトリシア)、姉の影響でダンカンは幼なじみのラジャ・ベル らと共に水泳 を始め、トリシアのようなオリンピックレベルの選手になることを夢見た。家族の支えもあってダンカンの水泳の腕は上達し、自由形50m、100m、400mの1992年バルセロナオリンピック アメリカ代表入りを目指し、ヴァージン諸島代表としてジュニアオリンピックにも出場している[ 10] [ 11] 。しかし1989年に巨大ハリケーン(ヒューゴ)が島を襲い、島で唯一国際大会レベルの競泳が可能なプールが使用不能になってしまったことでダンカンは水泳への情熱を失ってしまった[ 12] 。不幸は続き、彼が14歳の時に母を乳がん で失い、大きな精神的痛手を受けた。バスケットボールを始めたのは中学3年生の時、義理の兄弟の影響を受けてからで、後にバスケット界の頂点を極める選手としては遅いキャリアのスタートであり、始めたての頃はバスケットへの順応に苦労したようである。セント・クロイ・カントリー学校の体育教師は当時のダンカンを「ティムはとても大きかった。大きくて高くて、でもその頃の彼はとても不器用だった」と回想している[ 13] [ 14] 。
ダンカンはこの欠点をエスプコパル高校で克服。4年生の頃には平均25得点をあげる有望な選手となっており、いくつかの大学の関心を引いた。16歳の時にはNBAスターのアロンゾ・モーニング との5対5のピックアップゲームに参加する機会を恵まれており、この試合を見ていたウェイク・フォレスト大学 バスケットボール部コーチのデイブ・オドムがダンカンに大きな興味を持った。当時彼はインサイドでフィジカルにプレイできるビッグマンを探しており、ダンカンはその要求に十分応えられる逸材だった。ダンカンのもとにはハートフォード大学 、デラウェア大学 、プロビデンス大学 からの勧誘もあったが、ダンカンはウェイク・フォレスト大学デーモン・デーコンズに加わることを決めた。
ウェイク・フォレスト大学
ウェイク・フォレスト大はダンカンが入部する前にチームのエースだったロドニー・ロジャース が1993年のNBAドラフト でNBA入りしてしまったため、彼にかわるチームの柱を求めていた。ダンカンにその期待が掛かったが、最初の頃はカレッジバスケへの対応がうまくいかず、無得点の試合さえあり、1年目の1993‐94シーズンは平均9.8得点9.6リバウンドの成績に終わるが、シーズンが進むごとに徐々に存在感を増していき、ウェイク・フォレスト大は20勝11敗の成績を残した。ダンカンのプレースタイルは単純だったがとても効果的であり、豊富な引き出しを持つポストプレー、ミドルレンジからのバンクショット、厳しいディフェンスは強力な武器となり、1994年のグッドウィルゲームズ ではアメリカ代表に選ばれた。当時からダンカンはストイックで無駄を一切排したプレースタイルだったため、カレッジバスケファンは、彼のそんな「地味」なスタイルをなじる意味で"Mr. Spock"(感情を表に出さないスタートレック の登場人物)というニックネームをつけた。バスケットボールに精を出す一方、学生の本分である学業にも熱心に取り組み、心理学の学位取得を目指し、また人類学や中国語のクラスも取った。大学心理学主任教授デボラ・ベストは「彼は私の特別優秀な学生たちの一人だった。彼らとダンカンを見分けられるのは身長だけだ」と語っている。
2年目の1994‐95シーズンにダンカンの評判は益々高まり、ジョー・スミス やラシード・ウォーレス 、ジェリー・スタックハウス らと共に将来NBAで活躍するだろうと目されるようになった。ロサンゼルス・レイカーズ のゼネラルマネージャー 、ジェリー・ウェスト はダンカンに1995年のNBAドラフト にアーリーエントリーするよう勧めた。NBAは1996年にサラリーキャップ 制度に新たにルーキーの契約に制限を設けるルーキーサラリーキャップ制度を導入する予定であり、その前にNBA入りすればダンカンのもとにはより多くの契約金が入ってくるはずだったが、ダンカンはお金よりも大学生活をとった。14歳の時に亡くなった母が常々大学だけは卒業するよう言っていたため、その遺志に従ったのである。ダンカンはこのシーズン、ウェイク・フォレスト大をACC トーナメント決勝に導き、この場でラシード・ウォーレス擁するノースカロライナ大学 と対戦。試合はチームメートのランドルフ・チルドレス が残り4秒で劇的な決勝点を決めてウェイク・フォレスト大が勝利したが、ダンカンはNBA入り後もライバルの一人となるウォーレスを封じ込め、チームの勝利に貢献した。ウェイク・フォレスト大はNCAAトーナメント のSweet16まで進出し、オクラホマ州立大学 との試合でダンカンは12得点22リバウンド8ブロックの活躍を見せたが、チームは敗退した。ダンカンはこのシーズン、前年を大きく上回る平均16.8得点12.5リバウンドをあげ、3.98ブロックはNCAA 史上3位となる好記録となり、年間最優秀守備選手賞とオールACC1stチームに選ばれた。
1995-96シーズンに入る前、チームの中心選手だったランドルフ・チルドレスが大学を去り、NBA入りしたため、ダンカンのチーム内での重要性は益々高まった。ダンカンはこの機会にリーダーとして大きく成長し、見事な統率力でチームを率い、シーズン中は僅か4敗しかしなかった。しかしNCAAトーナメント中にダンカンは風邪を患ってしまい、チームは再びSweet16で敗退している。ダンカンのこのシーズンの成績は平均19.1得点12.3リバウンドでACCの得点王、リバウンド王、ブロックショット王、フィールドゴール成功率1位に輝き、この4部門でカンファレンス1位となったACC史上初の選手となった。2年連続の最優秀守備選手賞とACC年間最優秀選手、オールアメリカ1stチームに選ばれた。シーズン終了後にはダンカンがNBAドラフト にアーリーエントリーするのではないかという噂が立ったが、結局ダンカンは大学に残った。
大学での最終年となる1996‐97シーズンには216cmのローレン・ウッズ が加わり、チームのロスターは充実。開幕から13連勝を記録するもシーズン後半に調子を崩してしまい、3年連続のACCタイトル獲得はならなかったが、NCAAトーナメントではSweet16でブレビン・ナイト 擁するスタンフォード大学 を72‐66で降し、念願のElite8進出を果たしている。ダンカンの成績は最終年にしてついに大台の平均20得点10リバウンドを突破する20.8得点14.7リバウンド3.2アシスト、フィールドゴール成功率60.6%をあげ、NCAA1部リーグのリバウンド王に輝くと共に先例のない3年連続の最優秀守備選手賞を受賞。さらに2年連続となるオールアメリカ1stチームとACC年間最優秀選手賞、全米バスケットボール記者協会選出の年間最優秀選手、ネイスミス賞 、ジョン・ウッデン賞 とカレッジバスケ界の主要個人賞を総なめにした。
ダンカンの大学4年間の成績は平均16.5得点12.3リバウンドとなり、ウェイク・フォレスト大は彼の在学中97勝31敗の成績をあげた。通算481ブロックはNCAA史上2位となり、またNCAA史上10人しかいない通算2,000得点1,500リバウンド以上達成者の一人となり、史上初となる通算1,500得点1,000リバウンド400ブロック200アシスト以上達成者にもなった。ダンカンはウェイク・フォレスト大学での4年間を全うし、満を持して、1997年のNBAドラフト にエントリー。1995年のNBAドラフト でケビン・ガーネット が高校卒業後すぐにエントリーしたことが象徴するように、ドラフト候補生は年々低年齢化していくなかで、ダンカンのように大学で丸々4年間プレイすることは珍しい例となる。
NBA・サンアントニオ・スパーズ
ツインタワー
NBAにとっては待たされたダンカンのNBAドラフトエントリーだったが、彼を指名できる幸運を得られたのがサンアントニオ・スパーズ だった。リーグ屈指の強豪チームであるはずのスパーズがドラフト全体1位指名権を獲得できたのは、前年1996-97シーズン に大黒柱のデビッド・ロビンソン がシーズンをほぼ全休してしまい、その影響で20勝62敗、リーグワースト3位の成績となったからである。ドラフト抽選で見事に1位指名権を射止めたスパーズのグレッグ・ポポヴィッチ ヘッドコーチは、迷わずその1位指名権をダンカンに行使。ダンカンはスパーズに入団することになった。当時スパーズは1位指名権を得るために故意に多く負けたと巷で囁かれたことは、ダンカンに対する期待の高さの表れでもあった。ダンカンのスパーズ入団は強力なビッグマンデュオ、すなわちツインタワー の形成を意味した。216cmのロビンソンはリーグのベストセンター の一人であり、その傍らにカレッジバスケの個人賞を総なめにした身長211cmのダンカンが居座る(NBA入り当初は公称213cmだった)ということは、対戦するチームにとっては悪夢でしかなかった。なお、大学時代はセンターを務めていたダンカンだが、スパーズではロビンソンがいるため、パワーフォワード にコンバートされている。ツインタワーはダンカン、ロビンソン双方にとって大きくプラスに働いた。人格的にも優れたロビンソンからダンカンはNBAで活躍するための多くのノウハウを学び、またその実力は誰もが認めながらもリーダーシップに欠けると度々指摘を受けてきたロビンソンは、ダンカンの入団でその負担が大きく軽減された。
ダンカンはNBA入りした時点ですでに超一流の選手だった。公式戦デビュー戦で15得点10リバウンド2ブロックを記録したダンカンは、3戦目のシカゴ・ブルズ との試合では当時リーグ屈指のローポストディフェンダーだったデニス・ロッドマン とマッチアップし、19得点22リバウンドをあげた。毎晩のようにダブル・ダブル を重ね、全ての月間新人賞を独占。オールスターゲーム にもコーチ推薦ではあるが出場。平均21.1得点11.9リバウンド2.7アシスト2.5ブロックの成績を残し、当然のように新人王 を受賞すると共に、新人としては異例となるオールNBA1stチームとオールディフェンシブ2ndチームにも名を連ねた。新人ながらオールNBA1stチームに選出されるのはラリー・バード 以来であり、ダンカンはNBA入り1年目にして早くもリーグ最高の選手の一人に数えられるまでになった。決して派手さは無いものの、フレッシュマンながらすでにベテランの雰囲気を漂わせるダンカンの抜群の安定感に、百戦錬磨のベテランスター選手たちも賞賛を惜しまなかった。同じポジションのスター選手、チャールズ・バークレー は来る21世紀に掛けて「俺は未来と会ってきた。そしてそいつはNo.21(ダンカンの背番号)を着ていた」と、相棒ロビンソンは「彼は本物だ。私は彼の態度と努力を誇りに思う。彼はすべての事に必要以上の努力と労力を払い、よりよい選手になろうとしている」とコメントしている。驚異の新人ダンカンに"提督"ロビンソンのツインタワーに率いられたスパーズは前年の不振が嘘のように快進撃を続け、前年から36勝を上積みする56勝26敗の成績を残した。プレーオフではジェイソン・キッド 擁するフェニックス・サンズ と対戦。第1戦でダンカンの32得点10リバウンドの活躍により波に乗ったスパーズは3勝1敗でサンズを降し、カンファレンス準決勝に進出。ユタ・ジャズ とのシリーズでは当時史上最高のパワーフォワードと謳われていたカール・マローン とのマッチアップが実現した。第1戦ではダンカンの33得点に対しマローンは25得点、第2戦ではダンカンの26得点に対しマローンは22得点と、ダンカンはマローン相手にも譲らなかったが、シリーズが進むにつれて徐々に経験豊富なマローンに主導権を握られ、チームは1勝4敗で敗退した。
1999年の優勝
ダンカンにとってNBA2年目の1998-99シーズン はロックアウト 発生により開幕が2月にまでずれ込み、レギュラーシーズンが通常の82試合から50試合に短縮されるという異例の事態から始まった。スパーズは開幕から6勝8敗と成績が伸び悩み、ポポヴィッチHCは非難の矢面に立たされたが、彼らのヘッドコーチをツインタワーが救い、以降の試合を31勝5敗、勝率.861という驚異的な成績で切り抜け、最終的には37勝13敗とした。この頃にはほぼ対等だったツインタワーの力関係に変化が見られ、33歳となっていたロビンソンはチームの主役を彼より一回りも若いダンカンに譲り、自らは積極的にダンカンのサポート役に回った。ダンカンは平均得点・リバウンド・ブロックでチーム1位となる21.7得点11.4リバウンド2.4アシスト2.5ブロックの成績を残し、オールNBA1stチームとオールディフェンシブ1stチームに選出される。プレーオフ1回戦ではダンカンと同い年ながらNBAでは2年先輩のケビン・ガーネット が率いるミネソタ・ティンバーウルブズ と対戦し、3勝1敗で降すと、カンファレンス準決勝ではシャキール・オニール 、コービー・ブライアント 擁するロサンゼルス・レイカーズ を4戦全勝で一蹴。カンファレンス決勝でも大学時代からのライバルであるラシード・ウォレース が所属するポートランド・トレイルブレイザーズ をやはり4戦全勝で降し、ついにチーム史上初のNBAファイナル 進出を果たす。
2003年優勝後、ホワイトハウスに招かれたサンアントニオ・スパーズのメンバー(中央がティム・ダンカン)
ファイナルでは第8シードから奇跡的なファイナル進出を果たしたニューヨーク・ニックス と対決。ニックスの顔はデビッド・ロビンソンと共にリーグトップセンターの一角を成したパトリック・ユーイング だったが、ユーイングは故障でファイナルを全休。戦前から大黒柱不在のニックスに対し、ツインタワー擁するスパーズが有利であろうと予想され、現実もその通りとなった。初のファイナルという大舞台に第1戦前半のダンカンは僅か4得点2リバウンドに終わったが、後半に入ると復調し、終わってみれば33得点16リバウンドでチームを勝利に導いていた。ニックスにもベテランのラリー・ジョンソン や将来有望なカート・トーマス 、マーカス・キャンビー らが居たが、ツインタワー相手には力不足で、インサイドの主導権は完全にスパーズが握り、第2戦も勝利して2連勝を飾った。このシリーズにはヴァージン諸島からも大応援団が駆けつけており、スパーズのホーム・アリーナ、アラモドーム の客席は満杯となり、第2戦で記録された観客動員数39,554人はNBA新記録となった。第3戦ではニックスのガード陣、ラトレル・スプリーウェル やアラン・ヒューストン の活躍でスパーズは不覚を取ってしまうものの、第4戦ではツインタワーがニックスを圧倒。ダンカンとロビンソンの2人だけでニックスの総リバウンド数を上回る35リバウンドをあげ、優勝に王手を掛けた。第5戦ではダンカンとニックスのスプリーウェルの一騎討ち となり、試合の行方は最後までもつれた。そして76‐77とスパーズが1点のビハインドを抱えたまま残り1分を切り、逆転を狙うスパーズはダンカンにボールを託し、そしてニックスもダンカンにダブルチームを仕掛けた。ダンカンはすぐにチームメートのショーン・エリオット にパスを送り、そしてエリオットはコーナーサイドでフリーで待つエイブリー・ジョンソン にパス。ジョンソンのジャンプシュートが決まり、スパーズに劇的な逆転勝利をもたらした。シリーズ4勝目をあげたスパーズがチーム史上初の、そしてロビンソンにとってもNBA10年目の節目の年に初めての優勝を果たし、そしてダンカンはNBA入り2年目にして最初のチャンピオンリングを手に入れると共に、シリーズ平均27.4得点14.0リバウンドの成績でチームを優勝に導いたとして、ファイナルMVP の称号も手に入れた。2年目でのファイナルMVP受賞はカリーム・アブドゥル=ジャバー と並ぶ歴代2番目の速さである(マジック・ジョンソン はルーキーイヤーに受賞)。
レイカーズの壁
早くもNBAにおける最大の成功を手にしてしまったダンカンだったが、チャンピオンチームとして臨んだ1999-00シーズン も慢心することなく、平均23.2得点12.4リバウンドを記録してもはや常連となったオールNBA1stチーム、ディフェンシブ1stチームに選ばれると共に、24得点14リバウンド4アシストをあげたオールスターゲームではシャキール・オニールと共にオールスターMVPを共同受賞した。しかしスパーズ自体はチームの高齢化に悩む時期に入っており、デビッド・ロビンソンやエイブリー・ジョンソン、ショーン・エリオット、マリオ・エリー ら主力選手は皆30代半ばに入っており、チーム全体に疲弊が見られ、このシーズンは53勝29敗とチャンピオンチームとしてはやや物足りない成績に終わった。また前年ついに優勝を果たしたスパーズだったが、通常の82試合を戦い抜いた上での優勝ではないため「本物の優勝ではない」という声が周囲からあがっており、正当な評価を受けるためにもスパーズとダンカンには連覇の期待が掛かったが、ダンカンは肝心のプレーオフでチームの力になれなかった。ダンカンはレギュラーシーズン終盤で負った怪我が回復せず、プレーオフ全休を強いられ、チームのエースを失ったスパーズは1回戦でサンズの前に敗退してしまった。このオフにフリーエージェント となったダンカンはオーランド・マジック からオファーを受け、一時は移籍寸前までいったが、バカンス中だったロビンソンが慌ててダンカンのもとを訪れ、スパーズに残留するよう説得。結局ダンカンはマジックのオファーを断って、スパーズと再契約を結んだ。
翌2000-01シーズン に怪我から回復したダンカンは平均22.2得点12.4リバウンド、オールNBA、ディフェンシブ両チームで1stチーム入りするという例年通りの成績を残し、スパーズもデレック・アンダーソン 、アントニオ・ダニエルズ といった若い血をチームに注ぎ、前年を上回る58勝24敗を記録。プレーオフでは1回戦でティンバーウルブズを3勝1敗で、カンファレンス準決勝では後にダンカンとスパーズの強力なライバルとなるダーク・ノヴィツキー 擁するダラス・マーベリックス との初対決を4勝1敗で制し、ここまで順調に勝ち上がったが、カンファレンス決勝で前年チャンピオンのロサンゼルス・レイカーズが立ちはだかる。シャキール・オニールにコービー・ブライアントという強力なデュオに率いられ、当時黄金期を迎えていたレイカーズにスパーズは全く歯が立たず、屈辱の4戦全敗を喫した。ダンカンはシリーズ第2戦で40得点をあげるなど奮戦したが、第3戦では9得点、第4戦では15得点に終わるなど不甲斐ない場面も見られた。スポーツ・イラストレイテッド 誌はこのシリーズのスパーズを哀れみをもって「無慈悲で不公平な組み合わせ」と評し、またダンカンを「スパーズが最も必要とする時に消えてしまう」と酷評した。
2季連続で期待外れの結果に終わったスパーズとダンカンだったが、2001-02シーズン のダンカンは個人としては絶頂期を迎えた。ダンカンはキャリアで初めてとなる平均40分以上の出場を果たし、キャリアハイとなる平均25.5得点を記録。他にも12.7リバウンド3.7アシスト2.5ブロックと多くの部門で軒並み高い数字を残し、シーズン通算1,042リバウンド、フィールドゴール成功数764本、フリースロー成功数560本はリーグ1位となった。また苦手としているフリースローでも成功率.799とダンカンとしては非常に良い数字を残してる。当然のようにオールNBA、ディフェンシブ1stチームに選ばれると共に、シーズンMVP も初受賞した。スパーズは新たにブルース・ボウエン とスティーブン・ジャクソン を獲得し、このシーズンも58勝24敗の好成績を維持したが、プレーオフでは結果を残せなかった。1回戦では全盛期を遥かに過ぎたシアトル・スーパーソニックス に3勝2敗にまで粘られると、カンファレンス準決勝ではまたもやレイカーズの前に1勝4敗で完敗。ダンカンはこのシリーズで平均29.0得点17.2リバウンドの成績で前年の酷評を打ち消す大活躍だったが、スパーズはロビンソンが36歳となっており、ダンカンをサポートできる選手の補強が急務となった。
新しい仲間とツインタワーの終焉
2002-03シーズン も、平均23.3得点のほかキャリアハイとなる12.9リバウンド3.9アシスト2.9ブロックを記録し、2年連続シーズンMVP受賞を達成する。チーム改革を進めるスパーズは1999年の優勝を知る者はダンカンとロビンソン、マリック・ローズ 、スティーブ・カー の4人のみとなり、すでにエイブリー・ジョンソンやショーン・エリオットらの姿は無かった。新たにチームの核を形成するのはシューティングガード のスティーブン・ジャクソンに守備のスペシャリストであるブルース・ボウエン、そしてこの年から加わったフランス人 ポイントガード のトニー・パーカー とアルゼンチン人 ペネトレイターのマヌ・ジノビリ だった。特にダンカンとパーカー、ジノビリ、ボウエンらは今後数年に渡ってスパーズ不動の中心選手となる。そしてダンカンの盟友デビッド・ロビンソンはこのシーズン限りをもって引退する意思を示しており、ポポヴィッチHCは彼にプレーオフに集中してもらうためにレギュラーシーズン中の出場を制限した。高齢化問題を解消し、若手、中堅、ベテランとバランスの良い布陣となったスパーズは60勝22敗、リーグ1位の勝率でプレーオフに突入した。スパーズは1回戦でステフォン・マーブリー 擁するフェニックス・サンズ に苦戦しながらも4勝2敗で破ると、カンファレンス準決勝で宿敵レイカーズと対決。ダンカンはシリーズが決した第6戦で37得点16リバウンドをあげるなどし、スパーズは4勝2敗で宿願となる打倒レイカーズを果たすとともに3年間続いたレイカーズによるリーグ支配に終止符を打った。カンファレンス決勝でマーベリックスを降したスパーズは、1999年以来となるファイナルに進出。ジェイソン・キッド 率いるニュージャージー・ネッツ と対決するが、ネッツにはダンカンに抵抗できるようなビッグマンはおらず(ディケンベ・ムトンボ が居たが、故障とバイロン・スコット ヘッドコーチとの確執などで満足にプレイできなかった)、ダンカンは第1戦から思う存分暴れ回り、32得点20リバウンド6アシスト7ブロック3スティールと5部門全てでチームハイを叩き出し、チームを勝利に導いた。早くもファイナルはスパーズの楽勝ムードに包まれたが、第2戦以降ネッツがダンカンに徹底したダブルチームを敷いたこともあり、ネッツに2敗を喫したスパーズは3勝2敗で第6戦を迎えた。この試合でダンカンは21得点20リバウンド10アシスト8ブロックと、あとブロック2本でクアドルプル・ダブル に迫る快記録を残し、ネッツを粉砕。88対78で勝利したスパーズが4年ぶりの優勝を飾った。ファイナル中平均24.2得点17.0リバウンド5.3アシスト5.3ブロックを記録したダンカンは2回目となるNBAファイナルMVP を受賞。第6戦での8ブロックはファイナルタイ記録、合計32ブロックはパトリック・ユーイング の記録を抜くファイナル新記録となった。この優勝をもって盟友ロビンソンは現役から引退し、6年間他チームの脅威であり続けたツインタワーは終焉を迎えた。シーズン終了後、『スポーツ・イラストレイテッド 』はダンカンとロビンソンを2003年の年間最優秀スポーツ選手に選んだ。
フランチャイズプレイヤーへ
ロビンソンの引退によりスパーズは新たな時代を迎え、パーカー、ジノビリ、ボウエンに加え、多才なトルコ 人フォワードのヒド・ターコルー 、レイカーズ時代にはスパーズを苦しめたロバート・オーリー が加わり、ダンカンにはロビンソンが十余年で築き上げた遺産を引き継ぎ、スパーズの真のリーダーになることが求められた。少なくとも数字上ではダンカンはロビンソン退団前と何ら変わらぬプレイを見せていた。2003-04シーズン は平均22.3得点12.4リバウンドをあげ、チームも57勝25敗と前年から3勝減だったもののリーグ3位の好成績だった。プレーオフ1回戦ではパウ・ガソル が所属するメンフィス・グリズリーズ を4戦全勝で降すと、カンファレンス準決勝で因縁のレイカーズと対決。このシーズン、レイカーズはカール・マローンにゲイリー・ペイトン と大物2人を獲得するという思い切った補強をしていたが、マローンの故障もありレギュラーシーズン中は補強の効果はあまり見られず、成績ではスパーズに劣る56勝26敗の成績だった。スパーズは第1戦、2戦を連勝するも、第3戦ではダンカンが10得点に抑えられたことで敗北すると、以降連敗を重ね、第5戦ではレイカーズのデレック・フィッシャー による残り0.4秒からの大逆転ショットを許し、結局スパーズは4連敗で敗退した。ロビンソンの回想によれば、当初ダンカンはチームリーダーという重責を担うことに抵抗を感じていたらしく、ダンカンが真のリーダーシップを得るには若干の時間を要したようである。
2005年の優勝
ピストンズ(当時)のベン・ウォレスとマッチアップするティム・ダンカン
2004-05シーズン 、ダンカンは故障の影響もあって過去最低となる平均20.3得点11.1リバウンドの成績に終わるが、チームは引き続き好調でこのシーズンは59勝23敗を記録。プレーオフではデンバー・ナゲッツ やスーパーソニックスを破って順調にカンファレンス決勝に進出し、このシーズンスティーブ・ナッシュ を獲得して大躍進を遂げたフェニックス・サンズと対戦。リーグ1位のオフェンス力を誇るサンズ相手にディフェンス重視のスパーズは珍しくハイスコアゲームを展開したが、サンズの脆いディフェンスを突き崩したスパーズが4勝1敗でシリーズを制し、2年ぶりのファイナル進出を果たす。ファイナル、前年レイカーズを破って優勝していたデトロイト・ピストンズ との対決はダンカンにとっては試練となった。ピストンズが誇る2人のビッグマン、ベン・ウォーレス とラシード・ウォーレスを相手にしなければならなかったからである。ベンは4度の最優秀守備選手賞に輝くローポストディフェンスの鬼であり、また大学時代からのライバルであるラシードも厄介な好ディフェンダーだった。ダンカンは2人のウォーレスの徹底したダブルチームに苦み得点が伸び悩んだが、マヌ・ジノビリの活躍もあって第1戦、第2戦をスパーズが連勝する。しかしデトロイト での第3戦、4戦はピストンズが連勝したが、第5戦のロバート・オーリー の価千金の逆転3ポイントシュート で優位に立つも、実力伯仲の両者は3勝ずつしてシリーズは第7戦までもつれた。第7戦では頼れる大黒柱が復活、第3Qでこの日最大の9点ビハインドを背負ったスパーズは、ダンカンが第3Qだけで15得点をあげる活躍を見せ、第4Q最初のダンカンのダンクがスパーズの優勝を決定付けた。逆転を果たしたスパーズはこのリードを守りきり、4勝目を奪取。見事に前年と前々年のチャンピオンチーム同士の頂上決戦を制し、3度目の優勝を果たした。2人のウォーレスに苦しんだダンカンだったが、終わってみればシリーズ平均20.6得点14.1リバウンド、全試合でダブル・ダブルを達成する活躍であり、マジック・ジョンソン 、マイケル・ジョーダン 、シャキール・オニールに続いて史上4人目となる3度目のファイナルMVPを受賞した。周囲からは得点でチームを牽引したジノビリの方が相応しいのではないかとの声もあったが、ポポヴィッチHCは「ティミーの完璧な試合運びはとても健全で、基本的で、時にあまり目立たないものだ。人々は彼が得点しなかったら「彼は何もしなかった」と騒ぐが、彼はとても素晴らしかったし、私達を優勝させた原動力だった」とコメントし、マッチアップしたベン・ウォーレスも「彼は偉大な選手がそうするように、彼のチームを肩に背負い、チャンピオンシップに導いた」と賞賛。もはやダンカンのリーダーシップを疑う者は居なかった。
ビッグスリー
優勝や数多の個人賞と数々の名誉を手に入れたダンカンにとって残された最後の仕事がファイナル連覇だったが、連覇の期待が掛かった2005-06シーズン 、ダンカンは足底筋膜炎 に苦しみ、ルーキーイヤーから続いた平均20得点10リバウンド以上がついに途絶え、18.6得点11.0リバウンドとなり、やはりルーキーイヤーから選ばれ続けたオールNBA1stチームの選考からも漏れ、2ndチーム選出となった。ダンカンの不調に、しかしスパーズはかつてない勢いで勝ち続けた。この頃からビッグスリー と呼ばれていたダンカンにトニー・パーカー、マヌ・ジノビリの力関係に変化が見られ始め、それ以前はダンカンがスパーズの絶対的なエースとして君臨していたが、このシーズンに特にパーカーが急速な成長を見せたため、ダンカンの負担が大きく軽減された。パーカーはダンカンにかわってリーディングスコアラーとしてチームを牽引し、ジノビリは卓越した技術と爆発力でチームに活気をもたらし、そしてダンカンは攻守両面における要としてチームを支える存在となった。スパーズはチーム史上最高勝率となる63勝19敗を記録。プレーオフでは1回戦でサクラメント・キングス を破ると、カンファレンス決勝でダラス・マーベリックスと対決。同じテキサス州 に本拠地を置き、同じパワーフォワード にチームの最重要選手を置く実力伯仲の両者は熾烈な争いを展開。レギュラーシーズン中は故障の影響でプレーをセーブしていたダンカンだったが、プレーオフでは本来の姿を取り戻して見違えるような活躍をし、マーベリックスのエース、ダーク・ノヴィツキー の平均27.1得点に対し、ダンカンは平均32.2得点11.7リバウンドをあげた。しかしダンカンの身を削ったプレイをもってしてもこの激戦を制することができず、第7戦では41得点15リバウンド6アシストをあげるが、延長戦にもつれた末にマーベリックスに惜敗。連覇の夢は叶わなかった。
2007年の優勝
プロ10年目、30歳となる2006-07シーズン を迎えたダンカンは、成績を平均20.0得点10.6リバウンドに回復させ、オールNBA1stチームにも復帰。チームは58勝24敗を記録してプレーオフも順調に勝ち進んだ。このシーズンはレギュラーシーズンで断トツの勝率を残したダラス・マーベリックスが優勝候補だったが、マーベリックスが1回戦で敗退してしまったことで、カンファレンス準決勝でのフェニックス・サンズとスパーズのシリーズが事実上の優勝決定戦となった。サンズとのシリーズは乱闘騒ぎも発生するなど荒れた内容となったが、サンズを得意な相手としているスパーズは4勝2敗でサンズを降すと、カンファレンス決勝ではユタ・ジャズ を破り、ファイナルに進出。クリーブランド・キャバリアーズ とのシリーズでは、キャバリアーズの若きエース、レブロン・ジェームズ にエースキラーのブルース・ボウエンがマッチアップするが、そのボウエンの後ろにダンカンが控えているとあっては、さしものレブロンも手も足も出なかった。チーム間の実力に明らかな差があるシリーズとなったファイナルは、スパーズが4戦全勝でキャバリアーズを一蹴。4度目の優勝を飾ったが、先の3回の優勝と違う点はファイナルMVPを受賞したのがダンカンではなく、トニー・パーカーであったことである。ダンカンもシリーズ平均18.3得点11.5リバウンドと活躍したが、それ以上に平均24.5得点をあげたパーカーの活躍が目覚しかった。しかし優勝のためにダンカンの貢献が不可欠であった点は変わることなく、ポポヴィッチはダンカンを「公分母」とたとえ、「99年、03年、05年と彼の周りには異なるメンバーがいた。ダンカンは彼らを皆受け入れた。ダンカンとのプレイはとても容易で、彼はとても基本的であるため、皆彼に適合し易かったんだ」と語った。またファイナルを観戦したデビッド・スターン NBAコミッショナーは「彼は同世代で最も優れた選手だ」と認めた。
連覇への壁
スパーズに再び連覇のチャンスが訪れた2007-08シーズン は、ダンカンは平均19.3得点11.3リバウンド、スパーズは56勝26敗の成績を残した。プレーオフ1回戦では、元レイカーズで過去に何度もスパーズとダンカンを苦しめてきたシャキール・オニールが電撃移籍してきた、打倒スパーズを目指すフェニックス・サンズと対戦。ダブルオーバータイムにもつれる接戦となった第1戦は、1つ目のオーバータイム終盤で3点ビハインドを背負った状況からダンカンの珍しい3Pシュートが決まるという劇的な場面も見られ、ダンカンが40得点をあげたスパーズが勝利。勢いに乗ったスパーズは4勝1敗でこのシリーズを制した。カンファレンス準決勝ではライジングチームのニューオーリンズ・ホーネッツ と対戦。若手No.1ポイントガードのクリス・ポール に手を焼いたもののこれも4勝3敗で辛うじて退け、夢の連覇にまた一歩近づいたが、ダンカンの前に立ちはだかったのがオニールの放出による一時の低迷から復活したロサンゼルス・レイカーズだった。コービー・ブライアントにパウ・ガソル擁するレイカーズに、ホーネッツとのシリーズで疲弊していたスパーズは1勝するのがやっとで、1勝4敗でまたもやスパーズの連覇はならなかった。
衰えの始まり
2008-09シーズン はダンカンの衰えが指摘され始めたシーズンだった。膝に慢性的な故障を抱えるダンカンは、それでも平均19.3得点10.7リバウンドと立派な成績を残し、チームもダンカンの他にマヌ・ジノビリなどの故障を抱えた状況ながら、ディビジョン1位となる54勝28敗をあげた。しかし1999年の優勝以降に襲われた高齢化問題に再び直面するスパーズは、力を着けたレイカーズやボストン・セルティックス などの優勝候補チームの有力な対抗馬とは見なされず、プレーオフでは1回戦でダラス・マーベリックスの前に敗退。スパーズにとっては2000年以来となる1回戦敗退となった。
2009-10シーズン は主力の高齢化がさらに進み。ポポヴィッチはプレーオフに向けたレギュラーシーズンの徹底的なプレータイムの管理を行った。ダンカンもプロ入り以来最も短いプレータイムとなり、平均17.9得点とキャリア最低の平均得点となりプレーオフに突入した。万全の体調で迎えたプレーオフ一回戦で第2シードのマーベリックスを撃破しアップセットを達成。しかし、カンファレンスセミファイナルではサンズに0勝4敗のスィープを喫しシーズンを終了した。
2010-11シーズン はダンカン率いるスパーズはウェスタンカン・ファレンスを首位で突破。だがプレイオフ初戦でザック・ランドルフ とパウ・ガソル の弟のマーク・ガソル 率いる第8シードのメンフィス・グリズリーズ と対戦。グリスリーズは徹底的にダンカンにマークしてインサイドを制圧し、4勝2敗でチーム史上初のプレイオフで勝利をあげた。第1シードのチームが第8シードのチームに負けることは珍しくファーストラウンドが7試合制になった以降としては史上2回目の出来事だった。
NBAオールディフェンシブチームはティム・ダンカン の通算14回が最高記録
円熟と数々のマイルストーン
2012-2013シーズンには、オールNBAファーストチーム、オールディフェンシブセカンドチームに選出された。
2013年、カンファレンス・ファイナル第3戦で、ダンカンはプレーオフでの通算ダブルダブルを144とし、143回のウィルト・チェンバレン を抜き、歴代2位となった。1位はマジック・ジョンソンの157回、4位はシャキール・オニールの142回、5位はビル・ラッセル の137回である。
レブロン・ジェームズ 、ドウェイン・ウェイド 、クリス・ボッシュ のビッグスリー 擁するマイアミ・ヒート との対決となったNBAファイナルは、近年希に見る接戦となり、これまで4度のファイナル進出ではすべて優勝していたが、初めてファイナル敗退を喫した。
最終戦の勝負所で、ティップショットを外したダンカンは、珍しく感情を露わにし、フロアーを叩いて悔しがった。このファイナル敗退は、生涯忘れることはないだろうと語っている。
2014年プレーオフ、カンファレンスセミファイナル第3戦で、ポストシーズン通算得点で、カール・マローン を抜き歴代5位となった[ 15] 。またこの試合で通算プレーオフ出場試合数を221試合とし、1フランチャイズでの最多出場選手となった。2位はコービー・ブライアント の220試合であり、この試合数は他の15フランチャイズのプレーオフ全試合数よりも多い。複数チームでの出場数では、デレック・フィッシャー の250試合、ロバート・オーリー の244試合、カリーム・アブドゥル=ジャバー の237試合が上位にある。カンファレンス優勝を決めた第6戦の勝利で、ダンカンは通算勝利数を1,042勝とし、歴代4位で、ジョン・ストックトン と並んだ[ 16] 。
マイアミ・ヒート との再戦となった2014年ファイナル第1戦で、21得点(フィールドゴール9/10)10リバウンド、第2戦で18得点15リバウンドを記録し、マジック・ジョンソン のプレーオフ通算ダブルダブル記録の157に並ぶ共に[ 17] 、第1戦では1972年のウィルト・チェンバレン 以来となる、ファイナルで20得点10リバウンド以上でフィールドゴール成功率90%以上の記録を達成した[ 18] 。
ファイナル第3戦に引き続き4戦もアウェイでヒートに圧勝するなかで、4戦で、10得点11リバウンドを記録し、プレーオフ、ダブルダブル記録を158 とし、更にファイナル出場時間もカリーム・アブドゥル=ジャバー を超え、歴代単独1位となった[ 19] 。この更新に関して、ジャバーはツイッター で賞賛のツイート をしている。ファイナル第5戦もヒートを圧倒し、5度目のチャンピオンとなった。通算勝利数は1,046 となり歴代4位となった。1位はジャバーの1,228勝、2位はロバート・パリッシュ の1,121勝、3位はカール・マローン の1,050勝である。シーズン終了後、引退も囁かれたが、プレーヤーオプションを行使し18年目となる2014-2015シーズンも現役続行を決めた[ 20] 。レギュラーシーズン勝利数記録は、ジャバー1,074勝、パリッシュ1,014勝、ジョン・ストックトン 953勝、マローン952勝、この時点でのダンカンは898勝である。
2014-15シーズンは、開幕から安定したプレーで、5戦目のニューオーリンズ・ペリカンズ 戦で、通算800回目のダブルダブルを記録し[ 21] 、11月14日のレイカーズ戦でレギュラーシーズン通算25,000得点目を記録し、ダブルダブルでチームを勝利に導いた[ 22] 。12月05日の対グリズリーズ戦で、14得点10アシスト10リバウンドを獲得し、自身通算8度目(レギュラーシーズン4回)のトリプル・ダブルを記録した。これは、カール・マローン の40歳に次ぎ、38歳244日で第2位の年長記録となった[ 23] 。12月31日のペリカンズ戦を延長で制する中、ウォルト・ベラミー を抜き、歴代10位となる14,250リバウンドを達成し、814回目のダブルダブルで、歴代5位のカール・マローンに並んだ[ 24] 。
2月23日のユタ・ジャズ 戦で、18年連続シーズンリバウンド500以上 を達成し、ロバート・パリッシュと並び、歴代1位 となった[ 25] 。2位は16年でモーゼス・マローン 、カリーム・アブドゥル・ジャバー 。
4月22日、プレーオフファーストラウンド第2戦となるロサンゼルス・クリッパーズ 戦、開始直後、フローティングジャンプショットを決め、プレーオフ通算5,001得点を達成した。歴代で5,000得点以上を達成しているのは、マイケル・ジョーダン (5,987)、カリーム・アブドゥル・ジャバー (5,762)、コービー・ブライアント (5,640)、シャキール・オニール (5,250)とダンカンの5人だけである。オーバータイムとなったこの試合で、28得点、11リバウンドを挙げ勝利に貢献し、通算得点を5,027得点とした[ 26] 。このシーズンは、1stラウンドでロサンゼルス・クリッパーズ に敗れたが、プレーオフ出場試合数は歴代3位 の241試合 に達した。
2015年7月2日、ダンカンは引退説を一掃し、スパーズと1年間の契約を結び、覇権奪回に挑むことになった。
2015–16シーズン 開幕3戦目のボストン・セルティックス 戦で勝利し、トニー・パーカー 、マヌ・ジノビリ とのトリオのレギュラーシーズン勝利数は541勝 となりNBA歴代1位 となった[ 27] [ 28] 。歴代2位のトリオはボストン・セルティックス のラリー・バード 、ケビン・マクヘイル 、ロバート・パリッシュ で、540勝(729試合)。この時点でグレッグ・ポポビッチ とダンカンでの勝利数は953勝でこちらも歴代1位 を更新中であり[ 29] 、カール・マローン とジェリー・スローン の記録と、ジョン・ストックトン とジェリー・スローン の記録がこの記録に次ぐ 。
2015年11月2日、マディソン・スクエア・ガーデン で行われたニューヨーク・ニックス 戦で、16得点、10リバウンド、6アシストを記録し、スパーズを勝利に導き、同一チームに於けるレギュラーシーズン勝利数 を954勝 とし、ユタ・ジャズ で953勝を達成したジョン・ストックトン を抜き、歴代1位 の記録を打ち立てた。3位はユタ・ジャズのカール・マローン の919勝である[ 30] 。
2016年2月26日のヒューストン・ロケッツ 戦で[ 31] 、レギュラーシーズン通算3,000ブロックを記録した[ 32] 。また、6リバウンドを記録し、カール・マローン の通算14,968リバウンドの記録を抜き、歴代6位 となった[ 33] 。
2015-16シーズン終了時点でのリバウンド数[ 34]
順位
プレーヤー
レギュラーシーズン総リバウンド数
プレーオフ総リバウンド数
1
ウィルト・チェンバレン
23,924
3,913
2
ビル・ラッセル
21,620
4,104
3
カリーム・アブドゥル・ジャバー
17,440
2,481
4
エルビン・ヘイズ
16.279
1,244
5
モーゼス・マローン
16.212
1,295
6
ティム・ダンカン
15,091
2,859
7
カール・マローン
14,968
2,062
8
ロバート・パリッシュ
14,715
1,765
9
ケビン・ガーネット
14,662
1,534
10
ネイト・サーモンド
14,464
1,101
2016年3月15日、ホームでのロサンゼルス・クリッパーズ 戦で、ジョン・ハブリチェック を超え歴代14位 となる26,397得点を記録した[ 36] 。4月5日のユタ・ジャズ 戦、レギュラーシーズン1,389試合出場で、カリーム・アブドゥル=ジャバーの1,074勝、ロバート・パリッシュの1,014勝に続き、3人目となる1,000勝 の大台に載せた[ 37] 。4月12日、最終ホームゲームとなったオクラホマシティ・サンダー 戦で出場試合数が1,392 となり、ジェイソン・キッド を超えて歴代7位となった。この試合はオーバータイムの末に勝利し[ 38] 、NBAシーズンホーム最多勝利記録 、1985-86シーズン、ボストン・セルティックス の40勝 (1敗)に並んだ[ 39] 。
2015-16シーズン終了時点での勝利数(勝率)/総勝利数順
順位
プレーヤー
レギュラーシーズン
プレーオフ
総勝利数
1
カリーム・アブドゥル・ジャバー
1,074勝/1,560試合(.688)
154勝/237試合(.650)
1,228勝/1,797試合(.683)
2
ティム・ダンカン
1,001勝/1,392試合(.719)
157勝/251試合(.625)
1,158勝/1,643試合(.705)
3
ロバート・パリッシュ
1,014勝/1,611試合(.629)
107勝/184試合(.581)
1,121勝/1,795試合(.625)
4
カール・マローン
952勝/1,476試合(.645)
98勝/193試合(.508)
1,050勝/1,669試合(.629)
メンフィス・グリズリーズ との対戦となったプレーオフ・ファーストラウンドで、第1戦、第2戦に続き、第3戦、第4戦もスターターとして出場、マーク・ガソル とマイク・コンリー を欠くグリズリーズを問題とせず全て勝利し、プレーオフ通算245試合に出場し、試合数歴代2位の元チームメイトロバート・オーリー を超え、デレク・フィッシャー の259試合に次ぐ歴代2位となった[ 40] 。またこの時点で、プレーオフ通算155勝とし、歴代3位のジャバーの記録を抜き、オーリーと並び歴代2位のプレーオフ勝利数を記録した。2016年終了時で157勝。1位はフィッシャーの166勝[ 41] 。
2016年6月28日、2016-17シーズン の契約 (プレーヤーオプション) を行使して、現役続行を決意した[ 42] [ 43] かに思われた。
現役引退へ
2016年7月11日、スパーズは記者会見を開き、ダンカンの現役引退を発表[ 44] [ 45] [ 46] [ 47] [ 48] 。スパーズに5度の栄冠をもたらしたダンカンは、遂に19年にわたる選手生活に終止符を打ったのであった。
2016年11月16日、スパーズはダンカンが着用していた背番号「21」を永久欠番にすることを発表。同年12月18日のニューオーリンズ・ペリカンズ 戦の試合後に永久欠番セレモニーが盛大に執り行われた[ 49] [ 50] [ 51] 。
2020年4月4日、現役時代の多大な功績から、1月にヘリコプター事故で急逝したコービー・ブライアント らと共に殿堂入り したことが発表された[ 52] 。
チームメイト(デプス)
代表歴
ダンカンは1998年のバスケットボール世界選手権 のアメリカ代表 に選ばれたが、この時はロックアウトの影響でNBA選手の代表入りは見送られ、大学生選手やCBA の選手と入れ替わっている。ダンカンが初めて代表チームに参加したのは1999年のオリンピック予選を兼ねたバスケットボールアメリカ選手権 であり、彼は大会平均12.7得点9.1リバウンド2.4ブロックの成績でチームを優勝に導いた。しかし本番の2000年シドニーオリンピック は膝の故障で参加できなかった。2003年のアメリカ選手権でも代表入りし、平均15.6得点8.0リバウンドを記録して優勝。満を持してアテネオリンピック に出場するも、アメリカ代表は期待を裏切ってダンカンのチームメートであるマヌ・ジノビリ がいるアルゼンチン代表 に敗北するなど同大会で3敗を喫し、銅メダルに終わった。アメリカ代表がオリンピックにNBA選手を送り出すようになって以来、金メダルを獲得できなかったのは初めてのことだった。ダンカンはオリンピック終了後、代表から引退することを表明。ダンカンは代表に5回参加し、40の国際試合に出場した。
プレースタイルと評価
一つ一つのプレーの安定感・正確さ、自己犠牲もいとわないチームを第一に考えた献身的な態度、勝者のメンタリティを持つ精神的に浮ついたところのない逞しさなど、現役時代は最も信頼されたパワーフォワード の一人であった。アウトサイドからのシュートも驚くべき正確性を誇る攻守ともに抜群の才能を見せる。ダンカンがプレイする時代のNBAはパワーフォワード の層が非常に充実しており、彼がNBA入りした頃にはカール・マローン やチャールズ・バークレー 、クリス・ウェバー らが、そして彼の同世代にはケビン・ガーネット やダーク・ノヴィツキー 、ラシード・ウォーレス 、ジャーメイン・オニール らが居たが、そんな猛者たちを抑えてルーキーイヤーから8年連続オールNBA1stチームに選出され続けたことは、彼が同時代における最高のパワーフォワードであったことを意味している。また優勝5回、シーズンMVP2回、ファイナルMVP3回と、過去これに匹敵するほどの実績を残したパワーフォワードはおらず、カール・マローンを指導したユタ・ジャズ のジェリー・スローン HCをしてダンカンを「史上最高のパワーフォワード 」と言わしめたほどである。また11回の優勝を誇るビル・ラッセル はダンカンを「同世代において最も有能な選手」と評し、カリーム・アブドゥル=ジャバー も彼の意見を支持した。
身体能力が高いほうではないが、抜群のバスケットIQと無駄を一切排したプレースタイルで、ダンカンはリーグトップクラスのスコアラーであり、リバウンダーであり、ショットブロッカーであり、ディフェンダーであり、そしてクラッチプレーヤーであった。重要な時間帯ほど多用されるダンカンの1on1は、ミドルポストでディフェンダーと正対した状態から開始され、その場からのジャンプシュートやドライブからのフックシュートなどが展開され、それは至極単純なプレーであるが彼を止めることは困難だった。バックボードの使い方が非常に優れており、バンクショットを得意としていることでも知られ、またパスセンスも高く、ディフェンダーに囲まれた際もフリーの味方にパスアウトできる判断力と柔軟性を持ち合わせていた。通算ダブル・ダブル 達成回数歴代1位という成績が示すように、抜群の安定感を持っていることもダンカンの大きな長所である。スパーズのチームカラーである強力なディフェンスも、ダンカンの存在が根底にあり、ブルース・ボウエン が現役時にはペリメーターにボウエン、インサイドにダンカンと鉄壁の守備が構築され、多くのスコアラーが袋小路に迷い込んでは彼らの餌食となった。さらにプレーオフに入ると個人成績が軒並み上昇することからも分るように、より重要な試合で真価を発揮できる選手である。2001-2002シーズンでは得点、リバウンド、ブロックショットなどの5つの部門でリーグトップ10入りを果たした。彼の唯一の弱点と言われているフリースローはキャリア通算の成功率が70%に届いていないが、致命的に低いというほどのものではない。ただし、シーズンによって59%~79%とバラつきがあると言える。
全試合フル出場の回数こそ少ないものの全てのシーズンで65試合以上出場しており、接触プレーが多いインサイドのポジションを主戦場とするが怪我にも強かった。大黒柱ダンカンの長期欠場が少ないため、チームもダンカンが加入した1997-1998シーズン以降全30チーム唯一の「全てのシーズンで勝率6割以上」を記録している。
勝利への道を最短で行くような彼のプレーはしばしば「退屈である」と指摘され、1999年の優勝時にスポーツ・イラストレイテッド 誌はファイナルMVPに輝いたダンカンを「静かで退屈なMVP」と評し、またシャキール・オニール から付けられたニックネーム、"The Big Fundamental"も最初は決してダンカンを賞賛する意味ではなかった(ただし、スポ・イラもシャックもダンカンが築いた実績に対しては賞賛を惜しまない)。このような評価に対してダンカンは「気にならない。好きなように批評すればいい」と泰然自若の態度である。
個人成績
NBAレギュラーシーズン
シーズン
チーム
GP
GS
勝
敗
勝率
MPG
FG%
3P%
FT%
RPG
APG
SPG
BPG
TO
PPG
1997–98
SAS
82
82
56
26
.683
39.1
.549
.000
.662
11.9
2.7
0.7
2.5
3.40
21.1
1998–99
50
50
37
13
. 740
39.3
.495
.143
.690
11.4
2.4
0.9
2.5
2.92
21.7
1999–2000
74
74
48
26
.649
38.9
.490
.091
.761
12.4
3.2
0.9
2.2
3.27
23.2
2000–01
82
82
58
24
.707
38.7
.499
.259
.618
12.2
3.0
0.9
2.3
2.95
22.2
2001–02
82
82
58
24
.707
40.6
.508
.100
.799
12.7
3.7
0.7
2.5
3.21
25.5
2002–03
81
81
60
21
.732
39.3
.513
.273
.710
12.9
3.9
0.7
2.9
3.06
23.3
2003–04
69
68
51
18
.750
36.6
.501
.167
.599
12.4
3.1
0.9
2.7
2.65
22.3
2004–05
66
66
50
16
.758
33.4
.496
.333
.670
11.1
2.7
0.7
2.6
1.92
20.3
2005–06
80
80
61
19
.763
34.8
.484
.400
.629
11.0
3.2
0.9
2.0
2.48
18.6
2006–07
80
80
58
22
.725
34.1
.546
.111
.637
10.6
3.4
0.8
2.4
2.80
20.0
2007–08
78
78
54
24
.692
34.0
.497
.000
.730
11.3
2.8
0.7
2.0
2.28
19.3
2008–09
75
75
49
26
.653
33.7
.504
.000
.692
10.7
3.5
0.5
1.7
2.20
19.3
2009–10
78
77
47
31
.603
31.3
.518
.000
.725
10.1
3.2
0.6
1.5
1.79
17.9
2010–11
76
76
60
16
.789
28.4
.500
.180
.716
8.9
2.7
0.7
1.9
1.61
13.4
2011–12
58
58
45
13
.776
28.2
.492
.000
.695
9.0
2.3
0.7
1.5
1.67
15.4
2012–13
69
69
50
19
.725
30.1
.502
.286
.817
9.9
2.7
0.7
2.7
2.13
17.8
2013–14
74
74
56
18
.757
29.2
.490
.000
.731
9.7
3.0
0.6
1.9
2.15
15.1
2014–15
77
77
53
24
.688
28.9
.512
.286
.740
9.1
3.0
0.8
1.9
1.7
13.9
2015–16
61
60
50
11
.820
25.2
.488
.000
.702
7.3
2.7
0.3
1.3
1.5
8.6
キャリア
Avg.
73.3
73.1
52.6
20.6
.719
34.0
.506
.179
.696
10.8
3.0
0.7
2.2
2.4
19.0
キャリア
Total
1392
1389
1,001
391
.719
47,368
10,285-20,334
30-168
5,896-8,468
15,091
4,225
1,025
3,020
3,381
26,496
シーズン
チーム
GP
GS
勝
敗
勝率
MPG
FG%
3P%
FT%
RPG
APG
SPG
BPG
TO
PPG
オールスター
ウェスト
15
12
9
6
.600
20.7
.548
.250
.765
9.1
2.1
.9
.5
2.1
9.3
NBAプレーオフ
シーズン
チーム
GP
GS
勝
敗
勝率
MPG
FG%
3P%
FT%
RPG
APG
SPG
BPG
TO
PPG
1997–98
SAS
9
9
4
5
.444
41.6
.521
.000
.667
9.0
1.9
0.6
2.6
2.78
20.7
1998–99
SAS
17
17
15
2
.882
43.1
.511
.000
.748
11.5
2.8
0.8
2.7
3.06
23.2
1999–00
SAS
0
0
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
2000–01
SAS
13
13
7
6
.538
40.5
.488
1.000
.639
14.5
3.8
1.1
2.7
3.85
24.4
2001–02
SAS
9
9
4
5
.555
42.2
.453
.333
.822
14.4
5.0
0.7
4.3
4.11
27.6
2002–03
SAS
24
24
16
8
.667
42.5
.529
.000
.677
15.4
5.3
0.6
3.3
3.17
24.7
2003–04
SAS
10
10
6
4
.400
40.5
.522
.000
.632
11.3
3.2
0.8
2.0
4.20
22.1
2004–05
SAS
23
23
16
7
.696
37.8
.464
.200
.717
12.4
2.7
0.3
2.3
2.70
23.6
2005–06
SAS
13
13
7
6
.538
37.9
.573
.000
.718
10.5
3.3
0.9
1.9
2.62
25.8
2006–07
SAS
20
20
16
4
.800
36.8
.521
-
.644
11.5
3.3
0.6
3.1
2.95
22.2
2007–08
SAS
17
17
9
8
.471
39.2
.449
.200
.626
14.5
3.3
0.9
2.1
2.41
20.2
2008–09
SAS
5
5
1
4
.200
39.2
.532
-
.607
8.0
3.2
0.6
1.2
1.40
19.8
2009–10
SAS
10
10
4
6
.400
39.2
.520
.500
.478
9.9
2.6
0.8
1.7
2.40
19.0
2010–11
SAS
6
6
2
4
.333
39.2
.478
-
.625
10.5
2.7
0.5
2.5
3.00
12.7
2011–12
SAS
14
14
10
4
.714
33.1
.495
.000
.707
9.4
2.8
0.7
2.1
1.50
17.4
2012–13
SAS
21
21
15
6
.714
35.0
.470
.000
.806
10.2
1.9
0.9
1.6
2.0
18.1
2013–14
SAS
23
23
16
7
.696
32.7
.523
.000
.760
9.2
2.0
0.3
1.3
1.1
16.3
2014–15
SAS
7
7
3
4
.429
35.7
.589
.000
.559
11.1
3.3
1.3
1.4
1.0
17.9
2015–16
SAS
10
10
6
4
.600
21.8
.423
-
.714
4.8
1.4
0.2
1.3
1.0
5.9
キャリア
Avg.
13.4
13.4
8.7
5.2
.625
37.3
.501
.143
.689
11.4
3.0
0.7
2.3
2.5
20.6
キャリア
Total
251
251
157
94
.625
9,370
1,975-3,939
5-35
1,217-1,766
2,859
764
168
568
633
5,172
タイトル・記録
タイトル
ジョン・ウッデン賞:1997
ネイスミス賞:1997
NBAチャンピオン:1999, 2003, 2005, 2007,2014
レギュラーシーズンMVP:2002, 2003
ファイナルMVP:1999, 2003, 2005
オールスターMVP:2000(シャキール・オニール と共同受賞)
ルーキー・オブ・ザ・イヤー:1998
オールNBAチーム
1stチーム:1998, 1999, 2000, 2001, 2002, 2003, 2004, 2005, 2007, 2013
2ndチーム:2006, 2008, 2009
3rdチーム:2010
オールディフェンシブチーム
1stチーム:1999, 2000, 2001, 2002, 2003, 2005, 2007, 2008
2ndチーム:1998, 2004, 2006, 2009, 2010, 2013
NBAオールスターゲーム 出場 : 1998, 2000~2011, 2013, 2015
IBM選手賞:2002
The Sporting News 最優秀選手:2002
ACC50周年記念オールタイムチーム:2003
APBR(Association for Professional Basketball Research)選出の「20世紀の偉大なプロバスケットボール選手100人」の1人:2007
スラムマガジン が選ぶNBAオールタイム選手Top50において第8位:2009
歴代記録
レギュラーシーズン ダブル・ダブル達成試合数 830試合 歴代1位[ 53]
プレーオフ ダブル・ダブル達成試合数 164試合 歴代1位[ 54]
18年連続シーズンリバウンド500以上 歴代1位[ 55]
同一チームに於けるレギュラーシーズン勝利数 954勝 歴代1位 [ 30]
オールNBAチーム、オールディフェンシブチーム両方選出 13年連続(1997-2010) 歴代1位
オールNBAチーム 15回選出 歴代1位
オールディフェンシブチーム 15回選出 歴代1位
個人記録
私生活・家族など
ダンカンの2人の姉、シェリルとトリシアもダンカン同様にスポーツの才能に恵まれ、トリシアは1988年ソウルオリンピック のヴァージン諸島 競泳代表だった。ダンカンは2001年に結婚し、2005年に長女が、2007年には長男が生まれた。ダンカンの元妻、エイミーはサンアントニオ やウィンストン・セーラム 、ヴァージン諸島でチャリティー活動を展開するティム・ダンカン財団を管理していた。財団は年2回、ボウリング とゴルフのチャリティー大会を開催して募金を集めており、2001年から2002年にかけては前立腺がん支援のために35万ドルの募金を集めた。これらの活動が評価され、The Sporting Newsから"Good Guy"を受賞している。
元妻のエイミーとはNBAきってのおしどり夫婦 として知られていたが、2013年 のNBAファイナル 直前に離婚が成立した。なお、元妻との間に生まれた2人の子供の親権は、ダンカンの所有となっている。翌年 7年ぶりにNBAチャンピオンに輝いた時は、2人の子供もコート上に招き入れて喜びを分かち合った。
エピソード
ダンカンが着用する背番号『21』は彼の義理の兄が大学で着けていた番号だった。
趣味はテレビゲームで、日本刀 のコレクターでもある。
2007年4月15日の対ダラス・マーベリックス の試合で、レフェリーのジョーイ・クロフォード によるダブルテクニカル・ファウル コールで退場となった。退場を宣告された理由は、ダンカンがベンチからクロフォードのことを笑ったからだとされている。映像によると確かにダンカンは笑っているが、これがクロフォードに対するものかどうかはわからず、ファウルをコールされた際、ダンカン自身もなぜ自分がテクニカル・ファウルを宣告されたか理解できずに苦笑いしている[ 56] [ 57] 。クロフォードの挑発による、ダンカンの暴言が元であるとし、結果、クロフォードには出場停止処分、ダンカンには暴言を理由に25,000米ドルの制裁金が課された。
30歳を過ぎてからは出場時間を制限するようになり、オールスター以降は得点やリバウンドといった個人成績が一気に下がる傾向にあるが、これは無理にダンカンを出さなくても勝てるというスパーズの自信の表れであり、全盛期は2月の時点でプレーオフをほぼ確定させていたスパーズのチーム状態を測るバロメーターになっていた。
上記の通りシーズン終盤にはプレーオフに照準を合わせるためチームから休養を与えられる事も多いが、2012年のフィラデルフィア・76ers 戦で欠場理由が前代未聞の"old"(年齢による衰え) という理由で休養を命じられた時はさすがのダンカンも苦笑しながらベンチで試合を見つめていた。(休養目的の欠場でも普通はコーチの判断と申告するか適当なケガをでっち上げて無理矢理休ませる事がほとんどである)
その後は休養目的の欠場をNBAが認めるようになった事もあり、公式記録として年齢を理由に欠場したのは後にも先にもダンカンただ一人の不滅の記録になると思われたが、アル・ホーフォード が2021年に同様の理由で欠場したため、不滅の記録は僅か9年で途切れる事になった。
トラッシュトーク を常に仕掛けてくるケビン・ガーネット が嫌いだと述べているが、あくまで対戦相手、ライバルとしての敬意を前提とした発言であり、殿堂入りのスピーチでは最大のライバルだった選手としてケビン・ガーネットの名前を挙げ、共に殿堂入りしたガーネットに対して感謝の言葉を述べている。
現在はサンアントニオ で車のカスタムショップを経営している。
脚注
注釈
出典
^ “Tim Duncan ”. ESPN . ESPN Internet Ventures. September 30, 2014 閲覧。
^ “Tim Duncan Q&A ”. SLUMDUNCAN.com. 2015年4月25日 閲覧。
^ “Tim Duncan ”. Basketball-reference.com . May 20, 2008 閲覧。
^ “Tim Duncan Earns All-NBA And All-Defensive Team Honors For 13th Straight Season ”. NBA.com (May 6, 2010). May 8, 2014 閲覧。
^ “Tim Duncan's prolific career draws praise from NBA stars” . Associated Press. (July 12, 2016). http://www.cbc.ca/sports/basketball/nba/tim-duncan-retires-1.3674268
^ Dorsey, Jesse (December 12, 2012). “Ranking Tim Duncan With the Best Power Forwards of All-Time ”. Bleacher Report . June 7, 2017 閲覧。
^ “Ranking the top 74 NBA Players of all time: Nos. 10–1 ”. ESPN (May 13, 2020). May 13, 2020 閲覧。
^ 中山恵『スーパスターに学ぶバスケットボール』株式会社ナツメ社、2003年、102ページ、ISBN 4-8163-3437-8
^ “Tim Duncan – Bio ”. NBA.com . 2007年8月14日時点のオリジナル よりアーカイブ。2007年8月25日 閲覧。
^ Tim Duncan Biography , jockbio.com. Retrieved April 19, 2007.
^ Kernan, Kevin (2000). Slam Duncan . p. 11. ISBN 978-1-58261-179-2
^ Questions with Tim Duncan , slamduncan.com. Retrieved January 13, 2008.
^ Kernan, Kevin (2000). Slam Duncan . pp. 20–21. ISBN 978-1-58261-179-2
^ Kernan, Kevin (2000). Slam Duncan . pp. 28–31. ISBN 978-1-58261-179-2
^ Basketball Reference.com
^ Tim Duncan ties John Stockton for fourth-most career wins in NBA history
^ Duncan ties playoff record for double-doubles--Spurs Nation
^ Historic achievements for Duncan, Ginobili
^ Duncan breaks two records in one game
^ Duncan opts in, will return for an 18th NBA season--Spurs Nation
^ Duncan earns 800th career double-double
^ Tim Duncan hits 25,000 career points as the Spurs drop the Lakers 93-80.---NBA.com
^ Duncan is second oldest with triple-double
^ More milestones for Duncan---Spurs Nation
^ “[http://www.nba.com/gamenotes/spurs.pdf SAN ANTONIO SPURS 2014-15
GAME NOTES]”. NBA .com (2015年4月3日). 2015年4月4日 閲覧。
^ “Vintage Tim Duncan helps Spurs fend off Clippers in OT ”. USAtoday.com (2015年4月22日). 2015年4月23日 閲覧。
^ “Sunday, November 1, 2015 SAS vs BOS ”. NBA.com (2015年11月1日). 2015年11月2日 閲覧。
^ “Tim Duncan, Tony Parker, Manu Ginobili Become Winningest Trio in NBA History ”. bleacherreport.com (2015年11月1日). 2015年11月2日 閲覧。
^ “Spurs' Tim Duncan, Tony Parker, Manu Ginobili reach milestone ”. ESPN.com (2015年11月1日). 2015年11月2日 閲覧。
^ a b “Tim Duncan Passes John Stockton for Most Wins Ever with 1 NBA Team ”. http://bleacherreport.com/+(2015年11月2日).+ 2015年11月3日 閲覧。
^ NBA Game Info SAS vs. HOU(2016/02/27) NBA.com 2016年02月27日
^ “Tim Duncan becomes 5th NBA player with 3,000 career blocks after stuffing James Harden ”. USA Today (2016年2月26日). 2016年2月27日 閲覧。
^ “Tim Duncan passes Karl Malone and moves into 6th on the all-time rebounding list ”. poundingtherock.com (2016年2月28日). 2016年2月29日 閲覧。
^ “NBA & ABA Career Playoff Leaders and Records for Total Rebounds ”. basketball-reference.com (2016年5月). 2016年5月 閲覧。
^ “NBA & ABA Career Playoff Leaders and Records for Total Blocks ”. basketball-reference.com (2016年5月). 2016年5月 閲覧。
^ “Tim Duncan Passes John Havlicek for 14th on NBA's All-Time Scoring List ”. Bleacherreport.com/ (2016年3月15日). 2016年3月16日 閲覧。
^ “Tim Duncan becomes 3rd player in NBA history to win 1,000 games ”. ESPN.com (2016年4月5日). 2016年4月6日 閲覧。
^ NBA Game Info OKC vs. SAS(2016/04/12) NBA.com 2016年04月12日
^ “Spurs Tie All-Time NBA Record for Most Home Wins in Regular Season ”. http://bleacherreport.com/articles/2632495-spurs-tie-all-time-nba-record-for-most-home-wins-in-regular-season+(2016年4月12日).+ 2016年4月12日 閲覧。
^ “Tim Duncan ties Robert Horry for 2nd-most postseason games played ”. thescore.com (2016年4月22日). 2016年4月23日 閲覧。
^ “Tim Duncan Ties Robert Horry for 2nd-Most Wins in NBA Playoff History ”. bleacherreport.com (2016年4月25日). 2016年4月26日 閲覧。
^ Tim Duncan Exercises Player Option With Spurs
^ Tim Duncan exercises the $5.6 million player option for next season
^ Tim Duncan Announces Retirement After 19 Years With Spurs
^ Tim Duncan Announces Retirement
^ Tim Duncan announces retirement
^ NBA world reacts to Tim Duncan's retirement
^ Spurs forward Tim Duncan retires after 19 seasons
^ Spurs will retire Tim Duncan No. 21 on December 18th
^ スパーズ、ティム・ダンカンの永久欠番記念試合で勝利し4連勝 NBA JAPAN
^ ティム・ダンカンが自らの永久欠番式典に出席「自分がもたらしたもの以上に、僕が皆からもらったもののほうが大きい」 NBA JAPAN
^ “コービー氏ら「歴史的な」9人が20年のバスケ殿堂入り ”. www.afpbb.com . 2020年4月5日 閲覧。
^ “List of NBA double-doubles since 1985–86 (point-rebound) ”. basketball-reference.com . Sports Reference LLC. April 15, 2015 閲覧。
^ “List of NBA double-doubles since 1985–86 (point-rebound) ”. basketball-reference.com . Sports Reference LLC. 2015年11月6日 閲覧。
^ “[http://www.nba.com/gamenotes/spurs.pdf SAN ANTONIO SPURS 2014-15
GAME NOTES]”. NBA .com (2015年4月3日). 2015-40-04閲覧。
^ “Ref suspended for actions toward Duncan ”. MSNBC (2007年4月17日). 2007年4月17日 閲覧。
^ https://www.youtube.com/watch?v=kOygTd1NWCM
外部リンク
業績 1940年代 1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代 歴代ベスト10
①アキーム・オラジュワン :3,830
②ディケンベ・ムトンボ :3,289
③カリーム・アブドゥル=ジャバー :3,189
④マーク・イートン :3,064
⑤ティム・ダンカン :3,020
⑥デビッド・ロビンソン :2,954
⑦パトリック・ユーイング :2,894
⑧シャキール・オニール :2,732
⑨トゥリー・ロリンズ :2,542
⑩ロバート・パリッシュ :2,361
プレーオフ 歴代ベスト10