枢軸国 の最大勢力圏 (1942年秋)。ナチス・ドイツ と大日本帝国 は最終的に東経70度線 を境にアジアを分割しようとしたが、どちらもこの線に到達することは無かった。
ソ連およびアジアの分割想定図 ドイツの主張した境界線
シベリア のエニセイ川
枢軸国のアジア分割交渉 (すうじくこくのアジアぶんかつこうしょう)では、第二次世界大戦 中に枢軸国 として知られるナチス・ドイツ 、イタリア王国 、大日本帝国 が協議したアジア 分割構想と関連する交渉について述べる。
概要
三国同盟 を結んでいた三国は、1941年12月8日の真珠湾攻撃 を皮切りに立て続けにアメリカ に宣戦布告し、世界が枢軸国と連合国 とに分断されることが決定的となった。そこで日本はヨーロッパの二国に対し、将来のアジア大陸 分割の線引きを明確に定めるよう求めた[ 1] 。12月15日、日本はドイツに対して、アジアでの軍事担当領域を東経70度線 で区切る分割案を提示した。この線は北極海 にそそぐオビ川 河口を北端とし、アフガニスタン のホースト 東方、インドのラージコート 西方を通りインド洋 に抜けるものである。ドイツがソビエト連邦 打倒を完遂した暁には、この線の西側をドイツのレーベンスラウム(生存圏 )もしくはイタリアのスパツィオ・ヴィターレ (英語版 ) に組み込み、東側を日本の大東亜共栄圏 に組み込むという構想だった[ 1] 。
当初、ドイツ側はこの案に否定的だった。外交官たちはこの提案が占領地分割の先例を作る隠れ蓑となることを危惧し、軍人も日ソ中立条約 のために日本が独ソ戦 へ協力する見込みがない上、レンドリース法 によってアメリカからウラジオストク 経由でソ連に運び込まれている補給物資を日本が断つことすらできないという状況に不満を持っていた[ 1] 。
ドイツ国防軍 の軍事経済局 (Wi Rü Amt ) も、日本案の恣意的な境界線では地域間の経済関係が寸断されるとして批判を展開した[ 1] 。ドイツ側は代替案として現状の国境線を利用した分割案を主張した。すなわちイラン 東部国境、アフガニスタン 北部国境、中国 西部国境を北上してトゥヴァ に至り、エニセイ川 沿いに北極海まで至るという線である。この案もイギリス領インド を日本に渡すことに変わりはないが、シベリア において防衛が容易な国境線を設置することができ、石炭や鉄鉱石が豊富なウラル山脈 東部のクズネツク盆地 も確保できるのである[ 1] 。ドイツは、大東亜共栄圏の北西端と接するであろう生存圏の東端を「生きる壁」すなわち屯田兵 (ヴェーアバウアー (ドイツ語版 、英語版 ) )の入植によって防衛しようと考えていた。なお、枢軸国間での西半球 での分割線に関する交渉は不明である。
アドルフ・ヒトラー は、ウラル山脈以東のソ連領の獲得に関心が無かったため、日本の分割案を全面的に受け入れた(ナチス・ドイツのウラル山脈計画 (英語版 ) )[ 2] 。
脚注
^ a b c d e Rich, Norman (1973). Hitler's War Aims: Ideology, the Nazi State, and the Course of Expansion . W.W. Norton & Company Inc., p. 235
^ Gerhard Weinberg|Weinberg, Gerhard L. Visions of Victory: The Hopes of Eight World War II Leaders Cambridge, England, United Kingdom:2005--Cambridge University Press [1]
関連項目
ナチス・ドイツ関連
イタリア王国関連
大日本帝国関連