『日本百名山 』(にほんひゃくめいざん)は、文筆家 で登山家 だった深田久弥 が実際に登頂した日本の各地の山 のうち、自ら定めた基準で名峰100座を選び主題とした山岳 随筆 集および、そこで紹介された山々である[ 1] 。
雑誌『山と高原』に1959年(昭和 34年)から4年連載した随筆[ 1] などを基に書籍化し、初版は1964年 (昭和39年)7月に新潮社 で刊行された[ 2] 。翌年、第16回読売文学賞 (評論・伝記賞)を受賞した。
概要
計100座の日本の名峰が各4頁(2000字)程度に巧みにまとめられた随筆である[ 2] 。山の地誌、歴史、文化史、文学史、山容に関する研究書であり、山格を論じたものであり、登頂にいたる過程の随想であって、紀行文集とは異なる。山の選定は、深田の登山経験によるもので、1942年(昭和17年)の『山頂山麓』、1948年(昭和23年)の『わが山山』、1952年(昭和27年)の『をちこちの山』、1959年(昭和29年)の『わが愛する山々』などの山岳紀行がもとになっている。本書における山の記述が、登山解説書や様々なホームページ で引用されることがある[ 3] 。
登山紀行 として見たときの『日本百名山』は、他の著名な山岳随筆であるウォルター・ウェストン 『日本アルプスの登山と探検』や、小島烏水 、志賀重昂 、田部重治 、冠松次郎 、串田孫一 などの諸作品と比較すると、一座あたりの文章量は少ない。
深田久弥の日本百名山の選定基準
日本の多くの山を踏破した本人の経験から、「品格・歴史・個性」を兼ね備え、かつ原則として標高 1500 m 以上の山[ 注釈 1] という基準を設け、『日本百名山』を選定した。1961年(昭和36年)に上高地 で開山祭 である「ウェストン祭」の講演で日本百名山の選定基準を披露している[ 4] 。
山の品格 :人には人格 があるように、山には「山格」のようなものがあるとし、誰が見ても立派な山だと感嘆する山であることを、第一の基準とした[ 5] 。
山の歴史 :昔から人間との関わりが深く、崇拝され山頂に祠 が祀られている山であるというような山の歴史を尊重し、第二の基準とした[ 5] 。
個性のある山 :芸術作品 と同様に、山容・現象・伝統など他には無いような顕著な個性をもっていることを、第三の基準とした[ 5] 。
また「本人が登頂した山であること」が、絶対条件となっている。少年の頃から約50年の間に相当数の山に登っていて、多くの山を知っている点に自信を持っていた[ 5] 。
前記の基準に加えて、観光的に開発されつくして「山霊のすみかがなくなっている」ような山は選ぶわけにはいかないと述べ、中学時代を過ごした福井県の荒島岳 に触れて、「各県から代表の山を選ぶ」というような考えも持っていたとしている[ 6] 。なお、47すべての都道府県 から選んだわけではなく、百名山の存在しない都道府県も、西日本 を中心に16府県に及んでいる。及第すれすれの山を選ぶ心情を「愛する教え子を落第させる試験官の辛さに似ていた」と述べている。
「自分の選定の試みは、旅行業界が観光振興のために選んだ「名勝百選」のようなものに比べれば正確だ」と自負する一方、自分の基準が唯一の妥当な選定基準ではないことも認めていた。新潮文庫 版の『日本百名山』では、解説を執筆した串田孫一 が「読者が自分で百名山を選定する際のたたき台として使えることもこの本の魅力」という意見を述べている[ 7] 。
他の候補
北海道 では9座が選定され、他にウペペサンケ山 、ニペソツ山 、石狩岳 、ペテガリ岳 、芦別岳 、駒ヶ岳 、樽前山 なども有力な候補としていたが、登頂していないことにより除外された。
東北地方 では、秋田駒ヶ岳 と栗駒山 も候補としていて、森吉山 、姫神山 、船形山 は標高が低いことから除外された。
上信越 は最も選定に迷った地域で、女峰山 、仙ノ倉山 、黒姫山 、飯縄山 、守門岳 、荒沢岳 、白砂山 、鳥甲山 、岩菅山 なども候補としていた。日本アルプス からは28座が選定されたが、雪倉岳 、奥大日岳 、針ノ木岳 、蓮華岳 、燕岳 、大天井岳 、霞沢岳 、有明山 、餓鬼岳 、毛勝山 、大無間山 、笊ヶ岳 、七面山 なども候補としていた。
北陸地方 では、笈ヶ岳 と大笠山 を入れるべきと考えていたが、登頂していなかったため除外された。自身の出身地では、荒島岳 と能郷白山 から前者を選択した。
関西地方 では、藤原岳 と比良山 が標高が低いため除外され、御在所岳 は山頂が遊園地 化して世俗化していたため除外された。
中国地方 では氷ノ山 を次の候補としていて、蒜山 や三瓶山 などなだらか山が多く物足りなく感じ、鳥取県の大山 1座のみの選定に至った。
四国 では迷うことなく、石鎚山 と剣山 を選定した。
九州 では由布岳 、市房山 、桜島 も候補となっていた[ 5] 。
深田が百名山の有力な候補として上げた山の多くは、後に深田のファン団体「深田クラブ」が選定した日本二百名山 に選定されている。
日本百名山の背景
山岳雑誌『山小屋』での初期構想
深田は、第二次世界大戦 前には日本のめぼしい山にすべて登っており、その中から百名山を選ぶという構想を持っていた[ 5] 。全国88座の山を記した谷文晁 の「日本名山図会」を念頭に置いたともいわれる。1940年 (昭和15年)3月から、出版社であった朋文堂から山岳雑誌の『山小屋』で日本百名山の初期の構想であった連載を始めた。その初回で「日本百名山を選ぶのは、多年の僕の念願であった」と記載して、400-600字程度の短編に自身が撮影した写真を付けて、毎月2座合計以下の20座の連載が行われた[ 8] 。
高千穂峰 、乗鞍岳 - 3月号
岩菅山 、妙高山 - 4月号
燧ヶ岳、至仏山 - 5月号
五竜岳、蓼科山 - 6月号
宝剣岳 、高田大岳 - 7月号
白山、会津駒ヶ岳 - 8月号
薬師岳、太郎山 - 9月号
高妻山、霧ヶ峰 - 10月号
赤岳 、開聞岳 - 11月号
湯ノ丸山 、岩手山 - 12月号
『岳人』選定による日本百名山
1947年(昭和22年)より東京新聞 出版局から創刊されている山岳雑誌の『岳人 』では奥山章 、冠松次郎 、辻村太郎 ら54名のアンケートにより1年余りかけて選考が行われ、1953年 (昭和28年)の3月号(59号)で「岳人選定による日本百名山」がまとめられた[ 9] 。78座が、後に出版された深田久弥による『日本百名山』と一致していた。標高1500 m 以上であることをあくまでも原則として、山容のよいこと、景勝地 であること、山頂からの展望が優れていることなどが選考条件となり、特に「登山 の対象として面白い」が主眼とされていた[ 9] 。
深田久弥による百名山と一致した山
大雪山、十勝岳、阿寒岳、斜里岳、八甲田山、八幡平、岩手山、鳥海山、早池峰山、東北朝日岳、飯豊山 、月山、蔵王山、吾妻山、磐梯山、会津駒ヶ岳、魚沼三山 、谷川岳、武尊山、日光白根山、男体山、燧ヶ岳、至仏山、平ヶ岳、苗場山、那須岳、赤城山、天城山、丹沢山、両神山、雲取山、甲武信ヶ岳、金峰山、瑞牆山、浅間山、蓼科山、八ヶ岳、妙高山、火打山、富士山、白峰三山 、鳳凰三山 、甲斐駒ヶ岳、仙丈ヶ岳、塩見岳、悪沢岳、荒川岳、赤石岳、聖岳、木曽駒ヶ岳、空木岳、木曽御嶽山、恵那山、乗鞍岳、焼岳、槍ヶ岳、穂高岳、笠ヶ岳、白馬岳、五竜岳、鹿島槍ヶ岳、常念岳、鷲羽岳、薬師岳、立山本峰、剱岳、黒岳、白山、荒島岳、大峰山、大台ヶ原山、伊吹山、伯耆大山、石鎚山、剣山、九重山、霧島山、阿蘇山
深田久弥による百名山と一致しなかった山
ペテガリ岳 、石狩岳 、神威岳 、仙ノ倉山 、白砂山 、妙義山 、榛名山 、国師岳 、戸隠山 、岩菅山 、笊ヶ岳 、唐松岳 、燕岳 、針ノ木岳 、烏帽子岳 、毛勝岳 、奥大日岳 、鈴鹿山 、氷ノ山 、八重山、雲仙岳 、傾山
雑誌『山と高原』での日本百名山の連載
1959年 (昭和34年)3月から、朋文堂の雑誌『山と高原』で毎月2座の日本百名山の連載が始まった。山の地誌・歴史、文化史、文学史、山容、自身の登頂記などを2000字程度に簡潔にまとめ、50回連続して1963年 (昭和38年)4月号まで書き継がれた[ 10] [ 11] 。初回は鳥海山と男体山、最終回は筑波山と富士山だった。山の愛好者から好評を得て、この雑誌の読者による人気投票で第1回読者賞を獲得した[ 11] 。その後、1年余りの推敲が重ねられて、1964年 (昭和39年)に新潮社 から『日本百名山』の単行本が出版された[ 2] 。各山の文章中に、山周辺の地図と山の白黒写真が挿入された版もある。好評を得て、深田のこの著書が第16回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞した。その贈賞式は1965年 (昭和40年)2月6日に、読売会館 で行われた。
日本百名山のその後
深田久弥 終焉の地の茅ヶ岳 。1971年3月21日に山上で、脳卒中で急逝。
深田はこの本の出版後も相変わらず山に登り続けて、ぜひ百名山に入れたいと思ういくつかの山を知った。それらは標高としては第2線級ではあるが、その山容の美しさや品格のある点では3000 m峰 にも劣らなかったと記している[ 12] 。1971年 (昭和46年)に出版された山岳紀行エッセイ 集『山頂の憩い-「日本百名山」その後』では、20座程が紹介された。ニペソツ山 については、「日本百名山を出版した時、この山をまだ見ておらず、ニペソツには申し訳なかったが百名山には入れなかった。実に立派な山であることを登ってみて初めて知った。」と記載している[ 13] 。多くの人の意見を聞いて若干の山の差替えをするつもりのようであったが[ 5] 、結局1964年の出版後に百座の入替えが行われることはなかった。『山頂の憩い-「日本百名山」その後』が遺作 となり、1971年3月21日登山中の山梨県の茅ヶ岳 にて、脳卒中 で急逝した。
なお、本書に続いて深田は、1970年 (昭和45年)に山岳雑誌『岳人』の1月号(第271号)から『世界百名山』の連載を始めた。41座まで書かれたところで急逝し未完成となったが、『世界百名山―絶筆41座』が新潮社より出版された[ 14] 。 登山史の深い検証や幅広い文献収集を土台としており、日本百名山以上の名著とする評価もある。
1982年 (昭和57年)から、茅ヶ岳山麓の山梨県韮崎市 で深田の遺徳を偲ぶ碑前祭である「深田祭」と記念登山のイベントが毎年実施されている[ 15] 。
2002年 (平成 14年)12月に、石川県 加賀市 大聖寺に「深田久弥 山の文化館」がオープンした[ 16] 。
2007年 (平成19年)には屋久島のガイド・島津康一郎が日本百名山を48日間(6月14日~7月31日)で連続踏破し、平田和文が2002年に達成していた最短記録(66日間)を更新した[ 17] 。2014年 には山岳ガイドの藤川健がさらに記録を短縮し、33日間(9月1日~10月3日)という日本百名山登頂の最短記録を達成した[ 18] [ 19] 。
個人の日本百名山の登頂記の書籍が多数出版されている[ 20] 。
日本百名山ブーム
本書は紀行文集でも案内書でも、まして登山入門書でもないのだが、この本を通じて、今まで知らなかった日本の山々の魅力を知り、自分もこれらの山に登ってみようという人たちが、登るべき100の山の指標だという勘違いから「日本百名山ブーム」が起き、21世紀も継続している[ 21] 。百座のうち自分がいくつ登ったか増えていくのを楽しみにしている読者もいる[ 7] 。ただし、深田久弥自身は戦前以来の経験豊富な仲間との奥深い「避衆」登山を好み、一方で第2次RCC の奥山章などの若い世代のパイオニア的な登山も背後から奨励していただけに、そのような登山初心者の風潮にいささか困惑していた。
一方、自分で山岳の探究をせずに「日本百名山」だけに人々が群がり、シーズン中の百名山周辺の山小屋 が旅行会社のツアー客も交えて混雑し、登山道 が荒廃するような山登りのありかたを批判する意見もある[ 22] [ 23] 。もとより深田久弥の「罪」とされているわけではないが、国内外で1500座以上の山岳を登頂した山歴を持つ今西錦司 は、百名山は深田がいわば酔狂と身びいきで選定したもので、基準も関東 中心で絶対的ではないとした。そして、筑波山 のように東京から見える山ではなく、標高も1500メートルにも満たない低山ではあるが、生態系 の多様性や歴史・伝承に満ちた集落を有し、「日本百名山」に匹敵する立派な山が京都北山の奥深くにあるのを知っている。しかし、「深田百名山」のように荒らされると困るので、どこの山なのかは絶対に書かないと、京都学派 らしく皮肉っぽく述べている[ 24] 。
選定された百山の一覧
著書順の山の一覧
深田久弥の『日本百名山』に記述されている百座を、その順に以下のリストに示す[ 2] [ 25] 。国立公園 内にある山、各都道府県の最高峰 、火山 などが多数含まれている。3000 mを越える山 が13座含まれている。高い山が少ない西日本の山の選定数は少なく、選定されていない都道府県が多数ある。
各項目の▲記号をクリックすることにより、ソートすることが可能である[ 注釈 2] 。
地域ごとの山名一覧
北海道
東北・上信越
関東
中部
西日本
登山規制情報
草津白根山 :ランクBの活火山であり、2007年(平成19年)12月1日より噴火警戒レベル が設定されている。2014年(平成26年)6月3日に気象庁は火口周辺警報を発表、噴火警戒レベルを「レベル2(火口周辺規制)」とし、湯釜火口から1 km以内を立入禁止とした[ 26] 。
浅間山 :ランクAの活火山 であり、山頂周辺(2010年4月以降は、火口から500 m 以内)への立入りが禁止されていて、火山活動に応じて禁止区域が変更されている[ 27] 。
焼岳 :ランクBの活火山であり、1991年 (平成3年)に北峰への登山規制が緩和されたが[ 28] 、最高点の南峰への立入りは火山ガス や崩落の危険があるため立入りが禁止されている[ 29] 。
御嶽山 :ランクBの活火山であり、2014年9月27日の噴火に伴い、噴火警戒レベルは「レベル1(平常)」から「レベル3(入山規制)」に引き上げられており、火口から居住域近くまでの入山が規制されている[ 30] 。
大山 (鳥取県) :稜線の崩落が激しくカミソリ状になっており、登山道は弥山までで剣ヶ峰を含む縦走路は立ち入り禁止となっている。(詳細は当該項目を参照)
阿蘇山 :ランクAの活火山であり、西火口への立入り規制がある[ 31] 。
霧島山 :構成する御鉢 、新燃岳 の山は噴火警戒レベルに応じて、立入り規制が行われている[ 32] 。
他の百名山
昨今では様々な“名山”が選定されたり、書籍・冊子として刊行されたりするようになった(数は百ちょうどとは限らない)。以下にその例を挙げる。
日本三百名山 :日本山岳会 の『山日記』編集メンバーによって1978年に選定された。ここで選定されたのは200の山で、それに深田久弥の百名山を加えて300としている。
日本二百名山 :深田久弥のファン組織「深田クラブ」によって、同クラブ創立10周年を記念して1984年 (昭和59年)に選定された。三百名山のうち深田選でない二百座から百を選び深田の百名山と合わせて二百とする、というコンセプトであるが、最終的に三百名山に含まない奥只見の荒沢岳 が加えられた。
花の百名山 :作家である田中澄江 の『花の百名山』に掲載された100の山。深田久弥の百名山と重複するのは39座のみである。その後、『新・花の百名山 』も刊行されている。
この他に、北海道百名山 、東北百名山 、うつくしま百名山 、山梨百名山 、関西百名山 、四国百名山 、九州百名山 など各地の百名山、岩崎元郎 選の「新日本百名山 」、小林泰彦 選の「日本百低山」などもある。飛騨山岳会では創立100周年を記念して2008年 (平成20年)9月に『飛騨百山』を出版した[ 33] 。他にも下表に示す地元の自治体 、山岳会、出版社 及び新聞社 が選定した各県や地方の百名山などがある。2002年(平成14年)には、山岳写真家 の白川義員 が中心となり「世界百名山 」を選定した[ 34] 。
日本全国の百名山
日本全国の百名山が複数あり、特に読売文学賞を受賞した深田久弥の『日本百名山』はよく知られている。
日本各地の百名山など
書誌・関連書籍
『日本百名山』の本は多数重版され、改版や新装版も出版されている。深田久弥自身の著書の他に、深田久弥に関するものや、日本百名山のすべての山を解説する登山ガイド本などが多数出版されている。他にも、ビデオ ・DVD なども、多数出版されている。
深田久弥自身の著書
深田久弥『日本百名山』新潮社 、1964年。 ASIN B000JAFKT2、改訂新装1991年。ISBN 4103184051
深田久弥『日本百名山』朝日新聞社 (全12巻)〈山の文学全集5〉、1974年。 ASIN B000J99R7Y
深田久弥『日本百名山』朝日文庫 (全6巻)〈山の文庫1〉、1982年。 ASIN B000J7N024
深田久弥『山頂の憩い』新潮社 、1971年。
深田勝弥解説『山の詞華集 深田久弥『日本百名山』から』冬花社、2022年11月。ISBN 4908004463
深田久弥以外の著書
紀行文・登山解説書
翻訳
trans. by Martin Hood One Hundred Mountains of Japan (University of Hawaii Press 2014)
テレビ番組
『日本百名山』[ 42]
NHK BS2 (当時)の番組。1994年4月5日に八ヶ岳からスタート。ナレーションは相川浩 。
『花の百名山』[ 43]
NHK BS2(当時)。1995年4月3日にスタート。ナレーションは渡辺美佐子 。
趣味百科 『中高年のための登山学』
NHK教育テレビ (当時)の番組。1995年 放映。講師は岩崎元郎 、司会はみなみらんぼう が務めた。ただし、内容は登山の基礎を扱ったもので日本百名山を扱ったものではない[ 44] 。
趣味悠々 『中高年のための登山学~日本百名山をめざす』[ 45]
NHK教育テレビ(当時)の番組。第1シリーズは1997年 7月3日に開聞岳からスタート。第2シリーズは1998年9月7日に雲取山からスタート。講師は岩崎元郎。司会は山内賢 [ 46] 、中高年登山者を中心に、さらにブームを拡大する契機となった。
『にっぽん百名山 』
NHK BS の番組。旧・NHK BSプレミアム 時代の2012年 7月2日に大台ケ原山からスタート。 2023年12月よりNHK BSへ移行(NHK BSプレミアム4K でも放送)。
『絶景百名山』
BSフジ の番組。2010年11月19日の「穂高岳・秋」でスタート。
『百名山温泉紀行』
BSフジの番組。
『グレートトラバース 〜日本百名山一筆書き踏破〜』[ 47]
NHK BSの番組。プロアドベンチャーレーサーの田中陽希 が、屋久島・宮之浦岳からスタートし、北海道・利尻島の利尻岳まで総移動距離7800 km、累積標高100 kmを、およそ200日間で踏破することを目指す。その行程では動力付き交通機関を一切使わず、自分の脚とカヤック だけで移動する。2023年11月まではNHK BSプレミアム(当時)で放送。
『深田久弥の日本百名山』
1994年 (平成6年)から翌年にかけてNHK BS2(当時)で、映像と深田の文章を交えて一山につき10分ずつ全山が紹介された[ 48] 。
脚注
注釈
出典
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
日本百名山 に関連するメディアがあります。
外部リンク