沢田 廉三(澤田 廉三、さわだ れんぞう、1888年10月17日 - 1970年12月8日)は、日本の外交官。外務次官後、駐フランス特命全権大使・初代ビルマ特命全権大使を経て、再び外務次官。初代国連大使、世界経済調査会議長[1]。
人物
旧制鳥取県第一中学校から旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学仏法科卒業[2]。外交官試験に首席合格し外務省入省。外務省きってのフランス語・英語の堪能者で、戦前は宮内省御用掛を兼務し、昭和天皇通訳を務め、戦後も元首等との通訳にあたった。また、財団法人滝乃川学園理事長(第4代)などもつとめた。妻の美喜(孤児院エリザベス・サンダースホーム創設者)は、三菱合資会社社長・岩崎家当主男爵岩崎久弥の娘で、三菱財閥の創業者岩崎弥太郎の孫娘。兄の節蔵も外交官であった。駐フランス特命全権大使、外務次官を務めた。
第二次世界大戦直後は、ビルマ大使の経験をかわれて連合軍と捕虜の間の仲介も行った。1945年12月2日、磯田三郎元陸軍中将とともにインド西北部のデオリ収容所(アジュメール近郊)を訪問。収容者に日本の降伏を説明、昭和天皇による終戦の詔勅を読み上げるなどの呼びかけを行った。だが沢田と磯田を偽物として疑う者が現れ、収容所内で「勝ち組」と「負け組」による抗争が発生した[3]。
帰国後は、GHQによる公職追放を受ける。一方、親しかったポール・ラッシュ(当時GHQ参謀第2部(G2)民間情報局(CIS)所属)に麹町の私邸を提供し、ラッシュは所属するCISのオフィス「CISハウス」(別名サワダ・ハウス)としてこの建物を戦犯容疑者リスト作成の拠点として利用した[4]。沢田はラッシュと接触を求める政府関係者の窓口役にもなっていた[4]
サンフランシスコ講和条約発効後、初代国連大使(当時未加盟でオブサーバ扱い)として国際連合本部があるニューヨークに赴任、枢軸国の一員として戦い敗戦国となった日本の国連加盟に向け尽力した。ニューヨークではロックフェラー3世、ハマーショルド(第二代国連事務総長)らとの個人的親交も深める。なお部下だった西堀正弘(のち国連大使)は、澤田が加盟の日に備え自室で(議場での)演説練習を行っているのを漏れ聞いている[5] が、在任中には加盟を実現させることはできなかった。だが素地をつくり、1956年12月に、後任の加瀬俊一の在任時に国連加盟が実現、重光葵(先輩・上司にあたる)外相が議場演説した。
国連大使退任後には外務省顧問に就任。神奈川県大磯町にも在住、妻美喜のエリザベス・サンダースホーム事業に協力した[6]。
関連文書は、親族や外務省外交史料館の他に、郷里の鳥取県立公文書館に委託所蔵された。
2010年3月に資料集『澤田廉三と美喜の時代』が公刊された[7]。
年譜
栄典
その他
- 趣味はゴルフ。宗教はキリスト教。
- おしゃれで、ロンドン、セビルローのオーダーメイドの背広からステッキ、パンツに至るまでイニシャル入りの最高級品を愛用していた[12]。
家族・親族
- 親族
系譜
- 沢田家
- 沢田家は摂津源氏を祖とする医家であったが、後に漁業や製網業を営み、因幡長者といわれ連綿と続いた名家。母久子は幼くして両親と兄を失い、一時兄嫁の実家である八頭郡河原町の木下家に預けられた。17歳の時、生家に帰り、兵庫県新温泉町浜坂の豪商(庄屋・造り酒屋)森家から信五を夫に迎え、岩美町に沢田分家を創始した[13]。森家は当時、相当の知識階級であり、旧森家住宅(浜坂先人記念館以命亭)は、国の登録有形文化財に登録され保存されている[14]。信五は明治25年(1892年)以来、浦富村長、県会議員、県参事会員等に選ばれ、県政界に重きをなす一方、北海道各地で漁業、牧場などの経営に当たった。[15] 息子たちは沢田三兄弟(沢田節蔵・廉三・退蔵として有名。また伝記作家として著名な沢田謙も同族。
沢田忠兵衛━━久子 ┏沢田節蔵
┃ ┃
┣━━━╋沢田廉三
┃ ┃
森信五 ┗沢田退蔵
著書
- 『凱旋門広場』 角川書店、1950年
- 『沙鴎吟草』 1971年。私家版
- 『随感随筆』澤田廉三先生遺稿刊行会編、1990年。郷土出版
脚注
関連項目
外部リンク
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