カンタス航空(カンタスこうくう、英語: Qantas)は、オーストラリアおよび南半球最大手の航空会社。
オーストラリアでの「Qantas」の発音は、Quantas ([ˈkwɒntəs][注釈 2][注釈 3]、クウォンタス) のように発音される。
カンタス航空はオーストラリアのフラッグ・キャリアであり、その機材数、国際便と国内便の就航都市数においてオーストラリア国内とオセアニア、南半球で最大規模の会社である。1920年11月に設立され、KLMオランダ航空、アビアンカ航空に次ぐ世界で3番目に古い航空会社で、旅客国際便開始は1935年5月である。当初の社名は「Queensland and Northern Territory Aerial Services Ltd」 (QANTAS、クイーンズランド・ノーザンテリトリー航空サービス株式会社) であった[2]。空飛ぶカンガルーの愛称がついている。ワンワールド・アライアンスの創立メンバーである。
シドニー郊外のマスコットをベースとし、シドニー国際空港をハブにしている。2014年3月時点で国内便の65%のシェアを占め、国際便ではオーストラリア国内へ入る乗客とオーストラリアから国外に出る乗客の合計の14.9%のシェアを持つ。オーストラリア国内では様々な子会社が遠隔地中心部と幹線空路にカンタスリンクの名称のもと乗り入れをしている。子会社のジェットコネクトはカンタスブランドのもとオーストラリア、ニュージーランド間を運航している。カンタスは、オーストラリアからの国際便とオーストラリア及びニュージーランドの国内線を運航している格安航空会社のジェットスター航空を所有し、多くのその他のジェットスターブランドに共同出資している。
オーストラリアは地理的に世界中から遠く離れているため、飛行時間の長い長距離便が多い。また、伝統的に客室乗務員に男性を多く採用しており[3][4]、世界で初めてビジネスクラスを導入した航空会社である。ボーイング747等の長距離用大型機材関連でボーイング社との結びつきが強いが、近年はエアバス社の機材の導入も進んでいる。
航空券の座席予約システム(CRS)は、アマデウスITグループが運営するアマデウスを利用している。 [5] [6]
カンタス(QANTAS Ltd)は1920年11月16日にクイーンズランド州で設立された。当初は内陸部のロングリーチという小さな町に本社を置き、観光飛行や州政府によって補助された郵便飛行を行っていた。
1934年にカンタスとイギリスのインペリアル航空は合弁企業を設立した。社名はカンタス・エンパイア航空(Qantas Empire Airways)で、それぞれ49%ずつの株を保有、独立仲裁者が2%の株を保有した。カンタス・エンパイア航空は、イギリス製のデハビランドDH-86 を使用してブリスベン〜シンガポール間の運航を開始した。なおインペリアル航空は1933年にロンドン〜シンガポール間に定期便を開設していたため、オーストラリアからイギリスまで飛行機で移動することが可能になった。
1938年にこの路線はショート23 Empire水上飛行艇を使用しての水上飛行サービスに置き換えられた。シドニーからサウサンプトンへのサービスは、経由地で乗客がホテルに宿泊する必要があったために9日間かかった。
カンタス・エンパイア航空の機材の多くは1939年9月から1945年までの間にオーストラリア軍に徴用され、航空機の多くは日本軍との戦闘のため(1942年カンタス航空ショートエンパイア撃墜事件など)飛行中に失われている。
1942年に日本軍がシンガポールを占領したため、ダーウィン (ノーザンテリトリー)~シンガポール間は運行停止となった。ダーウィンも空襲を受け、空港設備が破壊された。
1943年〜1944年、カンタス・エンパイア航空は、当時戦争中であった日本軍の脅威を受けつつも、パース (西オーストラリア州)とセイロン(現スリランカ)を結ぶ飛行艇による直航便を運航していた。飛行は、日本軍をはじめとする枢軸国軍による攻撃を避けるため無線なしで行われ、24時間以上かかった。セイロンで英国海外航空(ブリティッシュ・エアウェイズの前身)と連絡していた。
1947年、カンタス・エンパイア航空はベン・チフリー首相率いるオーストラリア労働党政権によって接収された。これにより連邦政府が株式の100%を保有する非上場の公営企業として存続することになった。同時に親会社のカンタスは解散した。この措置はその後の保守政権でも継続された。この様な状況にあったものの、同社は英国海外航空と共同でアブロ・ランカストリアンを用いたシドニー〜ロンドン間の運航を始めた。
1948年に、当時の最新鋭大型プロペラ旅客機であるロッキードL-049 コンステレーションの引き渡しを受け、長距離路線を中心に導入を進めた。同社のネットワークはブリティッシュ・コモンウエルス・パシフィック・エアウェイズ(British Commonwealth Pacific Airlines/BCPA)の運航を引き受けた1954年に太平洋を越えて拡張された。
1948年にはダグラス DC-4によって週1便で岩国基地への乗り入れを開始し、また1952年には、DC-4によって週2便で羽田空港への乗り入れを開始した。その後同路線はより大型のダグラス DC-6やロッキードL-188に引き継がれ、さらにデイリー化された。
1960年代には大型ジェット旅客機のボーイング707の導入を進める一方、オーストラリアからアジア及び中東経由、アメリカ並びにメキシコ経由でロンドンへの世界一周路線を運航するなど、拡張路線を推し進めた。
同社は1967年に「カンタス航空(Qantas Airways Limited)」に改名された。
1970年以降、大型機のボーイング747を導入したが、1973年に起きたオイルショックなどによる世界各国における航空需要の落ち込みを受けて拡張路線は縮小された。
1992年にオーストラリアン航空を吸収合併し、国内線が大幅に拡充された。
1993年から1997年にかけて連邦政府が保有する株の売却が行われ、民営化が実施された。ただし法律により株の51%以上はオーストラリア人が保有すると規定されている。
2001年には、完全出資子会社であるオーストラリア航空を設立し、2004年には、完全出資子会社である格安国内線航空会社ジェットスター航空を設立した。
2006年、カンタスとジェットスターの2つにブランドを統合することになり、子会社のオーストラリア航空の事業の廃止を発表した。
2012年9月6日に、ブリティッシュ・エアウェイズとの提携を2013年に解消し、新たにエミレーツ航空と提携を結ぶ事を発表した。[7]
2016年10月28日には、翌年2017年のボーイング787導入に向け新塗装を発表。フライングカンガルーの根本的要素を残しつつブランドを進化させるコンセプトのもと、カンガルーのマークに影を作り躍動感と奥行きを与え、垂直尾翼から機体後部にかけてシルバーのラインを加え高級感を演出させた。また、コクピット窓の下には伝統を受け継ぐ形でかつて尾翼に描かれていた「翼のあるカンガルー」のマークが描かれる[8][9]。
2018年3月24日に、商業飛行としては史上初となるカンガルールートの無着陸路線(パース-ロンドン・ヒースロー空港)を開設、移動距離は15,000km、17時間のフライトとなるが従来の中東を経由する便よりも3時間ほど短縮された[10]。カンタスでは最長飛行を伸ばす努力を継続しオーストラリアとヨーロッパや北米への無着陸直行便計画「Project Sunrise」を進めており、2019年10月には787-9のデリバリーフライト時に測定器を付けた社員を乗せ、ニューヨークやロンドンからのフライト(約19時間)が体に及ぼす影響を調査し[11][12]、同年12月13日に計画使用機材候補としてエアバスA350-1000に追加燃料タンク装備し最大離陸重量を増加させた改良型を最大12機契約する準備をしていた[13]。
2020年、中国武漢から流行したCOVID-19感染症の影響で各国政府の入国制限などに伴い20年3月以降順次国際線運航を縮小運休し、21年5月にオーストラリア連邦政府がワクチン接種後海外旅客受け入れを22年以降に修正したことを受け21年12月まで必要最低限の貨物便を含む国際線だけ運航するとしている。なお、国内線は20年6月以降豪州内移動規制緩和以降順次再開し、オーストラリア/ニュージーランド間の国際線タスマン路線に関して21年4月に相互に防疫隔離免除を認め両国間で「トランス・タスマン・バブル」が成立し、以降順次再開している。
カンタス航空が発注したボーイング社製航空機の顧客番号(カスタマーコード)は38で、航空機の形式名は747SP-38, 747-238, 767-338ER, 747-438, 747-438ER などとなっていた。
(*);現在は機体そのものが同社から退役している。,(**);現在は通常塗装による運航である。,(***);現在は別の特別塗装による運航である。
1992年から1994年まで当時の日本航空がカンタスのボーイング747-300(VH-EBT/EBX/EBYの3機)を運航乗務員ごとリースして運航したことがあった(コードシェア便ではなく純然たる日本航空便。また客室乗務員は日本航空が乗務していた)。当該機体は日本航空のフルカラー塗装がされていたが、後部胴体に「Operated by QANTAS」の表記があり、また尾翼の鶴丸(日本航空のロゴマーク)が小さいなどの差異があった。タイムテーブルには当該機体で運航する便について「機内でのサービスは日本航空の客室乗務員が行うが、カンタス航空の機材及び運航乗務員で運航する」旨が書かれていた。 ボーイング767-300ER型機は2014年12月27日メルボルン発シドニー着のQF767便でラストフライトとなった。後継機はA330である。 2023年5月フィンエアが同年10月から7機運用するA330-300型機の内2機を4年リースすることを発表。23年10月から路線限定で1機目がシンガポール/シドニー線で乗務員込みウェットリースされ、2機目が2024年夏季からバンコク/シドニー線で同様にウェットリースされ、2025年後半からは機体のみリースするドライリースへ移行する予定[29]でカンタスは747退役とコロナ収束による供給量不足、フィンエアはロシア迂回によるコスト削減のための機体、人員リソース活用で合意したとみられる。
日本路線は2024年5月現在、東京/羽田 - シドニーと東京/成田 - メルボルン、ブリスベンの3路線で、他路線はジェットスター航空に移管された。2019年冬期までは大阪/関西、札幌/新千歳(季節運航) - シドニーも運航しており、現在は運休中。なお、東京/成田 - ブリスベンはジェットスター航空も運航している。
マイレージサービスとして「Frequent Flyer」を運営している。ワンワールド加盟航空会社以外に下記の航空会社と提携している。
長距離路線の多い同社は、機内サービスにも力を入れている。最新鋭機材のエアバスA380全てと一部のボーイング747-400(ER型含む)はファーストクラス、ビジネスクラス、プレミアム・エコノミー、エコノミークラスの4クラスで、ボーイング747-400はビジネスクラス・プレミアムエコノミー・エコノミークラスの3クラスで[注釈 6]、エアバスA330は、ビジネスクラスとエコノミークラスの2クラスでそれぞれ構成されている。A380・B747-400(ER)のファーストクラスはスリーパーベットタイプ、A380・B747-400(ER含む)の一部にはビジネスクラスにフルフラットタイプのスカイベッドが装着されている。
また、A380・B747-400・A330-300では、全ての座席にオンデマンド式の機内エンターテイメントシステムを搭載し、AVODプログラムを用いることで多くの番組視聴などが出来る。エコノミークラス以外の座席では、ノートパソコンに対応したAC電源コンセントも搭載されている。
機内食は各クラスごとに異なるが、ファーストクラス向けにはロックプールと協力のもとで、またビジネスクラスとプレミアムエコノミークラスは、オーストラリアのシェフであるニール・ペリー監修の食事が提供される。B747-400及びA330-300にはバーカウンターも設置されており、軽食や飲み物が用意されている。エコノミークラスはスナック・軽食・紅茶やコーヒーなどの飲み物が提供され、路線によっては該当する時間帯に合わせた食事も用意される。
1969年に始まり数十年続いた初期のテレビコマーシャルキャンペーンはアメリカ人視聴者に向けたものであった。それはハワード・モリスの声でコアラが、多くの観光客がオーストラリアに来ると不満を言い、「カンタスが嫌いだ」と締めくくるものだった。このコアラのCMはこれまでずっと、最も素晴らしいCMとして賞賛された。長く続いている広告キャンペーンでは、オーストラリア国内の様々な有名な名所やベニスなどの海外の場所で、ピーター・アレンの “I Still Call Australia Home”(オーストラリアはいつになっても私の家)を子供達がコーラスする演奏が特徴となっている。カンタスはオーストラリアナショナルラグビーユニオンチームのカンタスワラビーズのメインスポンサーであり、オーストラリアサッカー協会(Australia’s national association football team)のサッカールー(The Socceroo)のスポンサーでもある。そしてフォーミュラワンオーストラリアグランプリのメインスポンサーを務める。2011年12月26日には、オーストラリアのクリケットを運営する
パリにベースを置くオーストラリア人デザイナー、マーティン・グラントが2013年4月16日に公式発表になったカンタス航空社員の新ユニフォームの責任者である。このユニフォームは、デザイナーのピーター・モリッセイの名前から、社員達に日常的にモリッセイと呼ばれた前のユニフォームに変わるものとなった。カンタスの広告大使でモデルのミランダ・カーが紺、赤、フューシャピンクが施された新しいユニフォーム披露の手助けをした。カンタスの最高責任者アラン・ジョイスはカンタス社員がモデルを務めた発表イベントで、新しいユニフォームは”グローバルな舞台においてオーストラリアのスタイルを物語るもの”と語った。グラントは、最終的に製作されることになった35スタイルに絞るために1年以上にわたりカンタス社員達と話し合った。全ての社員が新しいユニフォームに満足ではなく、客室乗務員の1人は「ユニフォームはとても窮屈で、私達が行わなければならないとても肉体的な仕事にはただ単純に現実的ではない」と話した。
ニュージーランド航空などと並ぶ世界で最も安全な航空会社の一つとされ、「1960年代のジェット化以後、60年近くにわたりジェット機で一度も全損事故を起こしたことがない」という驚異的な安全記録を誇る。
なお、一部の映画などでは「(カンタス航空は)事業開始以来全くの無事故である」とされているが、実際にはジェット機を運航する以前に死亡事故を複数回起こしている。
2005年11月、カンタス航空には同伴者のいない子供の隣に成人男性の乗客を座らせないというポリシーがあることが明らかになった。これは差別の告発につながった。このポリシーは、ニュージーランドのカンタス航空便で男児の隣に座っていた乗客が女性の乗客と座席を変更するよう求められた2004年の事件の後に明らかになった。客室乗務員はこの男性客に、「同伴者のいない子供の隣に座ることは女性だけが許可されているという航空会社のポリシーである」と述べた[35]。NSW市民自由評議会の代表であるキャメロン・マーフィー(英語版)はこの方針を批判し、「禁止の根拠はなかった」と述べた。 彼はまた、すべての成人男性が子供に危険をもたらすと仮定するのは間違っていると述べた[36]。このポリシーは、女性虐待者を考慮に入れていないことでも批判されている[37]。
2010年、ブリティッシュ・エアウェイズが子供の座席に関する方針を変更するよう訴えられたとき、カンタスは、同伴者のいない子供の隣に男性が座ることを禁止することを「両親の懸念を反映した」と再び主張した[注釈 7]。2012年8月、客室乗務員が男性の乗客が一人で旅行している無関係の女の子の隣に座っていることに気付いた後、女性の乗客と座席を交換しなければならなかったときに、論争が再浮上した。看護師であるその男性の乗客は、ペドフィリアとして他の乗客から差別され、屈辱を受けたと語った[38]。カンタスのスポークスマンは、オーストラリアおよび世界中の他の航空会社の方針と一致するものとして方針を擁護した[注釈 8]。
中華人民共和国に路線を持つことから、カンタス本体では中華人民共和国と対立を続ける中華民国(台湾)に運航ができなかった。そこで1990年にカンタスは中華民国への路線を運航するオーストラリア・アジア航空を設立した。ブリティッシュ・アジア・エアウェイズやエールフランス・アジーのように別会社を装って運航するのではなく、日本アジア航空と同様の別会社であった。航空会社コードはIATA2レターがIM、ICAO3レターがAAUであった。
いくつかのボーイング747SP及び767航空機はカンタスから移籍した。垂直尾翼のデザインは赤色の地に2つのAをシンボライズしたリボンが描かれていた。しかし、同社は1996年に運航を中止した。
MBS「ファミリー・クイズ」、「クイズ・その手にのるナ!!」(いずれも八木治郎司会)、テレビ朝日「クイズタイムショック」(田宮二郎司会)の優勝賞品の旅行協賛も担当していた。
2007年、オーストラリアからインドへと向かう便で、 ビジネスクラスのトイレで客室乗務員が俳優のレイフ・ファインズと性行為に及び、ムンバイのホテルでも一夜を共にしたと報じられた。これは、その乗務員が情報料と引き換えに新聞社に投稿したことで発覚。当該の客室乗務員は解雇された。
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