古い歴史はさておき、ソープの家系を数代遡って行き着くのは、ブリテン島ではなくアイルランドである。彼の曾祖父に当たるウィリアム・ソープ(英: William Thorpe)はダブリンの警察官で、後に警視にまで上り詰めた。彼には多くの息子がおり、その内のひとりであるジョン・ソープ(英語版)はイングランド国教会の司祭となり、1922年から1932年までマクルスフィールド大執事(英語版)を務めた。彼は1884年に裕福なアングロ=アイリッシュ(英語版)だったエイルマ家(英: Aylmer family)の娘と結婚し、また長女オリーヴ (Olive) は有力者であるチェシャーのクリスティ=ミラー家(英: Christie-Miller family)へ嫁いだため、ソープ家には多くの富がもたらされた。ジョン・ヘンリーと息子ジェレミーは、クリスティ=ミラー家から学費の支払いなどの経済的な恩恵を受けた[6]。
ジェレミーはソープ夫妻の第3子で、上に2人の姉がいた[5]。ソープは早期教育の間、特別扱いで保護されており、1935年にクイーンズ・ゲート(英語版)のワグナー・デイスクール(英: Wagner's day school)に進学するまで、ナニーやナースメイドの世話を受けていた[7]。ヴァイオリンに堪能で、学校のコンサートでもよく腕前を披露していたという[8]。父は既に国会議員の座を失っていたが、政治的人脈や友人関係の多くを維持し、ソープ家には複数の政治指導者が定期的に訪れていた。これらの交友関係で最も強力だったのは、自由党出身の首相だったデイヴィッド・ロイド・ジョージ一家との関係で、母アーシュラは首相の末娘ミーガン(英語版)と特に親しく、彼女はジェレミーの名付け親まで務めた。元首相のロイド・ジョージ自身もしばしばソープ家を訪れ、幼い日のソープにとっては政治的英雄・目指すべき目標になったほか、自由党で政治的キャリアを築きたいという野心の元にもなった[9]。
ソープは法学を専攻したが、オックスフォードではもっぱら政治や社交に関心を見せていた[18]。大学に入ったばかりから、彼のぎらついた振る舞いは注目を集め、伝記作家のマイケル・ブロックは、彼の「青白い外見、濃い色の髪と目、骨張った顔立ちは、悪魔崇拝者のような印象だった」(英: his "pallid appearance, dark hair and eyes and angular features, gave him a diabolonian air")と述べている[19]。ソープはすぐに政治参加を模索し、当初はオックスフォード大学リベラル・クラブ(英語版) (OULC) に参加した(自由党は国政で停滞期間に入っていたが[20]、クラブは800人以上の部員を抱える人気ぶりだった[21])。ソープは1年生の終わりにクラブの委員へ立候補し、1949年11月にはプレジデント(部長)に就任した[22]。オックスフォードの外では、自由主義への献身を見せて自由党の国政選挙活動に熱心に貢献し、1950年4月に21歳の誕生日を迎えた時には、自由党の国会議員候補として名を連ねることになった[23]。
OULCだけでなく、ソープはオックスフォード大学法学会(英: Oxford University Law Society)のトップにも就任し、さらには国政参加の登竜門としても知られるオックスフォード・ユニオンのプレジデント就任にも野心を覗かせた。通常、次期プレジデントはユニオンの執行部の下級生、例えば書記や出納係[注釈 6]から選ばれるが、自信満々で説得力のある討論者と認識されていたソープは、直接プレジデントを目指そうとして1950年早くに出馬した。この時ソープは、後にアナウンサーになったロビン・デイ(英語版)にあっさり打ち負かされた[24]。一心に役職を得ようとする態度と、彼がよく利用した怪しげな戦略が元で、辛辣な反対運動がいくつか巻き起こったが、ソープは次第に多くの支援者を得て、1950年遅くには手強い対抗馬2名(社会主義者のディック・タヴァーン(英語版)と保守党員のウィリアム・リーズ=モグ(英語版))を破ることに成功し、1951年春学期 (Hilary term) のプレジデント職を得た[18][25]。
オックスフォードでのソープは同世代の多くの友人と親交を深め、その多くが有名人となった[18]。友人はもっぱら男子ばかりだったが、オックスフォードの同性愛者グループのいずれにも所属していると見なされていなかった。彼は友人の一人に、感情的な興奮は政治で充分得られているので、性的関係は不必要だと打ち明けていたという。伝記作家のブロックは、彼は同級生たちに、「基本的には無性愛で、それを政治や経歴で隠している」(英: "a basically asexual character, wrapped up in politics and his career")人物だと捉えられていたのではないかと示唆している[27]。
初期の経歴
国会議員候補
自由党の有望な国会議員候補として受け入れられたソープは、立候補する選挙区を探し始めた。1950年・1951年の総選挙で敗戦した自由党は、国会議員の数を当初の12人から9人、6人と減らしていき[28]、この先待っているのは「さらなる損耗と、2大政党へのさらなる敗北」(英: "further attrition and further losses to the two major parties")だけだと話すコメンテーターもいたほどだった[29][注釈 7]。ジャーナリストのジュリアン・グローヴァー (Julian Glover (journalist)) は、災難にもかかわらず残党を決意したソープは、多くの批評家が考える以上に、自由主義の原理に傾倒していたのだと書いている(国会議員になろうとするなら、保守党や労働党に入った方がずっと可能性が大きかった)[18]。
賃金雇いの必要性に駆られたソープは法律の道に進むことを選び、1954年2月、実務研修(英語版)(日本の司法修習に相当)を完了させ、インナー・テンプルで弁護士免許(英語版)を取得した[36]。当初は生活費を稼ぐにも困り、別の収入源を模索した彼は、テレビ・ジャーナリズムに活路を見出した。ソープはアソシエイティド・リディフュージョン(英語版)(現在のITVの前身)に雇用され、科学討論番組 The Scientist Replies の司会者を務めた後、局の主要なニュース解説番組である This Week (This Week (ITV TV series)) のインタビュアーになった[37]。This Week の多様な仕事の中で、ソープは1957年に独立を祝うガーナに向かったほか[38]、1958年にはヨルダンから国王フセイン1世の暗殺陰謀について伝えた[39]。ソープは筋のいいアナウンサーで、テレビの仕事の他にも、BBCのラジオ番組『エニー・クエスチョンズ?(英語版)』に定期ゲストとして登場している[40]。1959年にはアソシエイティド・リディフュージョンのチーフ・コメンテーター職に請われたが、国会議員候補になることを諦めるという条件のため、首を縦に振らなかった[41]。
テレビやラジオでの活動を通じてソープは一定の名声を得ることになり、彼の活き活きとして独特な宣伝法は、広く賞賛されるほどだった。ジャーナリストのクリストファー・ベッカー(英語版)は、「彼は自分の支援者を鼓舞し、対抗馬を真似てからかうことに類い稀なる才能を持っていた」(英: "He had an extraordinary ability both to cheer up his followers and send up his opponents.")と回想している[45]。しかしながら、当時のイギリスでは同性愛行為が違法だったほか(1967年性犯罪法(英語版)も参照)、その暴露は政治生活を即座に終了させるものだったため、1950年代を通してソープは同性愛をひた隠しにしていた[46]。この性指向は公衆には秘密にされていたが、ノース・デヴォン選挙区では広く知られていた上に大目に見られていて[47]、少なくとも多くの自由党員から勘ぐられていたことも確かだった[48]。
ソープは献身的な国会議員で、地元の問題を熱心に国会へ持ち込んだ。新しい大病院の建設、エクセター・トーントン間の幹線道路(M5高速道路(英語版))に繋がる道の建設などの問題に取り組んだほか、イギリスの国鉄の緊縮策である「ビーチング・アックス」から、地元のバーンステイプル(英語版)とエクセターを繋ぐターカ線(英語版)を救うキャンペーンにも成功した[53]。彼はより一般的な問題に関しては自分の信条を隠さず、反絞首刑、移民擁護、欧州連合推進といった態度を示したが、概して、こういった考えを地元の有権者と共有していたわけではなかった[54]。彼は植民地支配や寡頭制的な少数支配からの解放を擁護し、南アフリカやローデシア・ニヤサランド連邦などの体制は、圧政的だとして遠慮無く反対意見を述べた[55]。またソープは気迫やウィットでも知られ、1962年には相次ぐ補欠選挙での敗戦から、マクミラン首相が閣僚3人を更迭する事件があったが、この時ソープは『新約聖書』「ヨハネによる福音書」第15章(英語版):13をもじって[56]、「自らの命のために友を犠牲にすること、これに勝る愛は無い」(英: "Greater love hath no man than this, that he lay down his friends for his life".)との言葉を残している[57]。
1966年の選挙後、グリモンド(英語版)は党の幹部たちに、すぐにでも党首の座を降りたいと打ち明けた[69]。党委員会の議長だったティモシー・ビューモント(英語版)は、日記に「党の国会議員の間で、彼はほとんど人気でないとかなり確信している」(英: "I am pretty certain that he has little popularity within the Parliamentary Party")と書き残しているが[69][注釈 11]、ソープは自由党国会議員としてグリモンドに次いで長い経験を持ち、党で最も有名な議員になっていた[71]。グリモンドが1967年1月17日に辞任した後、後任を決める選挙が48時間以内に行われることになり、作戦を練る時間はほとんど与えられなかった。投票権は12人の自由党国会議員全員に与えられ、最初の投票後、ソープが6票、オーピントン選挙区選出のエリック・ラボック(英語版)とモントゴメリーシャー選挙区を引き継いでいたエムリン・フーソン(英語版)が3票ずつを得た。1月18日にラボックとフーソンは候補者を辞退し、ソープの勝利が宣言された[72][73]。
「ソープの自由主義は、本質的に非現実的で感情的だった。彼は間抜けなエスタブリッシュメントの上流気取り、また横柄な支配や人種間不平等に激しく対抗したが、筋の通った政治哲学を構築することには興味が乏しかった」 "Thorpe's Liberalism was essentially romantic and emotional. He reacted strongly against bone-headed Establishment snobbery, arrogant management or racial injustice, but showed scant interest in formulating any coherent political philosophy."
1973年3月14日、ソープはコンサートピアニストで、ジョージ・ラッセルズ (第7代ヘアウッド伯爵)の前妻だったマリオン・シュタインと再婚した。両者は互いの知人だったモーラ・リンパニーの紹介で1年前に出会っていた[89]。この年は彼にとって不幸せに終わった。ソープは1971年5月からロンドン&カウンティ・セキュリティーズの小規模金融機関(英: the secondary banking firm of London & County Securities)の取締役を務めていたが、誤経営と詐欺の噂でこれが倒産し、1973年から1975年の小規模金融機関危機(英語版)の幕開けとなったのである(詳細は1976年まで明かされなかった)[90]。労働争議に悩まされていたヒースは、1974年2月に「誰がイギリスを統治するのか?」(英: "Who governs Britain?")というスローガンを掲げて総選挙を行った[91]。1974年2月イギリス総選挙の選挙期間中、ヒース・ウィルソン両者への不信が露わになり、これは自由党への追い風になった。ソープは党が大きな結果を残すことを確信しており、蓋を開けてみれば、全国での得票数600万票・投票率19.3%は、1929年以来最も高い数字となった。しかしながら、単純小選挙区制のせいで、自由党はわずかに14議席しか得られなかった。ソープ自身の得票差は11,072票に伸びた[92]。
会談の翌日、党の古参議員と討論した後、ソープはヒースに対して、選挙制度改革の確約が必須条件だと通告した。ソープは、ヒースが自由党の満足できる選挙改革を議長会議で提言すれば、内閣の全員一致で立法の基礎を固められることから、これの開催を求めた。各党内で協議が持たれた後、再度行われた党首会談の席で、ヒースは、保守党は議長会議には反対しないが、自由党からの勧めに応じることは約束できず、庶民院での自由投票で決められるべき内容だと伝えた[95][97]。この答申はソープにとって受け入れがたいもので、代わりに彼は、イギリスが面していた緊急の経済問題に取り組むために全党での「国家統一体政府」(英: "Government of national unity")樹立を提言した[18]。ソープのこの提案はヒースに拒否され、ヒースも3月4日月曜日に首相を辞任した[100]。
後にソープは、連立政権に合意すれば、党が引き裂かれてしまっただろうと認めている(ヤング・リベラルズなど急進的な一派は、連立政権参加を絶対に認めなかっただろうと考えられている)。さらにソープは、「我々の手助けがあっても、ヒースは国会で過半数を得られなかっただろう」(英: "even with our support Heath wouldn't have had a parliamentary majority")と述べている[82]。連立政権はスコットランド国民党やアルスター統一党との調整を欠いたままで、このままでは女王演説の第1投票で拒否された可能性がある[99]。ヒースの辞職後、労働党のウィルソンが少数与党内閣を樹立して首相に返り咲いた[101]。
運命の暗転
ハロルド・ウィルソンは1974年2月の選挙で過半数を得ることができず、そう遠くない内に新たな選挙を行うことが広く望まれ、ウィルソンは1974年9月に解散を宣言した[102]。ソープはこの選挙が自由党にとって転換点だと見越し、「もう1度力を振り絞って」 ("One more heave") とのスローガンを打ち出して選挙活動に望み[102][103][104]、連立政権への参加を最後の頼みとして、党の大躍進を狙った[105]。このスローガンは、広告代理人で自由党候補だったエイドリアン・スレード(英語版)の作だった[106]。覚えやすいスローガンではあったが、一方で退屈とも受け取られた。後に自由党党首となったデイヴィッド・スティール(英語版)は、選挙活動は全体として、「少し不出来な、2月の[選挙活動]のやり直し」(英: "a slightly less successful re-run of February")だったとした[105][107]。1974年10月イギリス総選挙で、自由党は70万票あまり得票を減らし、獲得した議席は1議席減の13議席だったほか、ウィルソンの労働党はわずかに3議席分過半数を上回った[108]。
選挙後の数ヶ月、ノーマン・スコットとの関係で危機に陥ったソープはこの1件にかかりきりになり(→ソープ事件、後述)、友人だったデイヴィッド・ホームズによれば、「あの男がうろついている限り安全など無い」(英: "he would never be safe with that man around")と感じていたという[111]。1974年遅くから、ホームズはスコットの口封じ計画の主導者となり、数多くの仲介者を通じて、5千〜1万ポンドでスコットの件を引き受けてもいいというパイロットのアンドルー・ニュートンを探し出す[112][113]。同じ頃、ソープはバハマに拠点を置く百万長者のビジネスマンで、以前自由党に寄付をしていたジャック・ヘイワード(英語版)から、1974年中の選挙資金の埋め合わせだと称して2万ポンドを調達した。ソープはこの資金を党金庫に入れる代わりに、こっそりホームズに横流しした[114]。後にソープは、この資金が共謀の一端として、ニュートンやその他の誰かに支払われたことは否定した[115][注釈 14]。
スコットは1969年に思いがけなく結婚し、問題は解決したかに見えたが[133]、この結婚生活は1970年までに破綻し、彼はソープが悪いのだと自分に言い聞かせるようになった[134]。1971年初頭、スコットは北ウェールズ・コンウィの村タル=イ=ボント(英語版)に転居し、寡婦のグウェン・パリー=ジョーンズ(英: Gwen Parry-Jones)と親しくなって、ソープによる冷遇・虐待について自説を詳しく聞かせた。彼女は、隣接する選挙区選出だった自由党のエムリン・フーソンにこれを伝え、フーソンは速やかに党内調査を行い、ソープの嫌疑を晴らして、スコットはこれを苦々しい恥の思いとともに受け取った[135]。パリー=ジョーンズは翌年に亡くなり、うつ病に罹ったスコットは、暫くこの件に関して沈黙する[136]。しかしながら、彼はやがて、聞く耳を持つ相手になら誰にでもこの件を言いふらすようになった[137]。1974年までソープは、自由党復活の最頂点にありながら、自由党党首の座を追われるかもしれないスコットの暴露に戦々恐々としていた。当時のソープを追った本を出したドミニク・サンドブルック(英語版)は自著の中で、「危険度は最高だったし、スコットを黙らせることも一番緊急の問題だった」(英: "The stakes had never been higher; silencing Scott had never been more urgent")と述べている[126]。
長年の間、スコットは自身の話を公に出版しようと何度も試みたが、話に乗る新聞社はひとつも無かった。風刺雑誌『プライヴェート・アイ(英語版)』は1972年末に、「名誉毀損かつ立証不可能で、おまけに10年も前の話だ」(英: the story "was defamatory, unproveable, and above all was ten years old")と判断を下している[138]。この矢先の1975年10月、アンドルー・ニュートンがスコットを射殺し損ない、代わりにスコットの愛犬だったグレート・デーンを射殺するという事件が発生する。ニュートンは殺人未遂と不法な銃火器所持で逮捕されたが、メディアはより大きな話が明るみに出そうだと期待しつつも、沈黙を貫いた[113]。1976年1月、スコットは少額の生活保護詐取で起訴され、法廷でソープとの過去の同性愛関係が元で追い詰められているのだと主張し[139]、ついにメディアの沈黙が破られることになる。この証言は法廷内で行われたため、名誉毀損法の対象外となり、広く報道された[140]。
1月29日、貿易産業省(英語版)は、ロンドン&カウンティ・セキュリティーズの破綻を報告書にまとめた。報告書では、会社に関わる前に実態調査を怠ったソープの失策が批判され、「指導的立場にある政治家全員への警告」(英: "a cautionary tale for any leading politician")だとされた[141]。ソープはベッセルから慰めを得たが、以前の同僚だった彼は、国会議員を辞めて事業失敗から逃れるためにカリフォルニア州へ移住し、その後『デイリー・メール』紙のインタビューを受けた後の2月初めに舞い戻っていた。ベッセルはスコットにまつわる一件への関与については混乱した証言をしたが、ソープに関しては悪事と無関係だと主張した[142]。
1976年3月16日、ニュートンの公判がエクセター刑事法院で始まり、公判に出席したスコットは、弁護士が黙らせようとするのも聞かず、ソープに関する自説を繰り返した。ニュートンは有罪となり、2年の収監が言い渡されたが、ソープに罪を負わせることは無かった[143]。自由党に対する民衆の支援はどんどんと減っていき、3月には複数の予備選挙で惨敗したが[144]、前党首のグリモンドはソープの信用喪失が原因であるとした[145]。3月14日、『サンデー・タイムズ』に「ノーマン・スコットの嘘」(英: "The Lies of Norman Scott")という見出しで、スコットの主張に対するソープの答えが掲載された[146]。それでも、党の古参議員の多くが、ソープは辞任すべきだと感じるようになっていた[144][147]。
ソープの比較的穏やかな生活は、1977年10月に、出所したニュートンが、自分の話をロンドンの新聞『イヴニング・ニュース(英語版)』に売ったことで終わりを迎える。スコットを殺すため、「自由党の指導者のひとりから」(英: "by a leading Liberal")金銭を支払われたというニュートンの証言はセンセーションを巻き起こし、警察による長期捜査を呼ぶことになる[161]。この時ソープは、国会内外で自分の公職にしがみつこうと努力していた[162]。ソープが刑事裁判を受けることは確実となり、1978年8月1日の庶民院で、彼は法務長官に対し、資産額がいくら以上なら訴訟経費扶助(英語版)を受けられなくなるのか尋ねている[163]。翌日、彼はローデシア問題に関する討論で、国会生活最後となる演説を行った[164]。
ソープはノース・デヴォン選挙区の議席を死守するため、議席喪失は確実だと考える友人たちに止められつつも、地元の党本部の誘いに応じた。彼の活動は自由党の全国本部にはほとんど無視され、指導的立場の党員で彼の選挙区を訪れたのは、ノース・コーンウォール選挙区(英語版)の国会議員だったジョン・パードウ(英語版)だけだった。妻や母、忠実な友人たちに支えられたソープは激しく闘ったが、彼特有の旺盛な精力はほとんどが失われていた。彼は保守党の対抗馬に8,500票近くの得票差を付けられて敗戦した[173]。この選挙では、保守党が43議席分の過半数を獲得し、マーガレット・サッチャーが首相に就任した。この後、ソープは『デイリー・メール』紙で、「打ち負かされるとは思っていなかった。みんな無理だろう」(英: he had not "expected to get hammered. You never do")と告白している[174]。全国での自由党の得票率は13.8%に下落し、総議席数も13から11に減った。ダットンは自由党敗戦の原因は、多くがソープ事件による不人気が尾を引いていたことにあったとしている[175]。
公判はジョゼフ・カントリー(英語版)を裁判長に据えて、1979年5月8日から6週間続いた[176]。ソープは自分の弁護のためジョージ・カーマン(英語版)を雇い、事件はカーマンが初めて担当する注目の裁判となった[177]。カーマンはすぐに、ソープが無罪になれば、新聞社からベッセルに支払われる金銭が半額になる契約だったと暴露し、ベッセルが有罪判決を強く望む立場にあったとして、彼の証言の信用性を大きく貶めた[178]。5月22日にカーマンは、スコットの反対尋問で「1961年の段階で、ソープに同性愛傾向があると知っていましたか?」と尋ねた[注釈 20]。依頼者であるソープの性指向を遠回しに認めたことになるが、これはソープの性生活の証人が呼ばれるのを避けるための戦略であった[180]。それでもやはり、カーマンはソープとスコットの肉体関係には確固な証拠が無いと主張し、カーマンはスコットのことを「この常習的な嘘つき、社会的上昇を狙った居候」(英: "this inveterate liar, social climber and scrounger")と切り捨てた[181]。
スコット側と弁護側弁護士から閉会宣言が出された後、6月18日に判事は説示を始めた。ソープの輝かしい公的記録を強調しながら[184]、彼はスコット側の主要証人に対して容赦無い非難を浴びせかけた。ベッセルは「ペテン師」(英: "humbug")で[185]、スコットは詐欺師・すねかじり・不平たらし・他人にたかる厄介者だとされたが、スコットについては「しかし勿論、彼が真実を話している可能性もある」(英: "but of course he could still be telling the truth.")とした[186]。ニュートンは「この一件からできるだけ甘い汁を吸おうとした」(英: "determined to milk the case as hard as he can.")と評された[187]。6月20日、評決のため陪審員団が退席し、2日後に公判を再開して、4人の被告全員に完全無罪を宣告した。短い公式声明の中で、ソープは評決を「完全な無罪証明」(英: "a complete vindication")と考えていることを明かした[188]。スコットは結果に「驚かない」(英: "unsurprised")と述べたが、判事が裁判官席という安全な場所から、自分の性格を非難したことにはうろたえたとした[189]。
2014年12月に英国放送協会 (BBC) が放送した調査ドキュメンタリー番組で、アンティーク銃火器(英語版)の収集家であるデニス・ミーアン(英: Dennis Meighan)は、匿名の古参自由党員から、スコットを殺すため13,500ポンドで雇われたと明かした。彼は代わりに仕事を協力者だったニュートンに譲り、彼に武器を調達してやったと述べている[190]。ミーアンは1975年に当局へ声明を渡したが、ソープに関する言及を全て除かれ、警察によって完全にねじ曲げられてしまったと述べている。ミーアンはその後の公判でも、証人として呼ばれることは無かった。ミーアンは「あれはもみ消しで、何の疑問も無いが、自分には好都合だった」(英: "It was a cover-up, no question, but it suited me fine")と述べている[191]。
後半生
無罪判決の後、彼は1979年の党大会参加と、カナダで行われる自由主義インターナショナルの大会に出席するつもりだと発表した[192]。しかしながら、法廷に現れて誓約し身の証しを立てようとしなかった彼の態度はメディアに広く批判され[193]、大勢が彼が「無罪になった」("got off") とは運の良いことだと考えた。ソープは嫌々ながら、将来自由党の党職を得ることはないという事実を受け入れ、ノース・デヴォン選挙区の事務所で、2度と出馬しないと表明した[192]。スティールはソープに対し、「休息と疲労回復に適当な時間の後[中略]素晴らしい才能の使い道をいくつも見つけるだろう」(英: "after a suitable period of rest and recuperation ... [he would] find many avenues where his great talents may be used.")と述べた[194]。
ソープは新しいキャリアを模索したが、オールドバラ音楽祭の理事、グレーター・ロンドン・カウンシルの人種関係アドバイザーの職を得ることに失敗する。また、テレビ界で再スタートを切ろうという試みも完全に失敗した[195]。1982年2月には、アムネスティ・インターナショナル英国本部の理事として招聘されたと発表されたが[196]、就任は多くの会員に反対され[197]、1ヶ月の議論の末、ソープはこの職を辞退する[198][注釈 21]。彼は国際連合協会(英語版)政治委員会(英: the political committee)委員長職にあったが、1979年に初めてパーキンソン病の診断を受け[200]、1985年には病の進行から、公職に当たる時間の大半を短縮せざるを得なくなっていた[201]。彼はノース・デヴォンに住み続け、1987年には、自由党と社会民主党の合併で誕生した自由民主党のノース・デヴォン本部から、名誉総裁職を贈られた[18]。彼は一代貴族として貴族院議員になり、国会に戻れるかもしれないと考えていたが、彼に代わって友人たちがロビー活動をしたにもかかわらず、自由民主党本部は、ソープの推薦を拒否した[202][203]。それでも党内のソープに対する態度は概して温かいもので、1997年の年次総会では、ソープに対してスタンディング・オベーションが送られた[18]。
「もしあの事件がいま起こったなら、[中略]大衆ももう少し優しかったと思う。あの時はあの事件に大きくまごついたんだ、自分たちの価値観を害するものだったから」 "If it happened now I think ... the public would be kinder. Back then they were very troubled by it; it offended their set of values."
1999年には、彼の話に基づいた回想録、In My Own Time が出版され、ソープはこの中で公職生活での経験をアンソロジーとしてまとめた。この本の中でソープは、スコットとの性的関係を繰り返し完全否定し[128]、「[起訴された一件に]嘘や不正確性、自白が入り混じっていた」[注釈 22]のは明らかだったので、審理を長引かせないために公判で証言しないという判断を下したと述べた[205]。2005年イギリス総選挙の選挙活動で、ソープはテレビ出演し、イラク戦争を支援する労働党・保守党双方を批判した[206]。3年後の2008年、彼は『ガーディアン』紙と Journal of Liberal History 誌のインタビューを受けた。後者のインタビュアーだったヨーク・メンベリー(英: York Membery)は、ソープは聞き取れるかどうかくらいのささやき声でしか喋れなかったが、彼の思考力は全く損なわれていなかったと述べた[82]。ソープは未だに「パイプで煙をふかす」(英: [He] "still had steam in my pipes")と述べ、当時の政治状況について聞かれた時には、労働党のゴードン・ブラウン首相は「陰気で印象的でない」(英: "dour and unimpressive")としたほか、保守党党首のデイヴィッド・キャメロンには、「詐欺師で[中略]、進歩的と見せかけたがっているサッチャリズム主義者だ」(英: "a phoney ... a Thatcherite trying to appear progressive")と呼んだ[204]。ソープの欧州統合主義 (pro-Europeanism) は長年の間にいくらか失われており、インタビューでは欧州連合は力を持ち過ぎで、責任を持つには不適当だと述べた[82]。
ソープの経歴に関する評価の多くは、政治的成果よりも彼の失脚を強調するもので、『デイリー・テレグラフ』紙の追悼記事では、「イギリスの政治史上無類の落差」(英: "a fall unparalleled in British political history")とまで言われた[74]。ソープは無罪判決によって、1960年代・70年代に自由党を黄金期に導いた自分の手腕が思い出されると思い描いていたが、公判の間に、彼の名声は取り返しが付かないほど損なわれていた[54]。オールド・ベイリーでの起訴側弁護士は、ソープ事件を「まさしくギリシャ悲劇やシェイクスピア劇(英語版)に匹敵する悲劇―1つの欠点による、ゆっくりだが取り返しの付かないある男の(名声の)失墜」(英: "a tragedy of truly Greek or Shakespearian proportions―the slow but inevitable destruction of a man by the stamp of one defect.")と評した[212]。
ソープの死後、彼に共感的なコメンテーターたちは、彼の国際主義や社会自由主義に注目し、長年にわたる反アパルトヘイト運動や独裁者に対する公然の非難、死刑廃止論者やレイシズム反対者としての側面に焦点を当てた[213]。彼が説得力と機知、また温かさを兼ね備えた並外れた政治運動家だったことは広く認められており[214]、追悼記事では「顔を覚える彼の驚くべき才能は、有権者に彼らが親密な友人だと感じさせ[中略]、彼の機知に富んだ頭脳は、どんな時にも警句や扇情的な行為を繰り出す余裕を持っていた」(英: "his astonishing memory for faces persuaded voters that they were intimate friends ... his resourceful mind afforded quips and stunts for every occasion.")と述べられた[74]。ブロックは自著の中で、別の角度から見たソープとして、過去の友人だった美術専門家のデイヴィッド・カーリット(英語版)が審判の時に述べた「自己中心的で[中略]、『まあまあ』愉快な奴で、少し悪意のある人物。機転が利くと言われているが、[中略]他人の真似を気にしなければの話だろう、実際の所退屈な人間だ」との文章を引用している[注釈 23]。
なんと入り組んだ陰謀をソープは巡らせたものか。本書でその内幕を知ってみれば、自由党がこの期間に他の課題を一つでも達成できたとすれば驚くべきことだ。 What a web Thorpe ended up spinning. It is amazing, reading the details, that the Liberal party got anything else done in these years.
ソープが党首を務めた10年の評価として、自由民主党の党首だったニック・クレッグは「ジョー・グリモンド(英語版)が始めた自由党復活を持続させる駆動力」を与えたのがソープだとしたほか[217]、ダグラス・マリー(英語版)は『スペクテイター』誌で、勝算のある議席を見極めそこに集中するというソープの戦略は、1997年の選挙で自由民主党が起こした大成功の基礎だったとした[216]。党史の編纂を行ったダットンは、より限定された見方をし、ソープの大胆な態度やカリスマ性にもかかわらず、「党は信念や基礎を成す目的も無く漂い、[中略]意見より戦術に支配されていった」(英: "the party drifted without a sense of conviction and underlying purpose ... [and was] dominated by tactics rather than ideas")と述べた[218]。ソープは自由党を労働党・保守党から等距離の「適度に真ん中」(英: "moderate centre")に持って行き、この戦略は、二大政党に不満が集まった1974年2月の選挙では非常に上手くいったが[219]、党本来のアイデンティティを不明確にし、多くの人は党の政策を知らなかったとも指摘されている[220]。
ソープは、政治生活を通して二重生活を行っていたと考えられているが、自身の性指向について公然と語ることは1度も無かった。マリーによれば、ソープは昼間には責任ある政治家として振る舞いながら、「夜の間、彼は本当のゲイだっただけでなく、自分がそうであるということに心配も無かった」(英: "by night he was not only very gay but rather carefree about being so.")のだという[216]。作家・アナウンサーで、1970年代に自由党内で同性愛者の人権活動家として活動していたジョナサン・フライアー(英語版)は、当時の抑圧的雰囲気の中で、ソープは「自分でそう望んでいても、カミングアウトすることができなかった」(英: [Thorpe] "couldn't have come out, even if he'd wanted to")としている。しかしながら、ダブル・スタンダードな彼の態度はゲイの自由党員をいらつかせ、彼らから疎外される結果となった。フライアーズは「彼は、自分の楽しみと家族という、2つの世界の最適解を望んだのだ」(英: "He wanted the best of both worlds―his fun and a family.")と述べた[221]。
^ビューモントの当時の日記には、「ジェレミーの安全に関する問題は不運なもので[中略]、枢密顧問官の職を得られなくなるかもしれない」(英: "the question of Jeremy's security standing is an unfortunate one ... this might stop him getting a Privy Councillorship")と書かれており、党本部が早い時期から、彼の私生活が喫緊の問題だと把握していたことを示唆している[69]。ソープはその後、1967年に枢密顧問官に就任した[70]。
^後年のインタビューで、ソープは1970年の党は半分死に体だったと打ち明け、「もし自分が落選していれば、自由党の存続は怪しかったかもしれない」(英: "If I hadn't survived as an MP I really don't know if there would still be a Liberal Party".)と述べている。もし彼が議席を保持できなかった場合、彼はテレビで新しいキャリアを追い求めていたかもしれないとも回想している[82]。
^この時、ソープは内務大臣職を呈示された、ないしこれに請われたとする文書がある[82][96]。ヒースはソープが「閣僚職に強い意欲」(英: "a strong preference for the post")を見せたと話したが[97]、内閣官房長(英語版)だったロバート・アームストロング(英語版)によれば、そのような任命は、議論されたものの結局退けられたという[98]。ソープは閣僚職を求めたことに関しては否定し、具体的なポスト名も出さなかったと述べているほか、ヒースが「ヨーロッパ特任の外務省職」(英: "a Foreign Office job with specific responsibility for Europe")を思い描いていたことを後から理解したとしている[99]。
^1978年6月、警察の聴取を受けたソープは、ヘイワードへの説明とは異なり、「将来の選挙で資金不足に陥らないように、鉄の備えとして置いておく資金」(英: "deposited with accountants [as] an iron reserve against any shortage of funds at any future election")だったと述べた[115]。この資金は、後にソープからヘイワードに返還された[116]。
^1963年、ロイヤルメールの列車から260万ポンドが盗まれる事件が起き、「大列車強盗(英語版)」(英: Great Train Robbery)と呼ばれた。
^ソープは当初、サッチャーの保守党党首就任を歓迎しており、ヘイワードには「[彼女は]ヒースよりずっと扱いやすい。彼女とは取引できる」(英: she was "far more amenable than Heath. I could do business with her")と書き送っている[120]。またソープはヒースについて、別の場所で「[フランベの]ブランデーをかぶったはいいが、周りに火を点けられる人が誰もいないプラム・プディング」(英: "a plum pudding around whom no one knew how to light the brandy")だと述べている[74]。
^原文:"convinced that a fixed determination to destroy the Leader could itself result in the destruction of the Party"
^原文:"You knew Thorpe to be a man of homosexual tendencies in 1961?"[179]
^1982年2月27日の『タイムズ』紙では、デイヴィッド・アスター(英語版)やロジャー・ホガート(英語版)などが署名した書簡が発表され、その中では「[ソープの任命は]アムネスティ・インターナショナルの職務を大きく損なわせる可能性があった。ソープ氏はそれまでに良識に欠ける人物だということをさらけ出していた」(英: [Thorpe's appointment] "could seriously harm the work of Amnesty International. Mr Thorpe has shown himself to be a man of unsound judgment")と述べられた[199]。
^原文:[the prosecution's case was] "shot through with lies, inaccuracies and admissions"
^原文:"Self-centred ...Mildly entertaining, slightly sinister. Said to be witty, but ... if one doesn't care for impersonations, he's really a bit of a bore".[215]
"Jeremy Thorpe had hoped to be remembered as a great political leader. I suppose they all do. And perhaps he will be remembered longer than many other politicians of his age or ours. But it will always be for the same thing. Jeremy, Jeremy, bang, bang, woof, woof."[216]
原典でマリーは、『プライヴェート・アイ』のオーバロン・ウォーが1982年に書いた文章から「ジェレミー、ジェレミー、バンバン、ウーウー」("Jeremy, Jeremy, bang, bang, woof, woof") という部分を引用しているが、ウォーはソープが敗戦した1979年の選挙で、ソープと同じノース・デヴォン選挙区から出馬し落選している[224][225]。この時ウォーは、スコットの飼い犬リンカが射殺されたことを揶揄するため、「リンカは生きている。ウーウー。全ての犬に生きる権利、自由と幸福追求の権利を与えるため、ウォーに投票を」("Rinka lives. Woof, woof. Vote Waugh to give all dogs the right to life, liberty and the pursuit of happiness") と演説した[226]。
^“A Very English Scandal review – Jeremy Thorpe’s fall continues to fascinate”. The Guardian (2016年5月9日). 2017年11月14日閲覧。 “This Jeremy Thorpe, a repressed homosexual, was up to his neck in subterfuge and intrigue and embroiled in a conspiracy to murder. [中略]After a chance meeting in 1960, Thorpe commenced a sexual relationship with a young man called Norman Josiffe, who later changed his surname to Scott.”