ロンドンで弁護士事務所に勤めている間も著述は続けられ、やがて雑誌に投稿するようになった。1889年にベネットは「ティット・ビッツマガジン」(Tit-Bits)の文芸コンクールで当選した。このことはジャーナリズムの仕事に傾注する励みとなった。1894年には雑誌「ウーマン」の副編集長となった。ベネットはその雑誌の記事の質に不満を示し、みずから連載小説を書いて、75ポンドを得た。この後も連載を続け、こうして完成したのが長編冒険小説『グランド・バビロン・ホテル』で1905年に出版されて大当たりをとった。娯楽物の連載や評論の執筆の一方で、本格的な小説の執筆にも取りかかり、高級誌「イエロー・ブック」に短篇小説「故郷への手紙」を発表する。自信を深めたベネットはちょうど4年ののち、ウーマン誌の編集長に昇格したころ、長編A Man from the Northを上梓し批評家の賞賛を受けた。
1900年からは雑誌の編集や評論、あるいは特別な関心をもっていた演劇の批評をやめて執筆に専念した。時を同じくしてロンドンから郊外のベッドフォードシャーはホックリフのトリニティ・ホール農場に両親とともに転居した。農場のあるウォルティング街道は1904年に出版された小説Teresa of Watling Streetの執筆を彼に思い立たせた。1902年に父のイーノックが亡くなりチャルグローヴ教会の墓地に埋葬された。同じ年、ポッタリーズ地区に住む人々の生活を描く連作の最初の作品であるAnna of the Five Townsが発表された。
多くの作品では英国の一般人の生活が現実的かつ克明に描かれて、しばしば自然主義的だと評される。ベネットは奇人変人こそが小説の主題になるという当時の認識とは逆に、市井の平凡な人々の生活も面白い小説の主題となりうると信じていた。[6]こうした作風にはエミール・ゾラやギ・ド・モーパッサンらの影響が指摘されている。特にモーパッサンの影響は自ら認めるものであり、代表作『二人の女の物語』はモーパッサンの『女の一生』からインスピレーションを得たことをその序文で述べている。[7]またモーパッサンは最初の作品で明らかに半自伝的小説であるA Man from the Northの主人公リチャード・ローチにわざわざ模範とさせている作家の一人でもある。一方で単にリアリスティックに描こうとしただけでなくある種の暖かい同情心が見られ英国伝統のユーモアの導入にも成功している。[8]
ベネットの自然主義的作風は劇的迫力や感動が欠けるという評もあったが[9]概ね同時代には受け入れられてきた。しかし時代が下ると共に批評家、特にヴァージニア・ウルフなどはその作品の弱点に注目するようになった。ウルフはベネットは心理が描けておらず外面の描写に留まっているとエッセイ「ベネット氏とブラワン夫人」の中で批判している。この批判はベネットだけでなく同時代のウェルズやゴールズワージーに対しても向けられたものだったが、ウルフや他のブルームズベリー・グループの作家たちにとって特にベネットは文学界での守旧派を代表しているとみなされていた。[10]その手法は彼らにとっては現代的というよりはむしろ因習的だと考えられたのである。
小説と同様に、多くのベネットのノンフィクション作品も時の経過に耐えてきた。彼のノンフィクションには人生啓発書が多い。最もよく知られているものの1つに、今日なお読まれているが、『自分の時間』(How to Live on 24 Hours a Day)がある。
日記はいまだ完全には出版されていない。しかし抜粋は英国のメディアにたびたび引用される。
演劇と映画
演劇に深い関心を示していたベネットは戯曲や映画のシナリオも発表しているが、小説ほどの成功は収めなかった。小説作品の映画化はしばしば実現している。小説Buried Aliveは1912年に映画The Great Adventureに作り直された。死後も同書は1968年にミュージカルDarling of the Dayの原作となった。長年にわたり彼の他の小説もアレック・ギネスの主演したThe CardやAnna of the Five Townsのように映画化やテレビドラマ化されている。
人物
ベネットは強度の吃音であり、そのために結婚が遅れたとも言われる。[13]モームはベネットの虚栄心の強さと傲慢さを述懐し、小説家として成功を収めた後もそうした性格や出自の低さから知識人からは軽蔑されることが多かった。[14]マックス・ベアボームは自分の出自を忘れてしまった社会的な成り上がり者として批判した。彼は老成し太ったベネットが若き日のベネットと対話している様子を戯画的に描いてベネットを茶化した。ベネットの性格で特徴的に挙げられるのは経済的な貪欲さであり、大作家としての地歩が確立した後も娯楽小説や雑文を書き続けたことに起因する。[15]一方で貪欲だったかどうかについては別の見解も存在する。オズバート・シットウェル[16]はジェイムズ・アゲートへの手紙の中で[17]ベネットが若い芸術家を支援するために500ポンドを彼に預けたことを挙げ、決して吝嗇で視野が狭いわけではなかったと述べている。
美食家としても知られその名に因んだ料理が存在する有名人の一人である。ロンドンのサヴォイ・ホテルに滞在中、シェフは薫製のタラを入れたオムレツを完成させ、これがベネットのたいへん気に入るところとなり、以後サヴォイに滞在するときは必ずオムレツを用意するよう求めた。このとき以来「アーノルド・ベネット風オムレツ」(Omelette Arnold Bennett)はサヴォイの定番料理になった。[18]
著作リスト
フィクション
A Man from the North, 1898年
The Grand Babylon Hotel, 1902年 『世界大衆文学全集 グランド・バビロン・ホテル』平田禿木訳 改造社 1930
^Sitwell, Osbert, Noble Essences: Or Courteous Revelations, Being a Book Of Characters and the Fifth and Last Volume, New York, MacMillan and Co., 1950.
^Ego 5. Again More of the Autobiography of James Agate., London, George G. Harrap and Co. Ltd (page 166), 1942.
^Smith, Delia (2001-2009). “Omelette Arnold Bennett”. Delia Smith / NC Internet Ltd. 2010年3月5日閲覧。