東トルキスタン共和国亡命政府 の旗
東トルキスタン独立運動 (ひがしとるきすたんどくりつうんどう)は、中華人民共和国 の新疆ウイグル自治区 における、ウイグル 人、カザフ人 、キルギス人 等のテュルク系民族 の独立運動。
概要
元々、東トルキスタン が新疆 と呼称されたのは、大清帝国 の時代に遡る。
その後、幾多の民族同士の摩擦を経験しながら、1912年の辛亥革命 により建国された中華民国 に於いて、新疆省が置かれていた。
1949年 、中国共産党 は、新疆の接収を行うために、鄧力群 を派遣し、イリ政府との交渉を行った。
毛沢東 は、イリ政府に書簡を送り、イリの首脳陣を北京 の政治協商会議 に招いた。
しかし、8月25日 、北京 に赴くためにイリ首脳陣の乗った飛行機は、クラスノヤルスクからチタに向かう途中のソ連領内(バイカル湖南端近くのカバンスキー地区)に墜落した[ 1] 。
首脳を失ったイリ政府は混乱に陥った。
残されたイリ政府幹部のセイプディン・エズィズィ が、急遽政治協商会議に赴き、共産党への服属を表明した。
9月26日 にはブルハン・シャヒディ ら新疆省政府幹部も、国民政府との関係を断ち共産党政府に服属することを表明した。
12月までに人民解放軍 が新疆全域に展開し、東トルキスタンは完全に中華人民共和国に統合された[ 2] (ウイグル侵攻 )。
1955年 には民族区域自治 の適用を受けて新疆ウイグル自治区となった。
また中華民国政府は、現在も新疆省を呼称しており、共産党の統治を認めておらず、中共の政策を批判している。
こうした不満を背景に、中国内外の運動組織が、テュルク系住民の中国からの分離独立 を主張しており、中国統治の枠内での民族自治の拡大や、人権状況の改善を目指す活動と合わせて広義の独立 運動として言及されることが多い。
これに対して、中国政府は、 西部大開発 に象徴される大規模な経済的梃入れを新疆に実施し、住民の生活水準を向上させることで独立機運の沈静化を図る一方、分離主義 に結びつくものとして、民族主義 を鼓吹する動向に対しては過剰ともとれる厳しい取締りを実施している。[誰? ]
歴史
東トルキスタン・イスラーム共和国 軍陸軍将校
東トルキスタン共和国
満洲人による大清帝国 が漢民族 による辛亥革命 などにより崩壊すると、ウイグル民族もチベット民族やモンゴル民族と同様に独立国家設立を目指した。
中華民国を建国した漢民族は中国本土から勢力を広げて東トルキスタン、満洲、モンゴル、チベットなどの旧大清帝国の統治下にあった各民族の居住地域の支配を目指した。
これに対して、ウイグル民族は2度にわたり東トルキスタン共和国 を建国したが、漢民族を主体とする中華民国 や中華人民共和国 の侵攻により瓦解した。
1950年代以降
1955年 に成立した新疆ウイグル自治区では、1957年 の反右派闘争 により、少数民族出身の党幹部の多くが粛清された。
1958年 から開始された大躍進政策 の失敗は、住民から多くの餓死者を出すこととなった。
1966年 には、新疆にも文化大革命 が波及し、中国本土 から派遣された紅衛兵 により、旧文化の象徴と目されたモスク や、宗教指導者 に対する迫害が行われた。
1967年 には、紅衛兵 同士の武装闘争 に少数民族が動員され、多くの死傷者を出すなど、新疆の社会情勢は大混乱に陥った。
ソ連は1957年 6月に原爆 製造に関する中国への技術供与を決定し、毛沢東 は1960年 代より核兵器 の軍事開発(第9学会 )に注力した。
新疆ウイグル自治区ロプノール 付近は、1950年代から1980年にかけて軍事警備下に置かれ、核実験のための立入禁止措置がとられた。
1964年 1月に中国初の核実験 をロプノールで実施、1996年までに行われた中国による核実験45回のうち半分以上の23回が新疆ウイグル自治区において実施されたが、この核防護策がずさんな核実験の影響で被災したウイグル人に対する中国政府からの人道的な医療 保護や実験後の核廃棄物 管理も不備な状態とされる。
1980年代
文化大革命 における様々な弾圧を経て、東トルキスタンでは反漢感情が高まった[ 3] 。1981年10月には「反キタイ(反漢)」「イスラーム共和国万歳」というスローガンが出た[ 3] 。
1982年 4月、事態を重く見た中国政府は新疆における宗教問題と民族主義の問題を集中的に議論し、民族政策 の転換を図った。
1980年代 には、言論統制 が緩和され、中国政府により、文革中に破壊されたモスク の修復や、アラビア文字 を使ったウイグル語 正書法 の策定などの民族文化の振興が行われた。
また、イスラーム に対する禁圧も解除され、文革中に迫害された宗教指導者が復権した。これを好機に、ウイグル人住民の中から、民族文化の振興だけでなく、民族自治の更なる拡大や、中華人民共和国からの完全独立を主張する動きが現れた。
それは後の年代に、新疆内での過激な独立運動が多発的に発生する原因に繋がった。
1980年代には、新疆での紛争は漢族の大量入植や、中国政府による核実験 への抗議を行った1985年の12・12事件 、1988年の6・15事件 、北京での民主化デモが波及したものとされる1989年に新疆大学の学生を中心としたウイグル人学生が蜂起し、自治区政府への襲撃によって発生した5・19事件 などの暴動や反乱が頻発した[ 4] 。
天安門事件 が起きる直前の1989年 5月には、ウルムチ市 内でウイグル人、回族 の数千人のデモ隊が政府庁舎に乱入する事件が発生した[ 3] 。きっかけはイスラームを侮辱する内容の書物『性風俗』が上海で発行されたことだった(『性風俗』発行問題 [ 3] )。
また、翌年には新疆ウイグル自治区アクト県バリン郷にて、数百名のウイグル人が「東トルキスタン共和国の樹立」を叫び、武装警察官6名を殺害した。
1990年代
バリン郷事件
天安門事件 の翌年の1990年 4月5日から6日にかけて、カシュガルから30kmほどに位置する新疆西部クズルス・キルギス自治州 のアクト県 バリン郷においてバリン郷事件 が発生した。
4月5日未明、郷政府を襲撃したウイグル人住民230名余りが、コーランを唱えデモを行った。「聖戦による漢人駆逐」という反漢的なスローガンも出された[ 3] 。
説得に応じなかったデモ隊に対して郷政府所属中国人民武装警察部隊 が出動、銃撃を行い、銃撃戦 となった。
デモを指導したツェディン・ユスプら15名が射殺された[ 5] 。国際人権救援機構(アムネスティ・インターナショナル )は死者50名、6000名が「反革命罪 」で訴追されたと報告している[ 6] [ 7] 。
デモの中心になったのはキルギス人で、「われわれはトルキスタン人だ」と主張し、入植した漢民族の追放、新疆での核実験や産児制限への反対、自治の更なる拡大が求められた[ 8] 。
この大規模な武装蜂起は、鎮圧に人民解放軍や武警、新疆生産建設兵団所属の民兵が動員され、両者ともに多数の犠牲者を出している。
前年6月の天安門事件 を踏まえて中国政府および現地郷政府当局は「反革命罪」「東トルキスタン共和国の樹立を目指す分離主義による暴動等のテロ」と国家の安全を脅かすような行為であるとして認定している。毛里和子 は中国政府らによる認定について「数頭の馬、斧、少々の手榴弾で“武装”したたった200人余りの“暴徒”が共産党の支配を覆し新疆を独立させることができるは、誰が考えても現実的ではない」と指摘している[ 7] 。
作家トルグン・アルマス逮捕
1991年 のソ連邦の崩壊 による中央アジア 諸国の独立は、ウイグル人の政治的な独立を求める機運を高めた[ 9] [ 10] 。それにともない、危機感を強めた中国政府による知識人や民族エリートに対する引き締めが強化された。
1991年 にはウイグル人作家トルグン・アルマス の著作『ウイグル人 』が、「大ウイグル主義的」「民族分裂主義的」であると公的に批判され、著作が発禁処分となったほか、著者も軟禁状態に置かれた。
同1991年には、北新疆や南新疆の各都市で反政府デモが発生し、武力衝突にいたった[ 11] 。
1993年には、反政府とみられる爆破事件が発生している[ 11] 。
キルギスタン・カザフスタンの人物による批判
1994年にキルギスタン国会議員ヌルムハメド・ケンジェフ とカザフスタン のウイグル協会会長アシール・ワヒジ は、新疆のトルコ系住民のほとんどは強い反漢主義を持つが、中国共産党政府による支配が巧みで統一運動が組織できないこと、また、ロシアと異なり中国は文化的違いを認めないため、民族文化が消滅するとして批判している[ 12] 。
また両者はロプノールでの核実験を批判している。1964年以来、新疆ウイグル自治区 ロプノール 湖は核実験場として使われ、1996年までに核実験が45回に渡り実施され、1980年までに行なわれた核実験は、地下核実験ではなく地上であった。
物理学者 の高田純 は、核実験によって東トルキスタン )の広範囲の土地が放射能で汚染され、現地ウイグル人ら19万人が急死、急性の放射線障害などによる被害者が129万人に達するとしている[ 13] 。
ウイグル 人医師のアニワル・トフティ は、ウイグル人の悪性腫瘍の発生率が他の地域に住む漢民族 と比べて35%も高く、漢民族であっても新疆ウイグル自治区に30年以上住んでいるものは、悪性腫瘍の発生率がウイグル人と同程度としている[ 14] 。
ワッハーブ派による抗議
1995年7月には南疆ホータン市 で、イスラーム原理主義(復興主義)の立場にあるワッハーブ派 が、イスラーム共和国樹立を訴えた[ 11] 。当局はこのモスク管理者を解任したが、これに際して「中国共産党は宗教に干渉するな」と抗議デモを行い、警察に鎮圧されている。
アルンハン・ハジ暗殺未遂事件
1996年2月から5月にかけて、アクス、カシュガル、クチャで反体制勢力によるテロ事件や爆破事件が発生し、死者も出ている[ 11] 。
同年4月にはカシュガルやクチャで紛争が発生し、またカシュガル最大のモスクであるマイティガル寺院 の最高責任者アルンハン・ハジ暗殺未遂事件が起こっている。
ハジは中国政府寄りの人物で、一部で銃撃戦となり、9名が死亡、1700名が「新疆分裂主義者」として逮捕拘禁された。
中国政府による大規模な経済投資計画
1996年8月、中国政府は、新疆ウイグル自治区 への大規模な経済投資を発表する[ 11] 。同地区における石油・天然ガス資源開発の促進のみならず、経済発展によって社会不満を解消すること、そして独立運動を含めたウイグル問題 への対処も戦略のなかにあるともいわれる[ 11] 。
グルジャ事件
1997年 2月5日にはイリ・カザフ自治州 のグルジャ (イニン、伊寧)市内にて、大規模なデモが発生し、鎮圧に出動した軍隊と衝突して、多くの死傷者を出したグルジャ事件が発生した(イニン事件 とも)[ 15] 。
中国側は「共産党政権の転覆を目的として民族分裂主義者の破壊活動」とした。4月24日にはイリ中級法院伊寧市人民法院 は公開裁判をひらき、暴動の首謀者ユスプ・トルソンら3名を死刑 に処した。
中国当局は、東トルキスタンの民族運動の高揚を分離主義 に繋がるものとして警戒し、「厳打」と呼ばれる厳しい取締りを実施している。
アムネスティ・インターナショナル が「非公式の情報源」として伝えるところによれば、グルジャ事件(イニン事件)では事件後1,000名以上が逮捕され、30名が処刑されたとされる[ 16] 。なお香港では600名が負傷、不明者150名、逮捕者1500名と報道され[ 17] 、カザフスタンの東トルキスタン統一革命民族戦線 は、漢族住民55名、ウイグル人20名が死亡したと発表している。
ラビア・カーディルの逮捕
1999年 には全国政治協商会議 の場で中国政府の民族政策を批判した実業家のラビア・カーディル が国家機密漏洩罪で逮捕、投獄された。ラビアは新疆におけるウイグル人の人権状況改善を党・政府に対して積極的に訴えていた共産党員であり、1996年 の政治協商会議では、政府によるウイグル人抑圧を非難する演説を行っていた。公安当局は、ラビアの夫シディク・ハジ・ロウジ による翻訳(グレイヴァー「中ソ関係」[ 注 1] )とともにラビアの演説を問題視し、ラビアは1997年 に全ての公的役職から解任された。1999年 8月13日 、公安当局は、ウルムチ市内に滞在していた米国議会関係者に接触しようとしたラビアを逮捕し、米国に亡命した夫に対して「不法に機密情報を漏洩した」として懲役8年の実刑判決を下した。
ラビアの逮捕は、中国内外のウイグル人社会に大きな衝撃を与え、国外のウイグル人を中心に、中国政府にラビアの釈放と、ウイグル人への人権侵害の停止を要求する運動が展開された。こうした運動は、欧米社会の関心を集め、アムネスティ・インターナショナル やヒューマン・ライツ・ウォッチ などの人権団体による支援も行われるようになった。
2000年代
ジョージ・W・ブッシュ アメリカ大統領 と肩を組むラビア・カーディル 世界ウイグル会議 代表(2008年ホワイトハウス )
中国政府は、中央アジア諸国の在外ウイグル人社会が、ウイグル民族運動の拠点となっていることを警戒し続けており、1996年 には上海ファイブ 、2001年 には上海協力機構 を設立し、国内のイスラム原理主義 勢力の伸張を警戒するロシア や中央アジア諸国と共に、分離主義、イスラーム過激主義に対する国際協力の枠組みを構築した。
また、2001年 9月11日 の米国での同時多発テロ事件 以降、中国政府はブッシュ 政権の唱える「対テロ戦争 」への支持を表明し、ウイグル民族運動と新疆におけるテロを結びつけて、その脅威を強調している。米国のアフガニスタン侵攻 の際に拘束されたグルジャ事件関係者はキューバ のグアンタナモ湾収容キャンプ に収監された[ 18] 。収監中は中国当局者がグアンタナモを訪問して尋問に参加しており[ 18] 、アメリカ合衆国司法省 監察官のグレン・A・ファイン (英語版 ) によれば中国当局者と米軍の尋問官は協力して15分ごとに睡眠を中断させる「フリークエントフライヤープログラム」と呼ばれる人権侵害も行ったとされる[ 19] [ 20] 。
ただし、グアンタナモに収監されたウイグル人捕虜の中国への送還要請は米国は受け入れなかった。
2003年 には、これまで少数民族の固有言語の使用が公認されてきた高等教育で、漢語 の使用が中国政府によって義務付けられた。
2005年 、ライス 米国国務長官の訪中を控え、米国から人権問題での批判を受けることを恐れた中国政府は、2005年 3月14日 に「外国での病気療養」を理由にラビア・カーディルを釈放。ラビアは米国に亡命し、のち世界ウイグル会議 議長に選出され、2006年にはノーベル平和賞 候補にもなった。
真偽は不明だが、亡命したラビアによれば、2006年 から2009年にかけて14歳から25歳までの未婚ウイグル女性30万人が就業の名目のもとで強制的に中国各地に送致された[ 21] 。これを拒むものは分裂主義者、テロリストのレッテルが貼られてしまうため、ウイグル人は民族同化を行うためのものであるとして中国政府の政策を非難している[ 21] 。
2008年 3月には、新疆南部のホータン市 で、600名を超える当局への抗議デモが発生した[ 22] 。
2009年ウイグル騒乱
2009年 7月5日 のウルムチ市 内バスを襲撃するウイグル人たち
2009年 6月には、広東省 韶関市 の玩具工場で漢民族 従業員とウイグル 人従業員の間で衝突が起き、死者2名、負傷者120名を出したと報じられ[ 23] [ 24] 、翌7月には、事件に抗議する約3,000名のウイグル人と武装警察 が、ウルムチ市 内で衝突し、140名が死亡、800名以上が負傷した[ 25] 。
2009年7月5日ウルムチ事件 では、中国当局は死者は197人でありほとんどが漢民族としているが、一方、亡命したラビアによれば、事件後ウイグル人1万人が行方不明となっているとされる[ 21] 。2010年 1月30日には博訊新聞網 によって事件発生日の状況が報じられた[ 26] 。
亡命ウイグル人組織の世界ウイグル会議 の発表によれば、7月5日 、ウルムチでは事前に情報をつかみデモに備えていた武装警察隊によってデモは包囲され無差別に一斉射撃が行われ、事件当日だけでも1,500人のウイグル人男女が射殺されて、遺体は軍のトラックで運び出されたとしている[ 26] 。
また騒乱直後の2009年7月にラビア・カーディルが二度目の来日を果たしたが、中国外交部の武大偉副部長は宮本雄二駐中国大使を呼び、「日本政府が即刻、カーディルの日本での反中国的な分裂活動を制止することを求める」と述べ中国政府の強い不満を表明した[ 27] 。中国政府は、カーディルが騒乱の黒幕だと断定している[ 27] 。
運動組織
中国国外の活動
東トルキスタン におけるテュルク系民族 の運動組織は、初期の抵抗運動を除き、中国国外に運動拠点を置くものが多い。1949年 に行われた中国人民解放軍 の新疆進駐直後には、アルタイ地区 でゲリラ 活動を続けたカザフ人 軍人のオスマン や、クムル市 で武装闘争を続けたウイグル人の中国国民党 幹部ヨルバルス らの活動がみられたが、オスマンは1951年 に処刑され、ヨルバルスは台湾 に亡命するなど、いずれも早期に鎮圧された[ 28] 。
近年では、在外亡命者社会でも、中国統治下で教育を受けた若い世代の亡命者が増えつつあり、トルコ や中央アジア 諸国だけでなく、ドイツ 、スウェーデン 、アメリカ合衆国 、カナダ 等の欧米諸国に亡命後の生活拠点を置く者も多い。ヨーロッパにおけるウイグル人社会の中心地となったドイツ では、各国のウイグル人亡命者組織の上部機関である世界ウイグル会議 や、東トルキスタンに関する広報活動を行っている東トルキスタン情報センター がミュンヘン に本部を置いて活動している。また、米国 では、ワシントンD.C. に本部を置く在米ウイグル人協会 が、ウイグル人の人権状況改善のための広報活動を積極的に実施しているほか、米国議会 の支援で運営されているRFA(自由アジア放送 )がウイグル語 の短波放送 を行っている[ 29] 。
中国国外で活動するこうした団体は、アムネスティ・インターナショナル や、ヒューマン・ライツ・ウォッチ に代表される国際的な人権団体 と連携を取り、中国国内における人権侵害 の状況を国際世論に訴えている。
中国政府は、こうした中国国外における運動団体の動向を注視しており、2009年 6月4日 、亡命ウイグル人に対する違法なスパイ 活動にかかわったとして、スウェーデン 政府が駐在の中国外交官を追放する事件も起きた[ 30] 。
キルギス・ウイグル人協会
5万人のウイグル民族が住む[ 31] キルギス で1989年にはキルギス・ウイグル人協会(Ittipak)が創設された[ 31] 。
キルギスは2001年に上海協力機構 に加盟した。上海協力機構は中華人民共和国 ・ロシア ・カザフスタン ・キルギス・タジキスタン ・ウズベキスタン の6か国による国家連合 であるが、これによって、キルギスは中国政府からのウイグル民族主義(東トルキスタン独立運動)の取締を強化した[ 31] 。
ウイグル解放組織
ウイグル 人のアシル・ワヒディ (アシル・ワヒドフ)は、1950年代に中国新疆ウイグル自治区 の中国共産主義青年団 第一書記だったが、文化大革命 後、ソ連に移住し、1994年 にウイグル解放組織 (ウイグルスタン・アザト・キリシュ,Uyghur Liberation Organization[ 32] )をカザフスタン で創設した。同組織は東トルキスタン (新疆ウイグル自治区 )の中国 からの分離独立を目指し、1995年 の時点で構成員7-8千人がいたとされる。活動拠点は南カザフスタン領域のアルマ・アタ と旧タルトゥイ・クルガン州 とされる。
2000年 5月28日 、キルギス共和国 の首都ビシュケク で、キルギスウイグル人協会(Ittipak)のリーダーであったニグマット・バザホフ(Nigmat
Bazakov)が自宅近くで銃撃され殺害された[ 32] 。バザホフはウイグル解放組織に協力しなかったため、同組織に殺害されたとキルギスの調査機関は発表している[ 32] 。
しかし、多くの現地のウイグル人は、中国政府による暗殺とみており[ 33] 、またスイスの人権団体SOSトーチャー によれば、犯人とされて逮捕された4人は無実としている[ 34] 。
ビシュケクの人権団体「デモクラシー」会長チュルスン・イスラムは、キルギス共和国と中国は分離独立主義テロリストの取締に関する協定を複数結んでいるとしている[ 34] 。
またキルギス内務省はウイグル解放組織のメンバー10名を収監している[ 32] 。
世界ウイグル会議
ラビア・カーディル 世界ウイグル会議議長
ウイグル人の民族運動は、ダライ・ラマ に指導されたチベット独立運動 のケースと比較して、カリスマ性のある指導者を欠くと批判される場合が多い。
こうした批判を受けて、1990年代には、各国でそれぞれ設立されていた運動組織を統合する機運が高まった。1992年 には、イスタンブール で「東トルキスタン民族会議」が開催され、世界各国の民族運動組織や個人が集まった。
2004年 には、1996年 にドイツで設立された世界ウイグル青年会議 が「民族会議」と合流し、世界ウイグル会議 に再編された。世界ウイグル会議の初代議長にはエイサ・ユスプ・アルプテキンの子、エルキン・アルプテキン が選出された。2006年 には、ラビア・カーディル を第2代議長に選出し、国際社会に対してウイグル人問題のアピールを強めている。2012年 には東京 で代表大会が開催された[ 35] 。
東トルキスタン亡命政府
世界ウイグル会議の結成に対して、アルプテキン派以外の独立を目指す諸団体は、2004年 にワシントンD.C. に「東トルキスタン共和国亡命政府 」を設立している[ 36] 。
中国国内の活動
近年、国際世論へのアピールを強めている在外運動組織の活動と比較して、中国国内における民族運動の動向については、信頼できる情報源が限られているため、その実態は明確でないといわれる。
1968年 ごろに「東トルキスタン人民革命党」の活動があったとされる[ 37] が、中国国内における民族運動が顕在化するようになるのは、1990年代以降である。2002年 1月12日 に中国国務院 新聞弁公室 が発表した文書によれば、1990年 から2001年 までに、国内外の「東トルキスタン・テロ勢力」が、新疆で爆弾テロ、要人暗殺、暴動煽動など200件余りのテロ事件を起こし、162人を殺害、440人以上を負傷させたとしている[ 38] 。しかし、文書で指摘されている「テロ事件」がいずれも小規模なものであることから、中国政府の指定する「テロ事件」には一般刑法犯が大幅に含まれるのではないかとの指摘もある[ 39] 。
2001年 の同時多発テロ事件以降、中国政府は、こうした事件と国際テロ組織 の活動との関連性を強調している。中国政府は、中央アジアに拠点を置く「東トルキスタンイスラム運動 」が、中国国内にテロ拠点を建設し、テロリストを養成しているとして批判をしており、同組織がアルカーイダ と結びつきのあるテロ組織であると断定している。2002年 9月には、中国、米国等の働きかけにより、同団体は国際連合 からテロ組織認定を受けることとなった[ 40] [ 41] 。
北京オリンピック 開催直前の2008年 7月には、雲南省 昆明市 で起きたバス連続爆破事件に対して「トルキスタン・イスラム党」を名乗る組織が犯行声明を出した[ 42] ほか、8月には、カシュガル市 、クチャ県 で、警察施設を狙った爆破事件が相次いだ[ 43] [ 44] 。
脚注
注釈
^ John Graver, Chinese-Soviet Relations 1937-1945 (Oxford University, 1988, ISBN 978-0-19-505432-3 ) の漢訳書『对手与盟友 』(劉戟鋒等訳、社会科学文献出版社、1992年)のウイグル語訳が当局より問題視されたといわれる。
出典
^ CCCP-L1844の事故詳細 - Aviation Safety Network . 2016年11月12日 閲覧。
^ 小松編 2000 , pp. 378–381
^ a b c d e 梅村 1997 , p. 22
^ 毛里 1998 , pp. 139–141
^ 毛里 1998 , p. 139
^ 国際人権救援機構 1991年報告
^ a b 毛里 1998 , p. 140
^ 読売新聞1991年7月11日記事。朝日新聞1990年9月10日記事。
^ 小松編 2000 , pp. 381–385
^ 小松編 2000 , pp. 432–437
^ a b c d e f 梅村 1997 , p. 23
^ 毛里 1998 , p. 142
^ 高田純 「中国共産党が放置するシルクロード核ハザードの恐怖」『正論 』、産業経済新聞社 、2009年6月。 旧ソ連セミパラチンスク核実験場のデータから推定[要ページ番号 ]
^ “中国核実験46回 ウイグル人医師が惨状訴え” . 産経新聞 . (2008年8月11日). https://megalodon.jp/2008-0811-1932-46/sankei.jp.msn.com/politics/policy/080811/plc0808111717011-n1.htm 2010年5月15日 閲覧。
^ Millward 2004 , pp. 14–22
^ Xinjiang: Trials after recent ethnic unrest (Amnesty International, 21 March 1997)
^ 毛里 1998 , p. 141
^ a b “The Guantanamo 22 ”. アルジャジーラ . 2019年2月21日 閲覧。
^ House Foreign Affairs Subcommittee on International Organizations, Human Rights, and Oversight, hearing on the FBI’s role at Guantanamo Bay prison, June 4, 2008
^ “「180時間断眠も無問題」:米政府の拷問実態が明らかに ”. WIRED (2009年5月1日). 2019年7月3日 閲覧。
^ a b c “「ウイグル人1万人が消えた」=ラビア・カーディル氏、日本記者クラブで会見” . 大紀元 . (2009年7月31日). http://www.epochtimes.jp/jp/2009/07/print/prt_d17425.html
^ Uyghurs Protest in China's Remote Xinjiang Region (RFA 2008年4月1日)
^ 广东汉族维族工人械斗百多伤二亡 (VOA 2009年6月27日)
^ 汪洋要求依法公正处理旭日玩具厂群体斗殴事件 (新華網 2009年6月28日)
^ 【ウイグル暴動】ウイグル族が漢族襲撃、140人死亡 Archived 2011年1月8日, at the Wayback Machine . ( MSN産経ニュース 2009年7月6日)
^ a b “ウルムチ大虐殺事件、ウイグル人1500人以上が射殺 ”. ラジオ・フリー・アジア . 世界ウイグル会議 . 2012年5月20日 閲覧。
^ a b 中国が日本に「強い不満」、世界ウイグル会議・カーディル議長訪日で Record China 2009年7月30日
^ 小松編 2000 , p. 381
^ 水谷 2007 , pp. 207–215
^ スウェーデン、亡命ウイグル人へのスパイ活動で中国外交官を追放 (MSN産経ニュース 2009年6月25日)
^ a b c Marat, Erica (2009-08-13), “Uyghur Diaspora Faces Government Pressure in Kyrgyzstan” , Jamestown Foundation Eurasia Daily Monitor 6 (156), http://www.jamestown.org/single/?no_cache=1&tx_ttnews%5Btt_news%5D=35406 2012年7月13日 閲覧。
^ a b c d [1] Aziz Soltobaev, UYGHUR LIBERATION ORGANIZATION STRIKES AGAINST COLLABORATORS,CACI Analyst発表、2000年8月5日。
ジョンズ・ホプキンス大学 中央アジア・コーカサス研究所(Central Asia-Caucasus Institute).
^ Millward, James (2004),p.20
^ a b [2] 社団法人 部落解放人権研究所、SOSトーチャーNo.3257 キルギス,2002.1.10記事.
^ “【Rabiye Qadir】世界ウイグル会議 第4回代表大会開会式&懇親会” . 日本文化チャンネル桜 . (2012年5月17日). https://www.youtube.com/watch?v=hhXj4BEaC1c
^ 水谷 2007 , pp. 65–88
^ Millward 2004 , p. 7
^
「国务院新闻办发文《“东突”恐怖势力难脱罪责》 」(人民網 2002年1月21日)
[3] (中国語)
[4] (英語)
[5]
[6]
[7] (日本語)
^ Millward 2004 , pp. 11–14
^ Security Council Committee adds Name of an Individual and an Entity to Its List, Press Release SC/7502, 11 September 2002
^ The Consolidated List of the United Nations Security Council's al-Qaida and Taliban Sanctions Committee
^ 中国のバス爆破、ウイグル独立組織が犯行声明 五輪施設攻撃も予告 (MSN産経ニュース 2008年7月26日)
^ ウイグル国境警備隊施設襲撃、警官ら32人死傷 五輪妨害テロか (MSN産経ニュース 2008年8月4日)
^ 五輪妨害テロか? 中国新疆で爆発、2人死亡 (MSN産経ニュース 2008年8月10日)
参考文献
関連項目
外部リンク