オランダ王国の構成国「シント・マールテン」は、シント・マールテン島(セント・マーチン島)の南半分に位置する。この島の中央には国境線が引かれており、北半分がフランス領(サン・マルタン)となっている。南半分の「オランダ領側」を英語で Dutch Side とも呼び、対して北半分を French Side とも呼ぶ。
この島は、1493年にコロンブスによって「発見」され、サン・マルティン島(スペイン語: Isla de San Martín)と命名されたが、スペインはこの島への植民を重要視しなかった。島に注目をしたのは、フランスとオランダであった。オランダ人たちは、ニューアムステルダムとブラジルの中間に拠点を欲していたのである。
1631年、オランダ人たちは町とアムステルダム砦 (Fort Amsterdam (Sint Maarten)) を築いた。島の人口は少なかったため、拠点建設は容易に進んだ。Jan Claeszen Van Campen が最初の総督になり、間もなくオランダ西インド会社が塩鉱の経営に乗り出した。同様にフランス人やイギリス人の植民者も進出した。かれらが塩の交易に成功すると、スペインもこの島の価値に気づくようになった。当時、スペインとオランダは八十年戦争を繰り広げており、この島にも戦火は及んだ。
1633年、スペインがオランダから島を奪取し、入植者たちのほとんどを追放した (Capture of Saint Martin (1633)) 。スペインは Point Blanche に砦を建設している。オランダはその後たびたびセント・マーチン島の奪回を図ったが、すべて失敗に終わっている。のちにニューネーデルラント総督を務めることになるピーター・ストイフェサントは、1644年にセント・マーチン島への攻撃を指揮するも、片足を失っている (Attack on Saint Martin) 。スペインによる占領から15年後の1648年、八十年戦争は終結するが、このころにはスペインはカリブ海の拠点経営に関心を失っており、セント・マーチン島も放棄された。
フランスとの分割
空白となった島に、オランダとフランスが再び植民に乗り出した。オランダはシント・ユースタティウス島から、フランスはセントキッツ島から、それぞれ植民者を島に送り込んだ。この過程で衝突も発生し、相手が容易に退かないことを知った双方は、全面戦争に突入することを避けるべく、1648年にコンコルディア条約 (Treaty of Concordia) に署名して島を二分した。その後、イギリスが島の支配を図り、フランス・オランダと激しく争うこととなった。1648年から1816年にかけて、持ち主の交替は16度も生じている。現在の状況が確定したのは、1815年のパリ条約である。
シント・マールテン(Land Sint Maarten)は、オランダ王国の構成国である。オランダ語では単に「国」を示す語(蘭: land)で呼ばれる「構成国」の地位はオランダ王国憲章(英語版)に定められており、シント・マールテンはアルバやキュラソー、オランダ(オランダ本国)と対等な関係でオランダ王国を構成している。内政に関しては完全な自治権を持ち、軍事・外交についてはオランダ本国政府が責任を持つ。