第二帝政期建築(だいにていせいきけんちく、英: Second Empire architecture)は、1865年から1880年に人気のあった建築様式であり、フランス第二帝政期に流行していた建築要素を取り入れたゆえにこの名前がある。17世紀のルネッサンス様式にその基礎を置き、それ以前のヨーロッパの様式を選択的に混合したものであり、特に二重勾配の屋根や、低く底辺が方形のドームと組み合わされることが多いバロックの様式を取り入れている[1]。
この建築様式はすぐにヨーロッパ中に広がり、さらに大西洋を越えた。大規模建築に適しており、官庁や企業のビルのデザインに広く使われた。アメリカ合衆国では、この様式を推進した建築家の1人がアルフレッド・B・ミュレットであり、ヨーロッパで見られるものよりも17世紀の建築に近いものが多く造られている[2]。
フランス第二帝政のお膝元であるフランスでは、ルーブル宮殿など既存建築に増築を施したときに、この建築様式を採用したものがある。
アメリカ合衆国では、第二帝政期建築は通常矩形の塔あるいは塔に類似した要素と組み合わされ、傾斜が急な二重勾配屋根がフランスに根ざす様式に最も深く結びついたものになっている。塔は最上階と同じ高さにするか、あるいは1、2階分高いものとなっている。二重勾配屋根の稜線には鉄製の縁が付けられることが多く、「クレスティング」と呼ばれることもある。場合によっては、避雷針がクレスティングのデザインと一体になり、装飾以上に有益なものとなっている。このクレスティングは現在も残っているものがあるが、腐食したり取り外された例も多い。建物外観は木材、レンガ、石材で表現されている。よく取り入れられている要素として、組になった柱や、ドア、窓、ドーマー(屋根窓)の回りの彫刻がある。これら装飾の目的は、建築物を堂々とさせ、壮大で高価に見せることである。
平面図で見れば、塔が中心に来る対称形であるか、塔が片方に寄る非対称形になっている。マカレスターなどは5つの小分類を設けている。
建築家H・H・リチャードソンはその初期住宅建築の幾つかにこの様式を取り入れた。その中には、全て1868年建設のマサチューセッツ州ボストンのクラウニンシールド家屋、ニューヨーク州スタテンアイランドのH・H・リチャードソン家屋、同じくバッファローのウィリアム・ドーシャイマー家屋がある。
ルランド・M・ロスはこの様式を「第二帝政バロック」と呼んでいる。グラント政権(1869年-1877年)の時代に政府の建物に人気があったことにより、ミュレットとスミスは「第二帝政あるいはグラント将軍様式」と呼んでいる。
この様式は商業建築にも使われ、また州の機関ビルの設計に使われることも多かった。いくつかの精神科病院ではその大きさや機能にこの様式が適合していた。1940年代にペンタゴンが建設される以前、オハイオ州コロンバスに第二帝政期様式で建てられたオハイオ州立精神病院は、アメリカ合衆国でも最大の1つ屋根建築物だった。ただし、カークブライドが計画した別の第二帝政期様式であるグレイストーンパーク精神病院が最大である可能性もある。
第二帝政期様式の後はアン女王様式の復古調とそれに準ずるものが流行して大きな人気を博したが、19世紀が終わる直前の1893年にイリノイ州シカゴで開催され万国博覧会の建築物で人気を得た、アメリカ建築の「リバイバル時代」が始まった。
カナダでは、1870年代と1880年代に新しい公共建築物にカナダ政府が第二帝政期様式を選ぶことになり、各州が続いた。
オーストラリアの特にメルボルンでは、1880年代の好景気時代に第二帝政期様式建築が人気となった。今日でもメルボルン市役所など多くの大きなビルが残っている。
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